アイドルのプロ彼女に転職しました

第3話

 一週間後、玲奈はマネージャーの土居に電話していた。
 ライブを見てテンションが上がってしまった、もしくはイケメンアイドルに心を奪われてしまった、と言われればそうかもしれないが、会社に行く足がものすごく重く感じた。
 秘書課の仕事を淡々とこなしつつも、気づけば北浜修の健康維持のための食事メニューを考えている自分がいたのだ。
 家に帰ると、Grand-Blueが過去に出演した番組やライブ動画を何時間も見ていた。
 浩也と過ごした日々を思い出すこともあったが、Grand-Blueの映像を見てると、いつの間にか思い出す自分を忘れていた。
 二十八歳だけど、まだ、二十八歳。
 新しい世界に飛び込んでみてもいいかもしれない。

 土居が指定してきたのは中目黒にある高級マンションだった。
(さすがトップアイドル)
 玲奈はマンションを見上げる。
 この仕事を選ばなければこの地域に立ち寄ることすらなかっただろう。
 服装も散々迷った挙句、いつものパンツスーツに決めた。
 あくまでこれは仕事、なのだ。
「梅田さん、お電話頂いて本当に嬉しかったです」
 土居はいつもの穏やかな笑顔で迎えてくれた。
 完璧なセキュリティのマンションに入り、部屋のドアの前に着いた途端、急に緊張してきた。
 こんな緊張感は久しぶりだ。
 土居がドアを開けると、
 ワン
 鳴き声が聞こえた。
「あ、そうそう。梅田さん、犬は大丈夫ですか?」
「あ、はい。実家で飼ってたので、大丈夫です」
 玄関に入ると、クリーム色のチワワが廊下の向こうから走ってきた。
 舌を出しながら土居と玲奈の足元をチョロチョロ走り回る。
 犬をまとわりつかせながらリビングに入ると。
(出た!北浜修!)
 シャワーをしていたのか、まだ髪が濡れている。
 Tシャツとスウェット姿なのに、この色気とオーラ。
 玲奈は肩に力が入っていくのが分かった。
「修、梅田さんと初顔合わせなのに、まだ着替えてなかったのか」
 土居はそう言いながらも口調は優しい。
「いいじゃん。自分家なんだし」
 修は玲奈をチラッと見て、犬を抱っこした。
「初めまして。梅田玲奈と申します。よろしくお願いします」
 玲奈は背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「ども」
 修は無表情のままそう言って、犬を抱っこしてソファに座った。
(ん?…なんか、イメージが…)
 目の前のこの人は、先日のライブで笑顔で観客に手を振っていた人と同じ?
 玲奈が戸惑いながら修を見ていると、インターホンが鳴り、顧問弁護士の御子柴も部屋に入ってきた。
「梅田さん、プロ彼女の仕事を引き受けてくださり、本当にありがとうございます」
 入ってくるなり、玲奈に一礼する。
 そして、カバンから書類の束を出して、テーブルに広げた。
「あらかじめ説明しました通り、とりあえず試用期間の一か月、ここに住んでもらいます」
 土居が続ける。
「ちゃんと梅田さんの部屋もありますので」
 修は相変わらず無表情のままだ。
「早速引っ越しの手続きを進めます。もちろん引っ越し費用もこちらが持ちますので。あと、生活に必要なものは遠慮なく買い足して頂き、領収書をこちらに回してもらえれば結構です」
 御子柴はこの前会った時よりも更に流暢に話す。
「は、はい」
 玲奈は慌てて手帳を取り出し、メモを取る。
 それから、引っ越しの日程を決め、修の仕事のスケジュールを教えてもらった。
「修、生活に関してもう少し細かなことを説明してもらえるかな」
 立ち上がって冷蔵庫に向かおうとした修を、土居が呼び止めた。
 なんだか先ほどから修以外の三人で打ち合わせしているような感覚だ。
 修は冷蔵庫からペットボトルの水を出して一口飲む。
「朝食は軽め、夕食は遅くならなければ食べる。あとはリンの世話」
 そして、犬をまた抱っこした。
「あ、その子、リンっていう名前なんですね」
 玲奈は修に笑顔を向ける。
 秘書課で身に付けたビジネス仕様の笑顔だ。
 修はまたチラッと玲奈を見ただけで「そう」とだけ答えた。
 玲奈は「助けて」という目で土居を見る。
「リンは女の子なんだよな、修」
 土居は変わらず穏やかな顔をしているが、玲奈の心の中は全く穏やかではなかった。
 その時、またもやインターホンが鳴った。
 出迎えた土居と一緒にリビングに入ってきたのは、Grand-Blue最年少メンバーの真那斗だった。
「すみません、ヤジ馬で来ちゃいました。俺もこのマンションに住んでるんです」
「えー、この人が修のプロ彼女さん? バリキャリOLさんって感じで、めっちゃ仕事できそー」
 マナティの後ろから美少女が顔を出した。
 モデルのような長い手足に小さい顔。よく動くクリクリした瞳。
「初めまして。私、マナティのプロ彼女の、瑠加って言います」
 二人が横に並ぶと、まるでファッション雑誌の一ページを見ているようだった。
「初めまして。梅田玲奈です。よろしくお願いします」
 玲奈はまた背筋を伸ばして頭を下げた。
(メンバーそれぞれにプロ彼女がいるんだよね…)
 瑠加は大学生くらいだろうか。いずれにしても玲奈よりだいぶ若い。
 マナティが修に近寄る。
「綺麗な人だね、玲奈さん。仲良くなれそう?」
 修はマナティから顔を逸らす。
 代わりに犬のリンと目が合った。
 リンは修にしっかり抱っこされて大人しくしている。
(私、リンちゃんとは仲良くなれそうだけど、修とは大丈夫なんだろうか…)

 それから、引継ぎを無事に済ませて会社を退職し、今住んでいるマンションを引き払って、最低限の荷物だけ修のマンションに運んだ。
 家具や電化製品などはトランクルームに預けることにした。
 試用期間の一か月が無事終わるまでは、また引っ越しの可能性がある。
 キッチンに立ち野菜を切っていると、玲奈のスマホにメッセージが届いた。
『少し落ち着いた?またごはんでも行きましょう』
 メッセージを送ってきたのは瑠加だった。
 初めて会った日の帰り、マンションの前でこっそり連絡先を交換していたのだ。
 玲奈は『ぜひ、よろしくお願いします』と返信し、時計を見た。
 今日は久しぶりに修が早めに帰ってくるので、夕食の準備も気合が入る。

 このマンションに引っ越してきてから十日。
 相変わらず修は出会った時の態度のままだが、生活は思ったより快適だった。
 今は映画の撮影が入っているので、早朝から深夜まで帰ってこない日もある。
 洗濯は自分でしてくれるし、食事も魚以外は大抵食べてくれるので、メニューもそれほど悩まない。
 そして、この家は物が少ないので、部屋が散らかることもほとんどなかった。
 犬のリンも、最初は突然住人となった玲奈に興奮した様子だったが、今は自分の犬用ベッドで静かにしている時間が増えた。
 野菜を深めの鍋に入れてスープを作る。
 魚は苦手だが、エビなどの甲殻類と貝類は好きなようなので、葉物野菜の上にタコのカルパッチョを並べ、トマトを添える。あとは、鶏肉を照り焼き風にして焼けば出来上がりだ。
 今のところ家政婦のような仕事しかしておらず、プロ彼女の仕事がまだどんなものか掴めていない。
(まだ十日だし、ね…)
 玲奈は足元に寄って来たリンの頭を撫でながら、小さくため息をついた。

「映画の撮影、順調ですか?」
 玲奈は目の前でごはんを頬張る修に尋ねた。
 二人で向き合って夕食を摂り始めてからずっと、沈黙が続いていたからだ。
「うん、まあ。ケンカのシーン多いから、体力的にキツいけど」
「そうなんですね。それだったら、今日は鶏肉メニューにして良かったです。疲労回復効果があるので」
「……」
 そしてまた修は黙々と食べ物を口に運ぶ。
 体力を使う撮影なので、お腹を空かして帰って来たのだろう。
(でも、まずかったら食べないよね…)
 次々と綺麗になっていくお皿を見て安心する。
 そして、修は「ごちそうさま」と言って箸を置いた。
「あ、おかわりもありますよ」
 修は一瞬考えるような仕草をする。
「もう少し食べたいけど、明日も撮影だし、このくらいにしとく」
 そして、「それから」と続けた。
「敬語、使わなくていいんで」
「え?敬語?…ああ、すみません。いや、ごめんなさい。じゃ、これからは敬語なしで」
 修は自分の食器をシンクに置き、リンと一緒にソファに座る。
 テレビではGrand-Blueも出演する歌番組が始まった。
(はぁ…やっぱり目の前のこの人はアイドルなんだよなぁ…)
 テレビ画面にGrand-Blueの五人が写し出されると、一般人である自分との違いを見せつけられるようだった。
 ただ、初対面での修は無表情を崩さず、絶対好かれていないと感じていたが、最近は、同居人程度には受け入れられていると思えてきた。
 口数が少なく、脱力感満載の修が、実は本当の姿なのかもしれない。
 ファンには笑顔で応え、撮影現場では多くの人と関わり、体がキツくても辛い表情はできないはずだ。
 家ではリンに癒されながら脱力して、仕事とのバランスを取っているのかもしれない。
 玲奈は使った食器を食洗器に入れ、修が座っているソファの斜め横に座る。
 早く帰ってくる今日は、意を決して修に確認しようと決めていた。
「あの、ちょっと確認したいことがあるんですけど…いや、あって。いま話せる?」
 修は「うん」と言って、テレビから玲奈の方に目線を移動させる。
「ここに引っ越してきてから十日ほど経ったけど、私の仕事、こんな感じで大丈夫なのかな?」
「別に、問題ないと思うけど。何かあれば言うし」
 修は「何でこんなこと聞いてくるの?」と不思議そうな顔をしている。
「生活面では、まあ、問題無さそうだけど……彼女としての仕事というか、勤めというか…何もしてない気がするんだけど…」
 玲奈は恥ずかしくなって足元を見る。
 修は黙っている。
 玲奈が顔を上げて見ると、修が口を開いた。
「もしかして、なんか期待してる?」
「え?…き、期待って?」
「恋人同士のイチャイチャとか」
 玲奈は顔が赤くなるのが分かったが、修は変わらずの無表情だ。
「期待、というか、そういうことがしたい、とかではないんだけど…これからどうなるのかなって…」
 この年で、六歳も年下のイケメンアイドルに何を言ってるんだろう。
「玲奈さん、プロ彼女っていう言葉に流されすぎ」
(え…修が、笑ってる…?)
 あのライブの満面の笑みからは程遠いが、修が少し笑っている。
 しかも、初めて名前を呼んでくれた。
「そんなにクソ真面目に考えなくてもいいよ。俺はリンの世話をして欲しかったからプロ彼女を受け入れただけだし」
 そう言って、隣に座るリンの頭を撫でた。
 リンは甘えて修にすり寄る。
 玲奈は唖然とした。
(そんなんで、いいの?)
 自分が堅苦しく考えすぎなのだろうか。
 修がテレビの方を向く。
 ちょうどGrand-Blueが歌っている場面が映り、画面で見る修と目の前の修が、全く別人に見えた。
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