完璧な上司に飼われてます! 〜ズボラ女子の居候日記〜

第一話 完璧上司との出会い

「一泊のご利用でしょうか?」

 清潔感に溢れたフロントマンが、ごく当然のようにそう尋ねてくる。
 七三分けで、すらりと背の高い同年代くらいの男性。にこやかな笑顔を崩さないまま、私の返事を待っていた。

「……最大、何泊までできますか?」

 質問で返した途端、フロントマンは一瞬、何が起きたのかわからないという顔をした。
 あまり受けたことがない質問だということが、その反応でわかる。
 その沈黙が妙に気まずくて、「何泊までできます?」と少しだけ強調してもう一度聞いた。

「あ……えーと、とりあえず七泊八日まででしたら、ウィークリープランがございます」

「おいくらですか?」

「はい、素泊まりで……六万三千円になります」

 一泊九千円か……。
 うん、間違いなく高い。
 でも、他を探すのも面倒だし……もういいや。

「じゃあ、それでお願いします」

 クレジットカードで決済すると、すぐにスマホが震えた。
 アプリを開き、決済完了の通知を確認する。

 ……はぁ、また出費。

 もうそろそろ、貯金も尽きそうなのに。

「お部屋は六階になります。清掃は三日に一度で、タオル交換とゴミの回収は毎日行います」

「あ、清掃は大丈夫です。タオルとゴミだけで……」

「え? あ、はい。かしこまりました」

 重い重いキャリーケースを引きずりながら、エレベーターに乗り込む。
 さすがは名の知れたビジネスホテルだ。
 エレベーターの中まで、きちんと清掃が行き届いている。

「あー! 疲れた!」

 まだ糊のきいた真っ白なシーツの上に、思いきりダイブする。
 天井を見上げながら、私はここ最近の出来事を、ぼんやりと思い返した。

 私……石田(いしだ)花音(かのん)。二十三歳。彼氏なし、家なし。
 こんな状況に陥ったのは、ほんの一週間前からだった。

『花音、もう別れてくれ。正直……お前のズボラさには限界だ』

 その言葉を聞いた瞬間、頭を鈍器で殴られたみたいに、ガーンとした。
 私のズボラさに……愛想が尽きたって?
 私の適当さを、いつも「しょうがないな」って笑ってくれてたのに?

『掃除しても掃除しても、次の日にはもう汚いしさ。もう寝るっていう時に、カップラーメン食べ始めるし……』

 堪忍袋の緒が切れた、光市(こういち)の顔。
 あの表情が、今でも脳裏にこびりついている。

 付き合って二年。同棲して半年。
 まさか、こんな形で急に別れを告げられるなんて、思ってもいなかった。

 そこからはもう、今まで溜め込んでいた愚痴を、これでもかというほど浴びせられて。
 私も私で、カッとなってしまって……勢いで家を飛び出した。

「……それに、夏希(なつき)にも見放されるなんて……」

 真っ白な天井を見つめながら、独り言ちる。
 家を出てすぐ、唯一の友人である佐倉(さくら)夏希の家に転がり込んだ。
 最初は同情してくれて、「いいよ、しばらくいなよ」なんて言ってくれていたのに。

『ごめん、花音。今、ちょっといい感じの人がいてさ……今日、もしかしたら家に来るかもしれないの。だからもう、出て行って!』

 ……と、言われたのが、ついさっきのことだ。

 こうして私は、再び寝床を失った。
 とりあえず向かったのは、会社の近くにあるビジネスホテル。

 会社のある西新宿周辺にはいくつもホテルがあって、その中から、名前だけは知っているところに適当に飛び込んだ。
 正直、かなりお金はかかる。でも、始業時間ギリギリまで寝ていられるのはありがたい。

「……まあ、ラッキーってことにしとこ」

 自分に言い聞かせるように呟く。

「あー、お腹空いたー」

 まだ夜ご飯の時間には少し早いけど……もう限界だ。
 こんなどん底にいても、お腹はちゃんと空く。むしろ、余計に。
 キャリーケースの中から、シーフードのカップ麺を取り出した。

「ケトルは……あったあった」

 水を入れてスイッチオン。
 その間に、さっきコンビニで買ったスライスチーズを細かく裂いて、カップの中へ放り込む。
 あとは、お湯を注いで三分待ち。

「その間に、着替えちゃお」

 ブラウスとテーパードパンツを脱ぎ捨て、ホテルに常備されている館内着に着替えた。
 会社に着ていく用のブラウスとパンツは……キャリーケースの中に、あと一枚ずつ。
 これで回していくしかない。
 この状態で本当に仕事に行けるのか、不安が頭をよぎるけど……考えても仕方ない。

「……まあ、何とかなるでしょ」

 そう思わないと、やっていられない。

「うわ、最高……」

 カップを開けると、チーズがとろとろに溶けている。
 立ち上る湯気に顔を近づけて、保湿するみたいに蒸気を浴びた。

 ああ、いい匂い。

「いただきまーす!」

 麺と一緒に、とろけたチーズが口の中に流れ込んでくる。
 濃厚さが絡み合って、噛めば噛むほどクセになる。
 スープのまろやかさも相まって、完全に優勝だ。

「あー……最高……」

 本当はこのカップ麺、寝る直前に食べるつもりだった。
 寝る前に食べる、あの背徳感が堪らなく好きだから。

 でもまあ、仕方ない。
 今は何より、この空腹を満たす方が優先だ。
 お腹が空いたら、またコンビニに行けばいいだけ……。

 ……一人で麺を啜る音だけが、静かな部屋にやけに大きく響く。

 自然と、スマホに手が伸びた。
 考えるより先に、SNSを開いてしまう。
 そして目に飛び込んできたのは、光市の投稿だった。

「……え、誰この女」

 そこには、光市が見ず知らずの綺麗な女性と、食事に行ったという内容が。
 写真付きで、しかも妙に楽しそう。

 私と別れて、こんなにすぐ次の女性と遊べるものなの?
 胸の奥が、ムカッと熱くなる。

 その女性は、私とはまるで正反対だった。
 ブランド物のアクセサリーがさりげなく目立っていて、メイクもばっちり決まっている。

 ――大人の女性、って感じがする。

「……こんな人が、光市の次の相手?」

 投稿のリプライには、その女性からのコメントが。
 やり取りは、どう見ても良い雰囲気で、仲の良さが滲み出ている。

「私は一人で寂しく、カップ麺を啜ってるっていうのに……」

 ストレスをぶつけるみたいに、豪快に麺を啜る。
 そのままの勢いで、スープまで一気に飲み干した。

 もう、何もかもどうでもよくなって、私は再びベッドに飛び込んだ……。


  * * *


 ――その男は、何の前触れもなく現れた。

「本日より勤務となる、橋場(はしば)律人(りつと)です……」

 週明け、月曜日の朝。

 昨日は結局、カップラーメンを食べた後、そのまま爆睡。
 目を開けたら朝で、シャワーを浴びる時間すらギリギリだった。

 顔はむくんでいるし、朝ご飯は当然抜き。
 そのせいか頭もぼんやりしていて、コンディションは最悪だ。

 そんな状態で迎える、少し長めの朝のブリーフィング。
 同じ編集チームの面々が、拍手でその男を迎え入れている。

 ……正直、拍手する元気もない。

「橋場君はこれまで、フリーのフードライターとして活躍していたんだけどね」

 編集長の沖浦(おきうら)さんが、男の隣に立ちながら楽しそうに説明を続ける。

「このたび、我が社に来てくれることになりました」

 どうやら、この人をヘッドハンティングしてきたのは沖浦さんらしい。
 沖浦さんは、小さな子どもを女手一つで育てながら、着実に仕事をこなすバリキャリ系の女性だ。
 面倒見もよくて、頼れるお姉さん的存在……そして、私の上司でもある。

「橋場君には、ランチ班として動いてもらいつつ、編集リーダーをお願いするわ」

 ……編集リーダー?

「皆さんの原稿をまとめるポジションになりますので、どうぞよろしくね」

 少数精鋭の私たちは、それぞれが小さく頷いた。
 日常に寄り添う“食”をテーマにしたグルメ誌『いくぐるめ』。
 それを発行している「月精社」の中でも、この編集チームはたった五人で回している。

 ――つまり。

 この男が六人目になる。
 しかも、いきなりまとめ役として、私たちの前に現れた。

「石田さん、ちょっといい?」

 いつもより長引いたブリーフィングが終わると、沖浦さんが私を呼び止めた。
 皆がそれぞれのデスクへ散っていく中、私だけが前方にある沖浦さんのデスクへ向かう。
 男も……いや、橋場さんも一緒だった。

「石田さん、新卒でここに入ってきて……あれ、もう半年経った?」

「あ……そうですね」

「そうよね。もう十月だもの」

 沖浦さんは、ふむふむと一人で頷いた後、意味ありげに笑った。

「そろそろ仕事にも慣れてきた頃だと思うの。だからね……配置転換をするわ」

「……はい?」

 背中を嫌な汗がつたっと流れる。
 沖浦さんは私の目を、真っ直ぐに見つめて言った。

「今日から橋場君の下についてもらいます。ラーメン班から、ランチ班に移ってちょうだい」

「え、ええ……?」

 ちょ、ちょっと待って。
 私、この人と……同じ班?
 思わず横に立つ、橋場さんを見上げてしまう。

 第一印象は、正直あまり良くなかった。
 背が高くて細身。顔立ちは整っていて、いわゆる塩顔というやつ。
 奥二重の切れ長の目に、白くて綺麗な肌。ほんのりパーマのかかった短めの黒髪。

 ……女子人気は、絶対に高い。

 でも、私とは全く正反対の人種だと思った。

「早速で申し訳ないが、石田が対応可能な業務の確認をさせてほしい。朝はその時間に費やす。問題ないな?」

「え? あ……は、はい……」

「では、五分後に俺のデスクへ来てくれ」

 融通という言葉を知らなさそうな口調。きっちり、かっちり、隙がない。
 ラフで適当な私とは、まるで別の世界の住人だ。

 これ、完全にハズレくじ引いたんじゃない……?

「橋場君、クールでしょ?」

 自分のデスクに戻り、黙々と整理を始めた橋場さんの背中を眺めながら、沖浦さんがふっと笑った。

「……そうですね」

 クール、というか。
 人に合わせる気がなさそう、というか……。
 私の反応を感じ取った沖浦さんは、少し声を落として続けた。

「あなたは愛嬌もあるし、取材力もあって……悪くないと思ってるのよ」

「……あ、ありがとうございます」

「でもね」

「……で、でも?」

「仕事がちょっと適当なところがあるわ。特に最近」

「す、すみません……」

 思い当たる節は、正直ありすぎる。
 イージーミスは日常茶飯事だし、この性格だから、つい「まあいっか」で済ませてしまうことも多い。
 即座に反省すると、沖浦さんはすぐに表情を和らげた。

「でもね、石田さんだからできることもあるわ」

「……え?」

「可愛いし、人懐っこいでしょ。取材先の人に気に入られること、多いじゃない」

「まあ……はい」

「伸びしろはかなりあるわ。だからね、成長できる人の隣にいた方がいいと思ったのよ」

 几帳面に書類を揃えている橋場さんを見ながら、一度だけ頷く。
 橋場さんが私を……成長させてくれる……。

「ほら、私たち見ての通り少ない人数でやってるでしょ? デスクの島だって、フロアの端っこだし」

 それは、確かにそう。
 社内でも『いくぐるめ』チームは特に少数精鋭。
 私の成長が、そのままチームの戦力に直結する。
 だから、優秀な橋場さんの下につける、という判断なのだろう。

「ま、たくさん学んできなさい」

 軽い口調なのに、逃げ場はない。

「……か、かしこまりました」

 沖浦さんに言われたら……素直に従うしかない。
 私は今まで、この環境に甘えすぎていたのかもしれない。

「……石田さん、残念だねぇ」

 隣のデスクから、のんびりした声がかかる。

「もっと一緒に、都内のラーメンを深掘りしたかったなぁ」

江本(えもと)さん……」

 ラーメン班担当の江本さんだ。
 黒縁メガネにくるくるパーマ。芸人さんにいそうな雰囲気なのに、誰に似ているのかは思い出せない。

「ラーメン班、一人にさせちゃいますけど……私、ラーメン巡りも怠らないので」

「うんうん、頼むよ。美味しい店見つけたら、僕にも教えて」

「はい!」

 江本さんとは、この半年間ずっとコンビを組んできた。
 私より二年先輩で、とにかく穏やかで、いい人。
 班と呼んではいるけれど、実質は一人で担当しているのが、このチームの実情だ。

 ランチ班、ディナー班、ラーメン班、スイーツ班。
 そして、それらをまとめる編集長の沖浦さん。
 これまでランチ班は沖浦さんが兼任していたけど、今日からは私と橋場さんが担当する。

 計六人で始まる、新たな体制。

 ……不安でしかない。

「五分、経ったかな……」

 時計を確認しながら、橋場さんのデスクへ向かう。
 一歩進むごとに、心臓の音が大きくなっていく。

「橋場さん、よろしくお願いします」

「……三十秒、遅れたな」

「……え?」

「三十秒遅れだ。次からは遅れないように」

「え、たった三十秒じゃ……」

「俺からしたら遅刻に入る」

 ピタリと、冷たい視線が向けられる。

「取材する側が遅刻したら、大変失礼だろう? 以後、気をつけるように」

「……は、はい」

 ……想像していた通り……最悪でした。

 即刻、退職届を提出したい気分になったけれど……我慢我慢。
 ここで逃げたら、私は生きていけなくなる。
 橋場さんは席を立ち、「会議室を押さえてある」と、それだけ告げた。
 有無を言わせない口調に、私は慌てて後を追う。

「よし、座れ」

 小会議室は、長方形のテーブルを囲む簡素なレイアウト。
 適当に椅子を引いて座ると、橋場さんは向かいの席に腰を下ろした。

 逃げ場、ゼロだ。

「今まで、ラーメン班で記事を書いていたらしいな?」

「あ……はい。江本さんの指示通りにやっていただけですけど……」

「企画立案、取材、執筆、校正、デザイン確認……」

 淡々と指を折りながら、続ける。

「一連の流れは、ひと通り経験しているのか?」

「ま、まあ……どれも、軽ーくやってたって感じです」

 まるで取り調べのようだ。
 矢継ぎ早に投げられる質問に、心の準備が追いつかない。
 橋場さんは開いている自分のパソコンに目を通すと、小さく頷いた。

「なるほどな」

 その一言が、不気味すぎて恐ろしい。

「肝心なのは、読者の目を引く企画力と取材力だ」

 パソコンの画面を見ながら、視線を上げずに続ける。

「その点は、江本頼みだったみたいだな」

「……そうです」

 核心を突かれ、思わず背中が丸くなる。
 江本さんの優しさに甘えてきたということが……橋場さんには、バレバレだった。
 橋場さんは表情を一切変えず、私を真っ直ぐ見据える。

「石田は、それでいいのか?」

「……え?」

「このままだと、お前はずっと今と変わらない」

 ――その言葉は、胸の奥にずしりと落ちた。

「……ずっと今と、変わらない?」

 その言葉が、頭の中で何度も反響する。
 これは……ただの業務確認じゃない。
 私の人生そのものに向けられた、問いかけのように聞こえた。

 本当に、このまま生きていくのか?
 いつまでもだらしなく、流されるままで……?
 橋場さんにそう問われている気がして、思わずフリーズしてしまう。

「沖浦編集長から、いろいろ聞いた」

 淡々とした声が、現実に引き戻す。

「石田、普段から相当ズボラらしいな」

「……うぅ。沖浦さん、余計なことを……」

「仕事を円滑に進めるためには、部下のパーソナリティを把握しておくのは当然だ」

「は、はい……」

 冷静な口調なのに、圧がすごい。
 空気がぎゅっと縮んだみたいで、息苦しさすら覚える。

「昨日の夜は、何を食べた?」

「……カップラーメンです」

「ほう。じゃあ一昨日の夜は?」

「カップラーメン」

「その前は?」

「……カップラーメンです」

 三回目で、橋場さんは額に手を当てた。
 食をテーマにした雑誌を作っている人間が、毎晩カップラーメンなんて。
 内心、呆れているに違いない……。

「一人暮らしか?」

「え? あ、ま、まあ……」

「……今、濁したな」

 鋭い視線が突き刺さる。

「本当のことを言ってもらおうか」

「い、いや……その……」

「何だ?」

「……ちょっと今、住む家がなくて」

 あ、つい言ってしまった。

「まあ、いろいろありまして……」

 橋場さんは腕を組み目を細めると、机越しに少しだけ顔を近づけてくる。
 距離はあるはずなのに、やたら近く感じて……背筋が伸びた。

「聞かせてもらおうか」

 ……ダメだ。
 もう、誤魔化すことはできない。

 変に嘘をついてもすぐに見抜かれる気しかしないし……それ以上に、少しだけ聞いてほしい気持ちもあった。

 今の私が、どれだけズタボロなのかを。

「実は……私……」

 そう前置きしてから、私はこの一週間の出来事をざっと話した。
 相手は、今日初めて会ったばかりの新上司。
 しかも、相性最悪だと感じている人。

 それなのに私は……驚くほど素直に、恥ずかしいほど赤裸々に、自分の状況を打ち明けていた。

「……ズボラさが原因で、同棲していた家を追い出されたのか」

「まあ……飛び出したのは、私ですけど」

 橋場さんは笑いもせず、茶化しもせず、淡々と話を聞いていた。
 仕事とは何の関係もない恋愛の話を、こんなに真剣に受け止められるとは思っていなかった。

 それが少しだけ……意外だった。

「それで、その彼にはもうすでに良い人がいると?」

「はい。私とは正反対な……すごく、しっかりしてそうな大人の女性です」

「……それは、精神的にくるな」

 短い言葉なのに、不思議と胸に刺さる。

「……はい。私のズボラさが、よっぽど嫌だったんだなって」

 話しているうちに、自分の表情がどんどん強張っていくのがわかる。

 ……光市と付き合い始めたのは、大学の頃だった。
 そのまま社会人になって、同棲を始めて……そして、別れた。
 これまで、なるべく思い出さないようにしてきたのに……今になって、一気に込み上げてくる。

 気を抜いたら……今にも涙が溢れてしまいそうだった。

「石田……」

「……はい?」

「……お前は、まだその彼のことが好きなのか?」

 心臓がドクンと大きく跳ね、思考がストップしてしまう。
 そんなことを聞かれるなんて……思いもしなかった。
 答えを探そうとして、言葉が喉につかえる。

「私は……」

 私の返事を待つように、橋場さんはじっとこちらを見ていた。
 冷静で、感情の読めない視線。
 全く逃げようがないように思える。

 圧力に耐えきれず、声が少し震えてしまう。
 それでも……自分の胸の内だけは、誤魔化したくなかった。

「正直……まだ、好きな気持ちはあります」

 ……それが、私の本音だった。

 別れたという現実を直視するのが怖くて、考えないようにしてきた。
 でも実際は、喪失感に押し潰されそうな毎日だった。

「これで、諦めていいのか?」

「……え?」

「また、その彼に振り向いてもらえばいいじゃないか」

「……そんな簡単に言われても」

 もう一度、光市にアタックするってこと?
 あんなに素敵そうな女性が隣にいるのに?

 今頃きっと、新しい恋で楽しい時期だ。
 私なんて、もう忘れ去られた過去の女に決まっている。

「無理ですよ……私なんかじゃ」

「……諦めるのか?」

「だって……それ以外、方法がないですもん」

 橋場さんは、ふっと立ち上がると、窓の方へ歩いていった。
 背を向けたまま、外の景色を眺める。

 私が、涙を堪えながら吐き出す弱音を……何も言わずに、ただ黙って聞いていた。

「私は一生、ズボラのまんま生きていくんです。それでいいんですよ」

 吐き出すように言った言葉は、どこか空っぽだった。
 無理に自分を納得させようとしているのが、自分でも分かる。
 本当は……変わりたいと思っている自分がいることも。

「これが、いいきっかけになるんじゃないのか?」

 橋場さんは窓の外に向けていた視線を、ゆっくりと私へ戻した。
 的確に、核心だけを突いてくるその言葉は……まるで私の劣等感をわざと刺激しているみたいだ。

 ……だから、無理なんだって。

 気づくと、少し反抗的な口調になっていた。

「今更性格を変えるなんて……無理難題です。私はこれで、二十三年間生きてきたんですから」

「……やってみないと、わからないだろう」

「わかります」

 反射的に、即答してしまった。

「もう体が、ズボラに生きるようにプログラミングされてるんです。だから……ほっといてください」

 自分でも驚くほど、きつい言い方だった。
 だけど橋場さんは、私の強気な態度にも引かず、ほんの少しだけ笑みを浮かべて近づいてくる。
 私のすぐ隣に立ち、テーブルに手をついた。
 見下ろす形になって、自然と息が詰まる。

「今後、どうするつもりだ? 住む家もないんだろう? その様子だと、金にも余裕はなさそうだな」

「……そうですけど、何とかするしかありません」

「生きるのもギリギリな石田と……」

 低い声が、静かに続く。

「綺麗でしっかりした女性といい感じの、彼……」

 ズキッと、胸が痛む。橋場さんの冷ややかな声が、頭上から降り注ぐ。

「――本当に、それでいいのか?」

 ……もう、しつこいな。

 本音では、そう叫びたかった。
 けれど相手は、新しく決まった上司。そんな失礼なこと、口に出せるはずもない。

 せめてもの抵抗として、私は橋場さんの視線から逃げるように、ぷいっと顔を背けた。
 その様子を見て、橋場さんは軽く鼻で笑う。

 そして一言。

「変わろうじゃないか」

 あまりにも力強い声だった。
 思わず、外したばかりの視線を戻してしまう。
 橋場さんは、冗談の欠片もない真剣な表情で、私を見ていた。

「……え?」

「もう、適当はやめろ。しっかり成長して、その彼を見返してやれ」

「見返す……?」

 その言葉に、思考が止まった。
 見返すなんて発想、一ミリも浮かんだことはなかった。

 私は変われない。
 だから、ずっと負けたまま生きていくんだって……どこかで諦めていたのに。

「人は、変われるぞ」

「……そうでしょうか」

「ああ。お前の根本が変わらない限り、いい仕事はできない。その生活態度が、仕事に悪影響を与えてる。だからな……」

「……だ、だから?」

「俺が、お前を鍛えてやる」

 ……ギラギラした視線に、思わず息を呑んだ。

 橋場さんが、私を……鍛える?
 それって、一体どういう意味?

「石田……」

 見下ろしていた中性的な顔が、ゆっくりと近づいてくる。
 え、ちょっと待って。
 距離、近くない?
 ドキドキが一気に加速して、呼吸を忘れそうになる。

「な、何ですか……」

 気弱な声で問いかけると、橋場さんは爆弾のような言葉を落とした。

「――お前、俺の家に住め」

 ……え?

 ええっ!?
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