氷の法医学者と、秘密の共犯になりました
真鍋先輩から電話が入ったのは、その直後だった。

『今井、藤堂宅の確認、許可が出た。奥さん立ち会いで任意確認だ。俺も向かう』

「了解です」

『沢渡先生は?』

「監察医務院に戻りました」

『大丈夫だったか』

私は一瞬、言葉を止めた。

大丈夫だったか。
その問いに、どこまで答えればいいのか。

処置室で先生が息を乱したこと。
私が前に立ったこと。
彼が震えながら処置を指示したこと。

それは、誰にも言わない。
言えない。
言いたくない。

「……いつも通りです」

『そうか。氷の先生は頼もしいな』

真鍋先輩の声は軽かった。

私は夜の空を見上げた。
雨はまだ落ちていない。
でも、湿った空気が肌にまとわりつく。

「はい」

私は静かに答えた。

「頼もしいです」

本当にそう思った。

怖がっていた。
苦しんでいた。
それでも、判断は正確だった。
誰かの命をつなぐために、必要なことを言った。

完璧だから頼もしいんじゃない。
弱くないから頼もしいんじゃない。

怖いまま、そこに立っていたから。

私は電話を切り、病院の玄関を出た。

沢渡先生の背中はもう見えない。
けれど、さっきの横顔が目に残っている。
青ざめた顔。
震える指先。
それでも冷静に処置を組み立てる声。

そして、私を見る目。

変化は、まだ小さい。
でも、確かに何かが変わった。

私の中でも。

事件のために利用していたはずだった。
秘密を握って、協力を引き出して、それでいいと思おうとしていた。

でも今日、処置室で私は、考えるより先に先生の前に立っていた。
血を見せないように。
誰にも悟られないように。
彼が崩れないように。

守りたいと思ってしまった。

取引相手ではなく。
氷の法医学者でもなく。
弱点を抱えたまま、それでも逃げなかった人を。

私は歩き出した。

藤堂さんの自宅へ向かうために。
白峰メディカルケアの誰かが残したかもしれない封筒を探すために。
次の眠るような死を止めるために。

でも、そのすべての奥で、別の声が静かに響いていた。

先生の秘密を知っている。
だからこそ、もう二度と、それを利用したくない。

雨が、一粒だけ頬に落ちた。

私は振り返り、沢渡先生が消えた道の先を見た。

私はあの人の秘密を、もう武器にはしたくない。
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