たった100秒間の運命

第3章

それから半年。

冬がゆっくりと溶けて、春を追い越し、初夏の気配が街に流れ始めた頃だった。
朝のコンビニの自動ドアが開く。
季節の変化はあるものの、私たちの時間と関係性に変わりはない。

「おはよ」
相変わらず少し眠そうな声でいつも通り彼は現れた。

気まぐれで始めたコーヒー生活は半年経っても継続されていた。

「おはよ〜」
すっかりと慣れ親しんだ光景に、私もありのままにあくびを噛み殺す。
コーヒーマシンに横並びになって時間を過ごしているとき、彼は変わらない様子でその事実を告げた。

「あのさ」
カップを片手に少し視線を落とす彼に、ほんの少しいつもとの違いを感じた。
言葉を待ちながら、ピーっと鳴ったマシンの扉を開けてカップに手を伸ばす。

「明日から海外に行くんだ」
「……え?」
カップを落としそうになるのを、ぎゅっと握り直した。

頭がふわっと浮いて、店内のBGMが遠くへ引いていく。
驚いていた。

私はカップの蓋を手に取り、ぎゅっと押し付ける。
慣れた所作なのに、上手くハマらなくて何度も繰り返していると、憩くんの手が横から伸びてきて、代わりにすぽっとはめてくれた。

「あ、ありがとう」
「ううん」

ニコリと笑った彼の顔をまじまじと見つめる。
その表情に変わった様子はなくて、私ははぁと深く息を吐き出した。

「海外、すごいね。新しい仕事?」
「まあ、そんな感じ。ヨーロッパにいきたい芸術イベントがあって、ついでだししばらく滞在していろんな景色を見てこようと思う」
そう言った彼の横顔に、私はいつか聞いた彼の過去の話を思い出した。

自由でいたい。と言った彼は、海外に行くのは初めてじゃないはずだった。
気分が向くままに、各国の文化に触れてイラストを描く。
外で得た刺激は、面白いほど絵に現れるのだと、楽しそうに語っていた。

「そっか」
返事をしながら、私は胸の奥がずきっと痛むのを感じる。

驚いた。自分の心に。

コーヒーは入れ終わったのに動かない私に、憩くんは不思議そうに振り返った。
首を傾げるその仕草に、私は視線を泳がせる。

「……いや。なんか……」
思わず言い訳をするように言葉が漏れる。

「ちょっと寂しいって思った自分がいて、驚いたの」
自分で言って、またびっくりした。

半年間の朝の数分から始まった。

時々ご飯へ行く。
ただそれだけの関係だったのに。

自分で思っていたよりもずっと大きく、この名前のない関係を。
憩くんという存在を大切に思っていたみたいだった。

憩くんは目を丸くして、すぐにふわっと笑った。

「あはは、俺も。珍しく、報告しておこうかなって思った」
その言葉に、胸が少し救われる。

「そっか、言われないパターンもあったのか。感謝しなきゃね」
「いやあ、こんなんで申し訳ない」

笑い合いながら私たちはいつも通り、コンビニを出る。

今日はいつもの朝。
コンビニを出れば、すぐに分かれ道。

「また帰ってきたら、ご飯行こうよ」
「もちろん。行こう」

どちらともなく手を振って、またいつものように別れの挨拶をした。
唯一いつもと違ったのは、別れ際の風景が、少しだけ滲んで見えたことだ。

憩くんとの出会いは、ただの偶然の出会いだったのに、なぜか不思議で、でも確かに、私の人生を変えてくれた出会いだった。

もっと自由でいいんだと。
常識のある二択じゃなくたっていい、自分の選択肢を見つけたらいい。
彼が教えてくれた価値観は、少数派が持っている生きづらさを軽くしてくれた。

確かに私の人生に入り込んで、景色を変えてくれた人だった。

ふわふわしている憩くんだから、もしかしたら今日が最後だったかもしれない。
だとしたら一年にも足らない本当に短い期間だった。

だけど、この期間を、私はきっと忘れることはないんだろうな。

朝のコーヒーを握りしめて、私はふっと息を吐いた。

「よーし、今日も頑張りますか」

前向きに、自分らしく、変わらない毎日は続いていく。
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