季節は巡り、隣のあなたはいつでも美しい

歩いて歩いて、家に帰る

 その日、須藤藤乃が花屋の店じまいを終え、売り上げを計算しているとスマホが震えた。



「はいはい。瑞希、どした?」

『藤乃、今いい?』



 スマホの向こうで幼馴染が押し殺したような声を出していたが、藤乃はあえて指摘しなかった。

 藤乃の妻である幼馴染の妹、花音も時折似たような声を出す。



「いいよ」

『お前、次の休みいつ?』

「明後日」

『ちょっと付き合ってくれない?』

「いいよ」

『じゃあ、朝迎えに行くわ』



 それだけ言って、通話は切られた。

 藤乃はスマホを置いて、計算の続きに戻った。

***

 二日後の朝、瑞希から連絡を受け、藤乃は家を出た。

 店の駐車場に瑞希が車を止めていたので、藤乃は助手席に乗り込んだ。

 瑞希は挨拶もそこそこに車を出した。


「おはよ、瑞希。どこ行くの?」

「山」

「なに、俺埋められるの?」

「そんなことしたら、俺が花音に埋められるだろうが」


 藤乃はくつくつ笑って窓の外を眺めた。車窓の景色は街中から農村へと移り変わっていく。

 一時間ほど走り、やがて車は山の麓の駐車場に止まった。

 藤乃は助手席から降りて体を伸ばす。


 遠くからは川のせせらぎが聞こえ、合間に鳥の鳴き声もどこからか聞こえてくる。

 駐車場の周囲は山と草原しかなく、普段都市部に住んでいる藤乃には珍しい光景だ。


「俺、ここくるの初めてだわ」

「俺もだよ」


 瑞希は機嫌が悪そうに顔をしかめ、歩き出した。


「どこ行くのさ」

「どこも行かない。歩くだけだ」


 藤乃の問いに、瑞希は振り返りもせずに答えた。藤乃は辺りを見回しながらついていった。


「散歩なら一人でやれよ」

「遭難したら困るだろうが」

「遭難しなさそうな場所でやれよ」


 瑞希は答えず、けもの道を歩いた。

 その先には小川があり、下流にキャンプ場があることに藤乃は気づいた。そちらからは、朝だというのに賑やかなざわめきが聞こえてくる。

 瑞希はキャンプ場には目もくれず、上流へと向かった。

 藤乃も、濡れた石で滑りそうになりながらついていく。

 こんなことならスニーカーではなく、踏ん張りがきく靴にすればよかったと後悔したが、手遅れだった。

 やがてキャンプ場の喧騒が聞こえなくなり、川辺から離れて、さらにけもの道を進んだ。

 せせらぎも聞こえなくなったところで、瑞希の歩みが遅くなった。

 辺りはすっかり濃い緑に囲まれていて、藤乃は木漏れ日を浴びながら瑞希と並んで歩く。


「あのさあ……澪と喧嘩したんだけど」

「澪さんと? へえ、あの人怒るんだ?」


 澪は瑞希の妻だ。

 瑞希と結婚して五年ほどになるが、物静かで穏やかな女性で、彼女が不機嫌になる姿を藤乃は想像できない。


「怒ることもある」


 瑞希は歩きながら、重々しい口調で言った。


「どうせ瑞希が悪いんだろ?」

「うるせえな、どうせ俺が悪いよ。……花菜のオムツを買ってきてくれって頼まれたのに忘れて、指摘されて逆切れして」

「最悪」


 花菜は瑞希の娘で、藤乃の下の子と同い年の、生後半年ほどの子だ。


「その後、澪が買いに行くから花菜見とけって言われてたのに、それも忘れて寝てて」

「ウケる」

「ウケねえよ。つーか、あれだな。怒られたんじゃなくて呆れられたんだな。それで俺は謝ればいいのに、うちの親にまでやいやい言われて不貞腐れて、今に至る」

「一から十まで瑞希が悪いじゃん」

「……だよね」


 瑞希はようやく立ち止まり、ぼんやりとした顔で木立を見上げている。藤乃も同じように木立を見上げた。

 濃い緑の隙間から光がちらちらと射し、時折、鳥が羽ばたいて木々を揺らした。


「……間に合うかな」


 瑞希がささやくような声で言った。

 藤乃が答える前に、瑞希は足元の石を蹴った。

 転がった石は近くの藪に引っ掛かって止まる。

 もう一度蹴ると、今度はもう少しだけ遠くへと転がった。

 それを見て、瑞希は小さく頷いた。


「……ほんと、お前の言うとおりだ」


 瑞希は再び上を見た。

 藤乃もつられて見上げると、木々の隙間をトンビが飛んで行くのが見えた。


「帰る」


 瑞希は踵を返した。

 藤乃も何も言わずについていく。

 小川まで戻ったところで、瑞希が振り返った。


「何か買っていったほうがいいかな」

「それより、素直に謝った方がいいと思う」


 藤乃がそう言うと、瑞希は顔をしかめた。


「そうだけどさあ」

「さっさと帰って、育児した方がいいと思う」

「そうなんだけどさあ! ……澪は、呆れたら、次は冷めてそうでさ」


 瑞希の眉が下がったのを見て、藤乃は肩をすくめた。


「何か晩飯になりそうなものでも買って帰れば」

「嫌だ、飯は澪が作ったものが食いたいんだ」

「お前反省する気ねえだろ」


 呆れた顔で藤乃は言った。


「悪かったと思ってるんだよ。だから、それを見える形でだな」

「ちゃんと謝って、澪さんの言うとおりに花菜ちゃんと過ごすのが一番反省が見えると思うよ」

「正論言うなよ」


 藤乃は足を止めて、瑞希の丸まった背中を眺めた。

 笑いそうになるのを堪えて口を開く。


「なら俺を付き合わせるな」

「ほんとだよ。……さっさと帰って謝るわ」


 瑞希は肩を落として駐車場へと戻った。

 藤乃も特に何も言わずについていく。

 車に乗った後も会話はない。

 藤乃は時折スマホで風景の写真を撮り、花音に送った。

 瑞希はそれを横目で見たが、何も言わずに車を走らせ、途中の道の駅に立ち寄った。

 藤乃が手洗いから戻ると、瑞希は地元の銘菓や野菜をいくつか買っており、袋を二つに分けていた。


「これ、花音に渡しといて」


 顔をしかめた瑞希から差し出された紙袋を受け取り、藤乃はその中身を見た。菓子と柑橘、そしてイチゴが入っている。果物に興味のない藤乃には、それがミカンではないことくらいしかわからない。

 だが藤乃の子供たちはミカンが好きだから、きっとこれも喜ぶのだろう。


「適当に買ったから、花音と子供らとで食え。……今日、お前を借りた分」

「ありがと」


 藤乃は紙袋を持ち直し、瑞希とともに車に戻った。

***

 数日後、藤乃が花屋の店番をしていると瑞希が大量の花を抱えて納品にやってきた。

 藤乃はそれを受け取り、バケツに移した。


「澪さんに許してもらえた?」

「うん。お土産持って帰って、普通に謝ったら普通に許してくれた」

「そりゃよかった」

「でもちょっと小言言われたし、花菜を抱っこしようとしたらギャン泣きされた」

「自業自得だろ」

「本当にな」


 瑞希はニヤッと笑って、納品書の控えを受け取った。


「お前と花音が喧嘩したら、今度は俺が散歩に付き合ってやるよ」


 藤乃は一瞬目を見開いてから吹き出した。


「俺は逆切れなんかしない。その場で泣いて謝るから」

「そうだったわ。じゃあ、散歩に付き合うなら花音の方だな」


 瑞希は軽く手を振って帰っていった。

 藤乃はその背中を見送り、大輪の花々を店頭に並べていった。

 次はもう少しグリーンを多めに持ってきてもらおうか。

 抱えた花の葉を落としながら、あの山の濃い緑を思い出した。
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