浦和探偵事務所帖 ぱぁとちゅ♡ 萬屋マイク
悠々
 事務所向かいのシャッターが下りたままの店先で、コンビニのビニール袋が風にあおられ、ひとりで踊っている。昼でも夜でもない時間帯、無声映画の一コマのように、よく踊る。その頼りない動きを眺めながら、女の話を聞いている俺がいる。この事務所には、何度も顔を出す女がいる。名前は靖子という。久美子は、靖子が来ると姿を消す。理由は、だいたい察しがつく。靖子の用件は、本人としてははっきり訴えているつもりなのだろうが、こちらには要領を得ない。ただ困っている、という感触だけが伝わり、最後まで意図が読み取れない。霧の中に立たされているような気分になる。
 まれにだが、こちらが先に意味を掴むこともある。言葉の外側に置かれた不安だけが、妙に正確に伝わってくる瞬間があるのだ。靖子は席に座ると、必ず足を組む。そのまま鞄を膝に置き、壁掛けの時計を見る。まず落ち着く姿勢を選ぶのだ。足を組むのは癖ではない。世界との距離を測るための、彼女なりの定規のようなものだと、俺は思っている。職場でも、私生活でも、食事会の席でも、靖子は同じ質問を用意している。
「ご両親はお元気ですか」
「お仕事、大変じゃありませんか」
「最近、体調はいかがですか」
左から、時計回り。順番は必ず守る。質問を投げた瞬間、彼女は腕時計か壁掛け時計に目をやる。答えは聞かない。興味がない。言葉を交わしたいわけでもない。「会話を成立させた」という事実だけが、彼女には必要なのだ。それでも人によっては、彼女を気遣いのできる人だと思う。最後まで話しかけてくれた、と感心する者もいる。人は、自分の話を遮られなければ、理解されたと勘違いする生き物だ。靖子は、そこだけは外さない。

 今日は珍しく、違う話題を持ち出してきた。銀行のATMで、暗証番号が生年月日のため変更してください、という表示が毎回出るが、どうにかならないか、という相談だった。靖子の各種パスワードは、すべて誕生日だ。英数字を求められれば、名前と誕生日。それで一式を運用している。メールアドレスまでもが名前と誕生日だと聞いて、さすがに大丈夫なのかと思ったが、口には出さなかった。むろん車のナンバーも誕生日だ。靖子には、自分の相談事にも順番がある。まずは無料。次に、部下や業者など、断れない相手。最後に有料。それでも高ければ、諦める。彼女は合理性を選ぶ。冷たいわけじゃない。ただ、迷わないための道筋を、それしか知らないだけだ。
 仕事場では、会議の終盤、「ここからが大事」というところで、小さな声で、
「お先に……」
そう言って席を立ち、静かに姿を消す。残された全員が顔を見合わせる。彼女は、終わる前に立ち上がる。失敗よりも、役割を背負うことのほうが、彼女には重かったのだろう。食事中も足は組んだまま、左手はポケット。犬食い。茶碗に残る米粒を見て、俺は思う。なんだろうな、この生き方は。話に飽きると、露骨に時計を見る。そして帰る。長くいれば、何かを期待される。彼女はそれを、何よりも避けたい。時計を見ているだけで、時間そのものは考えていないのではないか、とふと思う。
 ただひとつ、例外がある。ガラケーがなくなる、という話だけは、会う人すべてに聞いて回るのだ。
「ガラケー、いつ使えなくなるんですか」
「皆さんも心配でしょう」
そのときの靖子は、血が沸いているようだ。真剣な目でうなずき、相手の目を見る。だが、聞いてはいない。聞いて、聞かず、また聞く。不安を解消したいのだろうが、受け取る作法を、教わらなかった。問いは切実だが、答えの置き場がない。だから同じ問いを、何度でも差し出す。

「パソコンを使うのにWi-Fiが入らないんです」
「どこで」
「仕事場とか、カフェとか」
「パスワードを入れなきゃだめなんじゃないか」
靖子は壁の時計を見る。
「パスワードは登録してあるんです。家では入るんです。でも外に出ると入らないです」
「家のWi-Fiは、家の中しか飛ばない」
前にもした説明を、また繰り返しそうになって、俺は声を止めた。
 言葉を出さず、口だけを動かす。ゆっくりと、はっきりと。音のないまま、意味だけを押し出すように。靖子は一瞬、きょとんとした顔になり、次の瞬間、目を真ん丸くした。何が起きているのか分からない、という驚きと、取り残されるかもしれないという緊張が、同時に浮かぶ。俺は続ける。人差し指を唇に当て、静かに、という合図を作る。それから両手を広げ、事務所の中を指し示し、円を描く。外に向かって歩く真似をして、ふっと手を消す。靖子の視線が、俺の動きから外れない。時計を見ない。肩が固まり、背筋が伸びている。その空気を逃さず、俺はタブレットを取り出した。画面を見せながら、今度は動きをつける。家の中。外。場所ごとに違う。説明というより、短いショーだ。靖子は息を止め、画面と俺の動きを交互に追った。理解した、というより、流れを掴んだ顔だった。最後に俺は動きを止め、タブレットを靖子の前に置いた。タブレットで、同じ流れをもう一度なぞった。靖子は、ゆっくりとうなずいた。あとで確かめると、内容はきちんと通じていた。

「靖子さん、帰りましたか」
久美子はそう言って笑った。
「久美ちゃん、ちょっとは相手してくれよん」
久美子が聞いた話だ。靖子が隣町で評判のエステに行ったとき、店にたどり着けず、何度も電話をしたらしい。目印のラーメン屋を伝えても、住宅街をぐるぐる回り続け、結局、店主が車で迎えに行ったと聞いた。
 翌日も靖子は来た。何の用かと思えば、友達との待ち合わせまでの時間つぶしだった。用がない場所に来られる人間は、たぶん、行き先を決められなかった人だ。俺は煙草に火をつける。この女は、間違っているのだろうか。それとも、聞く耳を育ててもらえなかっただけなのか。耳はある。だが、聞いたあとにどう扱えばいいのか、誰も教えなかった。それだけの話かもしれない。理由がなくても、座っていい場所があると知ってしまった人間は、そこを手放さない。事務所の椅子は、今日も同じ位置にある。俺は何も言わず、煙を天井へ逃がした。
 靖子は、テレビもYouTubeも映画も見ない。考えたくないからだ。今日も、マンションから通過する新幹線と、空を、ただ眺めている。
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