季節は巡り、隣のあなたはいつでも美しい
走れ、走れ
「おとーさーん、走る練習しよ」
「無理」
テレビから子ども向け番組の歌が流れる居間で、須藤藤乃は藤也の頼みを即座に断った。
「なんでえ」
「お父さん、走るの遅いから。亀より、カタツムリより遅いよ……知ってるだろ」
実際、少し走っただけで息が上がる藤乃を、子どもたちは何度も見ていた。
それに数年前、藤也の初めての運動会の親子競技で転んだとき、あとで藤也がからかわれていたことを藤乃は忘れられなかった。
「今年は、お父さんといっしょに走るやつ、勝ちたいんだもん」
言い募る藤也に、藤乃は顔をしかめた。
「おにいちゃん、おとうさんはむりだよ」
「おにいちゃん、おとうさん、おそすぎて、ようちえんのうんどうかい、できんなんだよ」
桔花と蓮乃に言われて、藤乃はますます渋い顔になった。
「流石に運動会は出禁じゃないよ。前に親子リレーで盛大に転んだから、『危ないので無理しないでください』って、やんわり言われただけだよ」
つまり、幼稚園の運動会を出禁になったわけではなく、親子競技への参加を止められているだけだ。
それはそれでかっこ悪い話だと藤乃もわかってはいたが、今さら自分の運動音痴をどうにかできるとは思っていなかった。
「ていうか、蓮乃はどこで出禁なんて聞いたんだよ」
「おかあさんが、りっちゃんママとはなしてた」
「あ、そう……」
「もう、そんなのどうでもいいから、走る練習!」
痺れを切らした藤也が地団駄を踏んだ。
しかし藤乃は、速く走る方法など知らない。(知っていたら親子競技を出禁にされたりしない)
悩んだ末に、藤乃はスマホを取り出した。
「瑞希を呼ぼう。たしか早かったはずだ」
「瑞希伯父さん?」
しかし、藤乃が電話をかける前に、玄関から声がした。
「ただいまー」
「あっ、母さん! かあさーん、走る練習してー」
藤也は一目散に駈け出した。
じゅうぶん、自分より早いと思いながら、藤乃は桔花と蓮乃と共に玄関に向かった。
「走る練習? いいよ。桔花と蓮乃は?」
あっさり答えた藤乃の妻、花音に、桔花と蓮乃は首を横に振った。
「きっちゃん、はしれない」
「はーちゃん、はしるとめまいしちゃう」
「藤乃さん、何を教えてるんですか」
花音の冷たい眼差しに、藤乃は首を横に振った。
「濡れ衣だ。俺は走れないけど、他の人を巻き込んだりしない」
「そういうところだと思うけど……まあ、いいか。藤也、庭に行くよ」
せっかくだからと、藤乃も桔花と蓮乃を連れて庭へ出た。春の陽射しに温められた土の匂いがする。
娘たちは見向きもせず、隅に生えていたタンポポや白詰め草で花冠を作り始めた。
「桔花、そのオレンジの花は毒があるから触らないよ」
「かわいいのに」
「これなにー?」
「それはセイヨウタンポポ。そっちはオニアザミ。棘があるから気をつけて」
藤乃がしゃがんで野草の説明をしていると、影が落ちた。
「藤乃さんも走って」
花音が少しだけ困ったように笑っていた。
「無理。俺、走るとめまいしちゃう」
「そういうところですよ」
妻の呆れた声に、藤乃は渋々立ち上がった。
藤也が庭の隅に立って、手を振っているのでそちらへ向かった。
「二人は向こうの倉庫まで走って。藤也はさっき説明した通り、腕を後ろまで振って。前を見る。はい、スタート」
花音が手を叩いた。
藤也が勢いよく駆け出した。小さな靴が土を蹴り、ぱたぱたと軽い足音が遠ざかっていく。
藤乃も慌てて追いかけた。数歩で息が上がり、足が重くなる。それでも、小さな背中だけは見失わないように走った。
「わー、おにいちゃんはやい!」
「れんしゅう、いらないね」
「そうだね。きっちゃん、かえる」
「はーちゃんも、かえる」
「俺も引率で帰ります」
藤乃は息を切らして、わき腹を押さえながら娘たちに賛同した。花音が呆れた顔をしたが、藤也がその腕を引いた。
「かあさん、僕、もっかい走る」
「藤乃さんはもう少し藤也を見習ってください。桔花、蓮乃。かけっこして早い方が、今日の風呂の入浴剤を選んでいいよ」
「あいだをとって、おにいちゃんえらんでいいよ」
「そうしよう、おにいちゃんがいちばんはやいよ」
娘たちのやる気のなさに、花音は肩を落とした。
二人だって、運動会が近いのだ。
「顔は私そっくりなのに、言うことは藤乃さんそっくり……」
「すみませんね」
一応申し訳なさそうな顔をする藤乃に、花音は諦めて首を横に振った。
「仕方ない。嫌いなものは嫌いなのよ。じゃあ藤乃さん。桔花と蓮乃を連れて、アイス買ってきて。駅前のサーティ〇ン」
「……車ないけど」
その日、家の車は同居している藤乃の祖父が通院に使っていたし、営業用の車も藤乃の両親が仕事で使っていた。
「そうです。だからアイスが溶けないよう、走って帰ってきてください。私は抹茶味で」
「僕イチゴ」
「きっちゃんも、いちご」
「はーちゃん、ちょこ」
頭の中で、溶けかけたアイスの惨状が浮かんで、藤乃は顔をしかめた。
しかし花音はにっこりと微笑んでいて、これ以上ごねたら怒られると、藤乃にもわかっていた。
「……桔花、蓮乃。行こうか」
「あい!」
「いきます!」
威勢だけはいい娘たちと、藤乃は歩き出した。
店でできるだけ多くのドライアイスを入れてもらおうと考えながら、のんびり向かう。
もっとも、店に着く直前に花音から
『ドライアイス禁止』
と無慈悲なメッセージが送られてきた。
藤乃はため息をついて、アイスの袋を抱え直した。
「……父の威厳ってやつを、少しくらい見せるか」
結局、藤乃はアイスの袋を抱えて走ることになった。
息が切れるし、わき腹は痛い。アイスの袋がカシャカシャと揺れている。
「おとうさん、がんばれー」
「おとうさん、あいす、とけちゃうー」
先を走る娘たちが笑った。
藤乃は肩で息をしながら、
「溶ける前には着く……たぶん……」
と呻いて、家まで走った。
「無理」
テレビから子ども向け番組の歌が流れる居間で、須藤藤乃は藤也の頼みを即座に断った。
「なんでえ」
「お父さん、走るの遅いから。亀より、カタツムリより遅いよ……知ってるだろ」
実際、少し走っただけで息が上がる藤乃を、子どもたちは何度も見ていた。
それに数年前、藤也の初めての運動会の親子競技で転んだとき、あとで藤也がからかわれていたことを藤乃は忘れられなかった。
「今年は、お父さんといっしょに走るやつ、勝ちたいんだもん」
言い募る藤也に、藤乃は顔をしかめた。
「おにいちゃん、おとうさんはむりだよ」
「おにいちゃん、おとうさん、おそすぎて、ようちえんのうんどうかい、できんなんだよ」
桔花と蓮乃に言われて、藤乃はますます渋い顔になった。
「流石に運動会は出禁じゃないよ。前に親子リレーで盛大に転んだから、『危ないので無理しないでください』って、やんわり言われただけだよ」
つまり、幼稚園の運動会を出禁になったわけではなく、親子競技への参加を止められているだけだ。
それはそれでかっこ悪い話だと藤乃もわかってはいたが、今さら自分の運動音痴をどうにかできるとは思っていなかった。
「ていうか、蓮乃はどこで出禁なんて聞いたんだよ」
「おかあさんが、りっちゃんママとはなしてた」
「あ、そう……」
「もう、そんなのどうでもいいから、走る練習!」
痺れを切らした藤也が地団駄を踏んだ。
しかし藤乃は、速く走る方法など知らない。(知っていたら親子競技を出禁にされたりしない)
悩んだ末に、藤乃はスマホを取り出した。
「瑞希を呼ぼう。たしか早かったはずだ」
「瑞希伯父さん?」
しかし、藤乃が電話をかける前に、玄関から声がした。
「ただいまー」
「あっ、母さん! かあさーん、走る練習してー」
藤也は一目散に駈け出した。
じゅうぶん、自分より早いと思いながら、藤乃は桔花と蓮乃と共に玄関に向かった。
「走る練習? いいよ。桔花と蓮乃は?」
あっさり答えた藤乃の妻、花音に、桔花と蓮乃は首を横に振った。
「きっちゃん、はしれない」
「はーちゃん、はしるとめまいしちゃう」
「藤乃さん、何を教えてるんですか」
花音の冷たい眼差しに、藤乃は首を横に振った。
「濡れ衣だ。俺は走れないけど、他の人を巻き込んだりしない」
「そういうところだと思うけど……まあ、いいか。藤也、庭に行くよ」
せっかくだからと、藤乃も桔花と蓮乃を連れて庭へ出た。春の陽射しに温められた土の匂いがする。
娘たちは見向きもせず、隅に生えていたタンポポや白詰め草で花冠を作り始めた。
「桔花、そのオレンジの花は毒があるから触らないよ」
「かわいいのに」
「これなにー?」
「それはセイヨウタンポポ。そっちはオニアザミ。棘があるから気をつけて」
藤乃がしゃがんで野草の説明をしていると、影が落ちた。
「藤乃さんも走って」
花音が少しだけ困ったように笑っていた。
「無理。俺、走るとめまいしちゃう」
「そういうところですよ」
妻の呆れた声に、藤乃は渋々立ち上がった。
藤也が庭の隅に立って、手を振っているのでそちらへ向かった。
「二人は向こうの倉庫まで走って。藤也はさっき説明した通り、腕を後ろまで振って。前を見る。はい、スタート」
花音が手を叩いた。
藤也が勢いよく駆け出した。小さな靴が土を蹴り、ぱたぱたと軽い足音が遠ざかっていく。
藤乃も慌てて追いかけた。数歩で息が上がり、足が重くなる。それでも、小さな背中だけは見失わないように走った。
「わー、おにいちゃんはやい!」
「れんしゅう、いらないね」
「そうだね。きっちゃん、かえる」
「はーちゃんも、かえる」
「俺も引率で帰ります」
藤乃は息を切らして、わき腹を押さえながら娘たちに賛同した。花音が呆れた顔をしたが、藤也がその腕を引いた。
「かあさん、僕、もっかい走る」
「藤乃さんはもう少し藤也を見習ってください。桔花、蓮乃。かけっこして早い方が、今日の風呂の入浴剤を選んでいいよ」
「あいだをとって、おにいちゃんえらんでいいよ」
「そうしよう、おにいちゃんがいちばんはやいよ」
娘たちのやる気のなさに、花音は肩を落とした。
二人だって、運動会が近いのだ。
「顔は私そっくりなのに、言うことは藤乃さんそっくり……」
「すみませんね」
一応申し訳なさそうな顔をする藤乃に、花音は諦めて首を横に振った。
「仕方ない。嫌いなものは嫌いなのよ。じゃあ藤乃さん。桔花と蓮乃を連れて、アイス買ってきて。駅前のサーティ〇ン」
「……車ないけど」
その日、家の車は同居している藤乃の祖父が通院に使っていたし、営業用の車も藤乃の両親が仕事で使っていた。
「そうです。だからアイスが溶けないよう、走って帰ってきてください。私は抹茶味で」
「僕イチゴ」
「きっちゃんも、いちご」
「はーちゃん、ちょこ」
頭の中で、溶けかけたアイスの惨状が浮かんで、藤乃は顔をしかめた。
しかし花音はにっこりと微笑んでいて、これ以上ごねたら怒られると、藤乃にもわかっていた。
「……桔花、蓮乃。行こうか」
「あい!」
「いきます!」
威勢だけはいい娘たちと、藤乃は歩き出した。
店でできるだけ多くのドライアイスを入れてもらおうと考えながら、のんびり向かう。
もっとも、店に着く直前に花音から
『ドライアイス禁止』
と無慈悲なメッセージが送られてきた。
藤乃はため息をついて、アイスの袋を抱え直した。
「……父の威厳ってやつを、少しくらい見せるか」
結局、藤乃はアイスの袋を抱えて走ることになった。
息が切れるし、わき腹は痛い。アイスの袋がカシャカシャと揺れている。
「おとうさん、がんばれー」
「おとうさん、あいす、とけちゃうー」
先を走る娘たちが笑った。
藤乃は肩で息をしながら、
「溶ける前には着く……たぶん……」
と呻いて、家まで走った。


