五色のツバメは、あの春の空をまだ知らない
ダンスの子の姿は、遥か空高く
…………
5月29日(金) 午後4時半 アイ
くもりときどきはれ 今日の最高気温29度くらいだった
体調はまあまあだけど、気分は落ちてる。
理由はこれから書くけど。
この交換日記はみんな見てるし、メモリーにも見てもいいよって言ってあるから見られちゃうかも知れないけど。
私から『隠しごとはしないで』ってお願いしてるわけだから、書いておく。
夕べ、メモリーとちょっとエッチなことしました。なんでそうなったかって、そう。それを知りたかったからここに書いてるの。
夕べの私は、タクだった(ああややこしい!)ってメモリーが言ってたけど、ほんとうに君なの?
別に怒ったりとかそういうんじゃないけど、なんか心配になって。悩みがあるなら、ここに書いてみて。別に私が解決してあげられる自信なんかないけど、書いたら少し楽になるかも知れないし、誰かがアドバイスしてくれるかも知れないし。
…………
5月30日土よう AM2時 ナツダヨ
夜中だけど少し暑くて目が覚めた。
日記見たら、アイがすごいこと書いてる!
ということは、あたいもメモリーとしちゃったってこと? なんも自覚ないけどね。残念(ジョーダン!)
タク、 アイの言うとおり、なんか困ってたら言って。
…………
5月31日(日) 午前1時 タク
アイへ
おとといのそれ、確かにぼくだ。
ひょっとして最初から最後までアイも覚えてるの? それはむちゃハズいかも。
君には迷惑かけちゃったな。ごめん。
ナツも心配してくれて、ありがとう。
うまく書けるかわかんないけど。
ぼくはメモリーのこと、気になっている。どう気になっているかっていうと、好きな気持ちと心配な気持ちと。
アイが気づいてたかどうかわからないけど、ぼくはときどき夜中、目が覚めてしまって眠れなくなると、メモリーの部屋に行って話し相手になってもらってた。自分が男なのに女だとか、ぼくはいったい誰のことを好きになれるんだろうかとか。
メモリーは眠くても、ちゃんと話を聞いてくれる。こんな風に話せる人、ほかにいないなって思ってる。
でも、最近、メモリーが帰ってない日が増えてるような気がして。
それが淋しくて心配で。でも、こう思っているぼくの気持ちって、なんなんだろうって。わけがわかんなくて、ぐちゃぐちゃして。
で、おととい、メモリーのとこに行った。アイがしたんじゃなくて、ぼくがしたことなんだ。だから、気にしないで。
でもさ、正直すごく気持ちがよかった。エッチな意味とか、そうでない意味もあわせて。それ、わかってもらえるかな。確かにそのときは気が安らいだけど、今はかえってすごく不安なんだ。メモリーが少しずつ離れていってしまうような気がして。
…………
翌朝、拓が書いた日記を読んで、私は思った。
彼が打ち明けてくれた胸の内は、私自身のものではないのか。ほんとは気づいているけど、気づかないふりしている感情だったり欲望だったり。それを意識的にせよ無意識にせよ、覆い隠そうとすればするほど、彼に悩みを丸投げしてしまい、苦しめているんじゃないかと。
拓が書いているように、最近、メモリーはこの家に帰ってこないことが多くなった。一緒に住み始めたころは、二週間に一度くらい外泊していたけど、近ごろは週に一~二日はいない。いなくてもその分家賃は払ってくれているけど……そういう問題じゃない。
彼女のプライベートなことを干渉するつもりはなかったし、彼女にはきっと、なにかやりたいことがあるだろうから、その邪魔をしないって決めているんだし。でも最近はなんだかモヤモヤする。そのモヤモヤを隠す。あんなことがあったからすごく恥ずかしいけど、もっとメモリーとは正面から向き合った方がいいんじゃないかと思う。
拓のためにも。
メモリーはというと、私に接する態度は、あの晩のあとも以前と同じで変わっていない。変わったことと言えば、さらに外泊する日数が増え、週に二~三日になった。別に居づらい、というわけでもないらしい。アトラクションのステージの出番が増えたと言っている。土日はほとんど家にいない。それはきっと、いいことなんだろう。
夏休みが近づくとステージの仕事はますます忙しいらしく、メモリーは毎日のように出かけた。
〇
七月十六日。
梅雨はまだすっきりと明けていないものの、蝉がチリリと鳴き始めている。
"苦言は薬なり、甘言は病なり "
いつものように、日めくりを一枚破ると、こう書いてあった。
これは、今日これからの教訓?
メモリーが焼いてくれたトーストをかじりながら考える。
「ねえ、今日もステージ出るんでしょ?」
「うん、せやけど」
「……見に行ってもいいかな?」
「ええけど、ノスタワールドの入場料、高いよ。うちの事務所ケチやさかい、身内用にもそういうの補助してくれへんし」
「それはいいの……じゃあ、行ってみようかな」
「おぅ! じゃあ、ますます頑張らなくちゃ。といってもチョイ役やけどね」
そう言ってメモリーは、どピンクの大きなバッグを抱えて家を出て行った。
ノスタワールドの正式名称は、『ノスタルジックワールド19XX』。日本の昭和の社会、古き良きアメリカ、開発が進む前の上海の下町、パリのカフェやシアター街など二十世紀後半の世界各国のノスタルジックなシーンを再現したテーマパーク。去年、北区赤羽の再開発地域にショッピングモールやホテルとともにオープンした。通信制高校の生徒たちの間でも、ちょっとした話題になっていた。
メモリーは、六十年代のニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジをイメージしたゾーンでミュージカル風のステージに出ている。午前午後で合わせて三回の出番があり、メモリーに時間を確認し、十七時の回を観に行くことにした。
昼過ぎに家を出て、現地のショッピングモールで遅めのランチを食べる。店はどこも混んでいて、迷ったあげく選んだ洋食店でも、席に案内されるまで二十分はかかった。包み焼きハンバーグはそこそこの味、そこそこの値段。小さなティラミスのデザートを食べて店を出る。
外食はすごく久しぶりだった。祖父母が施設に入り、メモリーと二人暮らしを始めてからは、コンビニ飯が多いけど、彼女が家にいるときは、手料理をありがたくいただいている。でも最近はその恩恵にあずかる回数が減っている……ほんとうは自分で作れればいいんだけど。料理は並行して色々な作業をしなければならないので、ちょっと苦手だ。
メモリーがごはんを出してくれるのをただただ待っているだけ。
メモリーが少しずつ遠ざかるのをただただ、目で追っているだけ……
そんなことを考えながら紅茶を飲んでいたら、急に息苦しくなり、焦りを感じ始めた。
今いる場所から動き出せない自分に。
時間はたっぷりあるのに。どこにでも行けるはずなのに。
メモリーのことをじっと家で待っているだけなんて。
それもこれも……いやそういう考え方はよくない。自分の中にいるあの子たちを否定することは、自分を否定すること。その先にはきっとなにもない。目を閉じ、モヤモヤを押し流すように、残った紅茶を一息で飲んだ。
飲食店ゾーンを出てショッピングモールに入る。ここも人だらけ。レディースファッション街には様々なスタイルのお店が並ぶ。
スマホでファッションの情報は眺めているものの、私には特に好みはない。だから、家にいるときは、ほとんどスエットだし、学校に通う時も、デニムのパンツに何種類かのフーディーだ。少し前に着ていたセーラー服を懐かしく思い出した。あれこれ着ていくものを考えずに済むので、あれは楽だったかも知れない。
メモリーはと言えば、手持ちのアイテムは少ないけど、方向性がはっきりしている。見たまんまストリートダンサーのファッション。オーバーサイズのトップスやゆったりサイズで丈の短いパンツ。スニーカーにキャップ。だいたい原色、蛍光色のド派手なカラーリング。正直、色の趣味がいいとは思えないけど。下着はスポーツブラとショーツだが、干してある物を見ると、意外にグレー系で地味だ。
自分の中にいる子たちは、なにが似合うのかな、とそれぞれのお店のウィンドウを覗きながら妄想する。
香奈は、私よりも小柄だけど、お姉さんっぽい雰囲気がある。優しい色合いや花柄のワンピースやブラウス、スカートなどのガーリー系。
紗友は、大人カジュアルかな。デニムやTシャツなど定番のアイテムと、シンプルなデザインのピアスやネックレス。
拓は……いわゆるジェンダーレスというやつだろうか。黒、グレー、モスグリーンが基調のカーゴパンツにシャツ、細身の体にオーバーサイズのジャケット。シルバーのネックレスも似合うかも知れない……『性自認は男』を意識しすぎだろうか。
菜津は? ちょっと難しい。彼女も自分みたいに着る物に頓着しないタイプじゃないかと思う。
いや待てよ? あの店のマネキンが着ている、Y2Kのリバイバルが案外似合うかも。脳内で、自分と同じ背格好で灰桜色のショートヘアの女の子にラベンダーのミニスカートとメタリックカラーのクロップトップスを着せてみる。ビーズネックレスなんか、明るい性格にぴったりで可愛いいかも。
少し疲れた。通路に置かれているソファに腰を下ろす。
自然に背中が丸まってしまう。
たまに夢の中で向きあうあの子たちは、年齢も身長も少し違う。髪型、髪色も。見た目も中身もこんなに個性豊かなのに、この私、『藍』という殻の中に閉じ込めてしまっているのではないだろうか。私が想像している、というよりも、みんなの「そうなりたい」という意志が、それぞれのイメージ、個性を作っているんだと思う。それを邪魔しているのが、この無個性な私という存在。
ねえ、みんなには私、どう見えているの?
私は、なにを着たら似合う?
私のこと、どう思ってるの?
お医者さんもカウンセラーさんも『じっくりと焦らずに人格を統合していきましょう』と言う。でも、私なんかに統合していくことがほんとうに必要なんだろうか? 他の子でもいいんじゃないの?
もっと言えば、バラバラでもいいんじゃないの?
以前、メモリーから『アイソレーション』を教わったとき、『バラバラだから、まとまりができる』と彼女は言った。ナツも『なんかこんな感じでバラバラでいいんじゃないかって。みんなそれぞれキャラが立っててさ』ってノートに書いていた。それを見たり聞いたりしたときはピンとこなかったけど、今なら、よくわかる。私以外の四人のためにも、尊重しなくちゃいけない考え方のようにも思える。
五つのパーツが別々に自由に動けるように練習する。そしたら、体全体が自由に動く。カッコよく踊れる……か。
〇
再開発エリアの中で最も大きなスペースを占めている『ノスタルジックワールド19XX』は、大きな屋根つきのテーマパークだ。チケット売り場の窓口に学生証を出し、三千五百円を払う。三つのアトラクション券つきの入場パスが渡された。高校生にはちょっと高いけど、これがあれば今日の目的は果たせる。
古く灰色がかったレンガ造りのゲートをくぐると、人通りがさらに多くなり、外国人の姿も大勢見られる。入場パスについているQRコードをスマホで読み込むと、このテーマパークのアプリがインストールされた。ガイドマップを開き、『グリニッジ・ヴィレッジゾーン』を探す。地図にチェックを入れると、音声でナビしてくれる。
ものの一分もかからないで、目的地に着いた。入り口上の看板には、「THE DREAM」と描かれたネオンサインが、夏の夕暮れをバックに燦然と輝いている。見たところ、映画なんかで見たことがあるダンスクラブの建物のようだ。
「ザ ダンシング ドリーム ミッドナイト マンハッタンは間もなく定員となります。開演時間も迫っておりますので、入場ご希望の方はお急ぎください」
黒Tシャツに黒デニムの女性スタッフがサインボードを手に声をはりあげて案内している。慌てて会場の入り口に向かった。
席は全部ポールで区切られた立ち見席で、会場の後ろまで人が並んでいる。ステージに向かって少し段差があるものの、人垣で前がよく見えない。私より背の低い女性の背後のスペースをなんとか確保する。
このアトラクションの性質上、観客もショウに合わせて自由に体を動かせるよう、客席の入場者数は余裕を持って決められているとアナウンスがあったが、周りに人が多く、出がけに薬を飲んできたものの、また息苦しさと胸の圧迫感がぶり返してきた。
二回目のブザーが鳴り客席の照明が落ちた。大音響ともにステージがまばゆく照らし出される。スマホのガイドによると、このアトラクションはブロードウェイを夢見るダンサーの卵、『リサ』のサクセスストーリー仕立てになっている。クラブで出会う個性豊かなダンサーと競争し、ときには友情を育み、刺激を受けあいながらブロードウェイを目指す、挫折と成長の物語で、六十年代のダンスミュージックに合わせて多彩な踊りが披露されるらしい。
オープニング。
当時の活気を彷彿とさせるクラブのダンスシーン。カラフルなシャツとミニスカートやデニムパンツ姿の男女のダンサーがツイストやジルバなどを軽快に踊り、ステージ上からダンサーたちは、ジェスチャーで客席にも体を動かすように促す。その集団の中にメモリーの姿はなかった。
主役、リサの登場。
大勢のダンサーが退くと、ステージの中央には体にフィットした白いブラウスと黒のフレアスカートの女性が佇んでいる。彼女はバレエとモダンダンスを交えて、厳しいオーディションを戦い抜くシーンを独りで優雅に、そして情熱的に演じる。
ライバルたちの登場。
主人公リサが入学したダンススクールでの出来事を表現したシーン。授業はいつも戦いの場。才能あふれる個性的なライバルたちが続々登場し、順にリサにバトルを挑む。実力派が分厚い壁となってリサの前に立ちはだかる。
そのライバルの中の一人に、桔梗色の編み込み髪のダンサーがいた。普段はオーバーサイズで派手なシャツとパンツ姿のメモリーだが、ステージ衣装は、ピチッとした黒の長袖シャツとグレーのボロボロなデニムパンツ。そういえばその衣装、時々家のベランダに干してあったのを見たような気がする。バトルの五番目に登場した彼女は、スピーディなジャズダンスで主役の子にバトルを挑む。
リサもそれに軽々と応えた。
さらにメモリーは鋭い視線をリサに投げかけ、挑む。
ステージ上の彼女は、いつもよりずっと大きくたくましく見える。
今まさに目の前で繰り広げられているパフォーマンスは、ジャズダンスというよりも、最近テレビでもよく見かけるブレイキンに似ている。二人を大勢のダンサーたちが囲み、手を打ち鳴らし、難しい技が繰り出されると惜しげもなく褒めたたえた。
メモリーのしなやかな体さばきに、客席からも歓声が沸き起こる。手拍子も激しくなり。
ズーン ドッ ドドン ズーン ドッ ドドン
フロアがベース音で振動する。
こうなるともう、『古き良き』ではなく、今風のヒップポップのトラップビートだ。
私もいつの間にか、体を大きく動かし、手を上げて打ち鳴らしていた。
主役も負けじと挑戦者に応戦する。
しかし。
メモリーは主役を凌駕した。
バトルを終え、うつむくリサをメモリーはハグする。
リサは挫折を味わい、ここから成長していく……というストーリーなんだろうけど、メモリーは見事に、というか必要以上に主役を打ちのめした。
リサは顔を上げ、前を向く。そして彼女は再び踊り始める。
観客もステージ上のライバルダンサーたちに惜しみない拍手を贈った。
ステージ全体が明るく照らされ、音楽が変わる。
フィナーレ。
苦難を乗り越え、ブロードウェイへの道をつかんだリサをセンターに、ライバルたちを二列目に。その他大勢のダンサーは背後に回り、祝福のダンスを繰り広げる。私でも聴いたことがあるスタンダードナンバーのロックンロール、ソウル、モータウンシャッフルに合わせて、ダンサーたちは、思い思いに、あるいはシンクロし、リフト技で協力しあい、一つのステージを創り上げ、パフォーマンスが終わった。
誘導に従い、観客がはけていく中、私はその場に立ち尽くしていた。
圧巻だった。
大勢のダンサーが繰り広げたダンスステージ。
そして、なによりも……メモリーのダンスのテクニックと情熱。
ぜんぜん『チョイ役』なんかじゃない! 彼女が言っていたように、アイソレーションはほんとうに、ほんのウォーミングアップでしかなかったんだ。
わかったことは、二つ。
一つ。
『バラバラだから、まとまりができる』……メモリーがこう言えるのは、個性と才能をぶつけ合い、競い合い、協調しあう、こういう場所に身を置いているからなんだと。
もう一つ。
私はダンスのことは全然わからない。でもわかる。メモリーは、『ここにいるべきではない子』なんだと。
「ボク、まだここにおっても、ええんやろか?」
だめだよメモリー、ここにいちゃ!
でも。
メモリーがいなくなることに私は耐えられるのだろうか。
拓が日記に書いていた、『メモリーが少しずつ離れていってしまうような気がして』……その意味を今初めて、心から理解した。
涙があふれる。
涙を流すなんて……その役は香奈に譲っていたし、いったい、いつ以来だろう。
この感動と、メモリーに気づかせてもらったことをすぐにでも彼女に伝えたかった。話しながら一緒に帰りたかった。だから、レンガ造りのゲートの前でメモリーを待った。ここで働いているスタッフの誰もが通るはずだ。今日の仕事はこの回でおしまいのはず。どれだけ待ってもいい。
三十分ほどして、大きなバッグを抱え、アポロキャップを被った小柄な子が近づいてきた。ホッと息を吐き、小さく手を振る。
メモリーは笑みを浮かべ、大げさに手を振りながら走り寄ってくる。
「おおきに! 来てくれたんや」
そう叫んでメモリーは私の……脇をすり抜けていく?
振り返り目で追うと、十メートルほど先にいる女性の胸元に飛び込んだ。
女性は軽く彼女をハグする。
いったいなにが起きている?
理解できないまま、呆然とその光景を眺めた。
小さなダンサーを抱き止めた女性が私の視線に気づき、私を見つめ返した。彼女はセミロングの髪をハーフアップにし、白のカシュクールワンピースにベージュ色の薄手のカーディガンを羽織っている。背はすらりと高く、年齢は三十代だろうか。彼女の視線には敵意のようなものを感じた。
女性の顔を見上げたメモリーは、彼女の目線を追って振り向いた。そして、ぼーっと立っている私を発見して目を丸くする。
どうしようか……迷いながらも二人に歩み寄る。近づくにつれ、メモリーの表情がこわばるのを感じた。彼女は長身の女性に回していた手をほどき、私に向き直る。
「あ、アイ……やっぱ君も来てくれはったんやね」
「うん。すごかった……素晴らしかった」
「……おおきに」
ワンピースの女性が割って入る。
「メモリー、こちらの子は?」
「え、うん、ボクが居候させてもろてる子。アイ」
「あ……ああ、そういうことね。アイさん、いつもメモリーがお世話になっています」
私は混乱し、困惑する。
「あの……あなたは?」
「さあ、なんと言っていいかしら。名前は岡野真澄っていうけど……そうね、メモリーの支援者というところね」
女性は微笑みながら首を傾け、メモリーの表情をうかがう。
「支援者……ですか?」
なんのことか、よくわからない。
「そう。さっきのステージ、あなたも見ていたでしょ。この子は並外れた才能を持っているの。だから、それを花開かせたいと『いろいろと』お世話をしているわけ」
その女の『いろいろと』の強調のしかたが気に入らなかった。メモリーに向かって問いただす。
「どこで知り合ったの?」
「……アプリ」
「あ、アプリ?」
「うん、支援してくれる人を探すアプリ」
「……それってパパ活みたいな?」
ワンピースの女が私をキッとにらむ。
「女の人だからママ活かな」
メモリーが訂正する。
「あなたたち、こんな往来で人聞きが悪いわね。支援を求めている才能ある子と、その才能に投資する人を結ぶマッチングサービスよ。クラウドファンディングって聞いたことある? その応用版のサービスというところね。と言っても出資は私一人で締め切らせてもらったけどね」
得意そうな口元の笑みがいちいち気に触る。
私は黙り、一呼吸置いたあと、メモリーに質問した。
「最近うちに帰ってこないのと、この人となにか関係があるの?」
「アイさん。この子がそれに答える義務があって?」
「マスミさん、別にいいよ……ボクはこの人のうちに泊めてもらってる」
「……それで、『この女』の家でなにしてるの?」
そう言った唇が震えているのに、自分でも気がついた。
女性の口元が一瞬ニヤリと変化した。
「あら、ずいぶん好戦的ね。なら、なにをしているか教えてあげてもいいわよ」
「ちょっ、マスミさんもやめてよ」
メモリーはピョンピョン飛び上がって背の高い女性の口を塞ごうとする。
「アイもこの辺でかんにしてえな!」
……いやだ。引き下がらない。
「だからメモリーはあれがうまいのね、慣れてるのね」
「アイ、もうやめて! こんな所で」
メモリーの顔が真顔になる。
女性は自分の口元からメモリーの手を優しくどけ、彼女をたしなめる
「あなたもあなたよね。泊まる所がないからって、部屋を貸してくれた子にホイホイなついちゃうなんて。この子の所に居たって、なんの得にもならないじゃない……ああ、失敗したわ。春先、あなたからもらった電話にちゃんと出られていたら、こんなことにならなかったのに」
そうか……あのときのことか。あすか台学園のガイダンスの帰りの光景を思い出した。
「ねえメモリー、いいかげんウチに来ない? 日本にいるのもあと少しなんだから」
え、今なんて言った?
「メモリー……どういうこと?」
私の問いに彼女は口をつぐんでしまった。
「わたしが代わって答えるわ。この子はね、一月になったらロスのマグネットスクール――芸術分野の専門高校ね――そこの入学試験を受けるの。狭き門だけど、この子が合格するチャンスは十分にあるわ。だから、投資しているの。この子の将来にね」
初耳だった。
「ねえメモリー、私になんでそんな大事なこと教えてくれなかったの?」
「……かんにんな、マスミさんとかお金とか、いろいろ絡んでくるから、話せなんだ……受かるかどうかもわからんし」
「お金なら、うちの親が遺してくれたのを出すよ! こんな女から施しを受ける必要なんてないわ!」
そう言ってしまってから、激情している自分に動揺した。
でも……もう止められない。
「ねえアイ! 君がお金のことなんて言わんで! ボクをコケにせんといて!」
「コケになんてしてないよ……なによ、メモリー。あなたはいいじゃない。お金があれば、どこにだって行けて、なんでもできる……自由気ままに、好き勝手に」
「そ、そんなことないよ……」
「あるわよ! 私を、私たちを見てごらんよ。あの家からどこにも行けないんだよ! 行こうとしても、みんなバラバラだし、みんなついてくるし……私なんか、私なんか!」
止まらない、自分を止められない。そして感じる、私の中の『誰か』が出てきたがっているのを。
「あ、アイ……」
「……もう、好きなとこに行ってよ、この女と……どこにでも行っちまえ!」
震える声でそう言い放ち、ゼーゼーと息をする。今日はずっと胸が重苦しい。
「な、なんでやの?」
疑問符を浮かべたメモリーの顔は青白い。彼女の唇も震えている。
長身の女は勝ち誇ったかのように、かつ呆れ顔で笑う。
「あらあらアイさん、大好きなメモリーちゃんを侮辱して怒らせて、しかも悲しませちゃったみたいね」
それからぐっと近づいてきて、文字通りに上から目線で、私にだけ聞こえる低い声でささやいた。
「それに、わたしのこともね……初対面なのにあなた、たいしたタマねえ」
再び女は下がり、メモリーと並ぶ。
「ねえあなた、メモリーと私に、ちゃんと謝った方がいいんじゃないの? そうしないとわたし、気が変わっちゃうかも……もうこの子に投資するの、やーめたって」
メモリーが驚いて女性の顔を見上げる。
「さあアイさん、どうかしら?」
私は顔を下げ、自分の靴先を見る。
さっき、メモリーのダンスを見たとき、『この子はここにいちゃだめなんだ』と思った。今、私は真逆のことをやっている。悔しい。情けない。逃げてしまいたい。怒鳴りつけて。
でもだめだ。私がこれ以上逃げると香奈が、これ以上怒ると紗友が出てきてしまう。そうなったらメモリーの将来の道を閉ざしてしまうに違いない。
その場に正座する。硬くて日中の熱が残っているアスファルトが両膝にゴツゴツ当たる。恥を忍んで――いや元々私に羞恥心やプライドなんかない――地面に手をついて頭を下げた。
「ち、ちょっ、アイ!」
メモリーは私の体を起こそうと腕を引っ張る。テーマパークから出る人々が不思議そうに眺め、なにかをささやきながら通り過ぎていく。
声を振り絞る。
「岡野さん、メモリー、ひどいことを言ってごめんなさい。全部取り消します。だから、メモリーを支えてあげてください……それからメモリー……ほんと、好きにして。私がとやかくいう権利はなにもない」
間を置いて頭を上げる。
女は笑みを浮かべている。冷笑という言葉がぴったりだと思った。メモリーは、うつむいてじっとしている。
「まあ、ずいぶんと素直なこと。どうぞ、お立ちになって。あなたに言われなくても、ちゃんとこの子の面倒は見るから、安心してね」
ゆっくり立ち上がり、両膝を手で払い、地面に置いたバッグを肩にかけ、『失礼します』と言って駅の方向に歩き始めた。もともと振り返るつもりもなかったけど、悔し涙が次から次へと溢れて止まらず、絶対二人には見られたくなかった。
今日二度目の涙は、屈辱の涙。
"苦言は薬なり、甘言は病なり "
日めくりの言葉を思い出す。薬になるような苦言をメモリーにかけてあげることはできなかった。あれじゃあ毒薬だ。
それでも、つぶやく。
これでいいのか? これでいいのだ。
菜津の口癖だ。
使う場面を完全に間違っている。
でも今は、こう言って自分の気持ちに嘘をつくしかない。
JR赤羽駅の改札口にSuicaをかざしたら、赤いランプが点き、自動改札機に『チャージ不足です』と言われた。
確かに私は今、チャージ不足だなと思った。
券売機にSuicaを置き、千円札を三枚入れる。
「チャージ!」
びっくりして振り返る。抱きついてきたのは、桔梗色の髪を編み込んだ女の子。
「め、メモリー! なんでここにいるの?」
「いや、一緒に帰ろ思うて」
「一緒にって……私、メモリーにひどいこと言った」
「でも、謝ってくれたやない」
「あ、あんなんじゃ済まないでしょ?」
「ハハハ、まー貸しやな」
メモリーはニッコリと笑って右手の親指を上に突き出す。
「あの人は?」
「今日はアイの所に行く言うて、置いてきた」
「大丈夫なの? せっかく私、謝ったのに」
「うん、なんか普通にいいよって言ってくれはった」
またしても、状況がいまいち飲み込めない。構わず私の手を引いて、メモリーは自動改札口に向かった。