世間ではぐうたら令嬢ですが、実は拳姫と戦場で呼ばれております。

第31話 拳姫、十歳

 それは、今から数年前。
 まだレイリア・エルヴァーンが十歳だった頃の話である。
 王国北部の戦場は、その日も朝から荒れていた。
 空は低く曇り、吹き抜ける風には冷たい土と血の匂いが混ざっている。遠くで兵たちの怒声が上がり、剣戟の音が断続的に響いていた。

 だが、その騒然とした空気の中で、ある一点だけは妙な熱気に包まれている。

「出たぞ……!」
「【拳姫】だ!」
「今日も来てくれたのか……!」
「うおおお、勝ったなこれ!」

 前線の兵たちの視線が、一斉に一人の小さな背へと集まっていた。
 まだ年端もいかない少女。
 髪の毛を高い位置でまとめ、動きやすさを重視した軽装に身を包んでいる。
 武器らしい武器はない。剣も槍も弓も持たず、あるのは、ぎゅっと握られた小さな拳だけだ。

 ――レイリア・エルヴァーン。

 十歳にしてすでに戦場の兵たちから【拳姫】と呼ばれていた少女である。
 本人はといえば、その歓声をまるで意に介した様子もなく、眠たげな目で前方を見ていた。

「……ねむい」

 ぽつりと落ちた言葉に、近くにいた兵士が思わず苦笑する。

「れ、レイリア様、今日は特に数が多いそうです。ご無理はなさらず……」
「うん……無理しないよ。さっさと終わらせて、帰って寝るだけだから」
「そ、それが一番怖いんですよね……」

 兵士は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
 そんな妹の少し後ろで、冷たい顔を崩さず立っているのが、長女セリナだった。
 まだ年若いとはいえ、その眼差しにはすでに《雷の魔女》の片鱗がある。細身の体に剣を携え、レイリアの背を守るように、しかし周囲すべてを牽制するように立っていた。

「レイリア」
「なに、姉様」
「前に出すぎないこと。今日は私もいるけれど、あなたが勝手に深追いしたら抱えて帰るのが面倒だわ」
「えぇ……でも、前に出ないと終わるの遅くなるよ?」
「それでもよ」
「姉様って、たまに私を子ども扱いするよね」
「あなたは子どもよ。十歳でしょう」
「姉様もそこまで変わらないじゃん」
「私はあなたのお姉様です」

 言い切る声に迷いはなかった。
 周囲の兵たちも、うんうんと頷いている。

「さすがセリナ様……」
「保護者の圧が強い……」
「でも気持ちは分かる。あの小さなレイリア様が戦場のど真ん中に突っ込むの、見てるだけで寿命縮むからな……」
「分かる。分かるけど、でも見ちゃうんだよな……」
「わかる。かわいいし、強いし……もう戦場の癒やしなんだよ」
「癒やしが魔物を素手で吹っ飛ばすの、字面がやばいけどな」

 ひそひそと交わされる兵たちの会話に、レイリアはようやく少しだけ首を傾げた。

「……なんか今、変なこと言われてない?」
「気にしなくていいわ。大体いつもあなたに甘いだけだから」
「へぇ」
「むしろ全員甘すぎるくらいよ」

 セリナは少しだけ目を細める。
 実際、兵たちの中には戦場でレイリアを見つけるだけで士気が上がる者も多かった。
 小さくて可愛らしい外見。眠たげで気の抜けた態度。なのに、いざ戦えば魔物を拳で粉砕する。
 その落差は、兵たちにとっても強烈だったのだ。

「レイリア様ー! 終わったら温かいお茶、用意しますから!」
「あと毛布も!」
「昼寝用のクッション、前より柔らかいの新調しました!」
「わぁい。みんな優しいね」
「……本当に甘いわね」

 セリナが呆れたように呟く。
 だがその目の奥には、どこか誇らしげな色もあった。
 そんな空気を切り裂くように、遠くで咆哮が上がる。
 兵たちの表情が、一斉に引き締まった。
 霧の向こうから現れたのは、獣型の魔物の群れだった。
 四足で地を這うもの、二足で駆けるもの、甲殻に覆われた大型種まで混ざっている。数はざっと見ても数十。しかも、後ろにはまだ増援の影が蠢いていた。

「来るぞ!」
「前衛、構えろ!」
「弓兵、第二列!」

 指揮官が怒鳴る。
 兵たちは盾を並べ、槍を構えた。
 だが、その陣の前へ――ひょい、と一人の小さな影が出る。

「レイリア!」
「ちょっと行ってくるね、姉様」
「待ちなさい!……はぁ、もう」

 止めるより先に、レイリアは地を蹴っていた。
 その一歩は、幼い少女のものとは思えないほど鋭い。
 軽いはずの体が、まるで弾かれるように前へ跳ぶ。
 迫り来る最前列の魔物が牙を剥いた、その瞬間。

 ――ドゴンッ!!

 レイリアの拳が、魔物の頭部へめり込んだ。
 鈍く、重たい衝撃。
 次の瞬間には巨体が横へ吹き飛び、後続を巻き込みながら地面を転がっていく。

「うおおおお!?」
「一撃!?」
「相変わらず加減ってものがねぇ!」

 兵たちが叫ぶ。
 だがレイリア本人は、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、次の一体へ向かっていた。

「はい、二体目ー」

 気の抜けた声。
 だが、拳は一切抜けていない。
 踏み込み、捻り、打ち抜く。
 そのたびに魔物が吹き飛ぶ。
 骨の砕ける音と、地面が割れる音と、兵士たちのどよめきが重なった。
 大型種が吠えながら前足を振り下ろす。
 レイリアはそれを寸前でかわし、がら空きになった腹部へ真下から拳を叩き込んだ。

 ――バキィッ!!

 鈍い音とともに甲殻が砕ける。
 大型種の巨体が、一瞬浮いた。

「……重いなぁ」

 そうぼやきながら、もう一発。
 追撃の拳が顔面を打ち抜き、巨体は地面へ沈んだ。
 兵たちはもはや口を開けて見るしかない。

「す、すげぇ……」
「本当に十歳か?」
「十歳に見える見えない以前に、人間に見えないんだが」
「でもかわいい」
「わかる」
「わかるじゃねぇよ集中しろ!」

 その間にも、レイリアは次々と魔物を蹴散らしていく。
 その小さな背を見つめながら、セリナはひとつ息を吐いた。

「……本当に、目を離せない子ね」

 そう呟くと同時に、彼女もまた剣を抜く。
 レイリアの死角へ回ろうとしていた飛行型の魔物へ向けて、雷をまとった一閃が飛んだ。
 空が、裂ける。

 ――バチィィン!!

 雷光に焼かれた魔物が悲鳴を上げて落ちる。

「レイリア、後ろ」
「うん、ありがと姉様」
「感謝するならもう少し丁寧に守らせなさい」
「姉様、それ難しい注文だよ」
「あなた相手だと本当に難しいのよ」

 言いながら、セリナは次々と魔物を切り払っていく。
 妹が前線を破り、姉がその背を守る。
 それだけで、王国軍の士気は目に見えて上がっていた。
 だが、その時だった。
 戦場の奥――魔物の群れのさらに向こうから、ひどく濃い魔力が流れ込んでくる。

「……っ」

 セリナが目を細める。
 レイリアも、ようやく拳を止めて顔を上げた。
 空気が変わる。
 間違いなく、ただの魔物ではない。
 もっと濃く、もっと異質な何かがこちらを見ていた。

「……姉様」
「分かってる。下がりなさい、と言いたいところだけど……たぶんもう遅いわね」

 霧の奥から、二つの影が姿を現した。
 一人は、長身で獣じみた雰囲気を纏う男。
 赤黒い気配をまとい、口元には獰猛な笑みを浮かべている。
 もう一人は、それより少し線の細い男だった。
 どこか神経質そうな顔立ちで、冷ややかな目をしている。

「へぇ……」

 先に声を漏らしたのは、長身の男のほうだった。
 その視線が、兵たちでもセリナでもなく――一直線にレイリアへ注がれる。

「なんだあれ。ちっせぇな」
「兄上、失礼ですよ」
「いやでも見ろよ。ちっせぇのに、今あの魔物を殴り飛ばしてたぞ」
「それは見ていましたが」
「……面白ぇ」

 男が静かに笑う。
 その瞬間、兵たちの背筋に冷たいものが走った。

「魔族……!」
「人型……!」
「まずい、退け!」

 兵たちがざわめき、陣が揺らぐ。
 だがレイリアだけは、じっと二人を見ていた。

「……姉様。あれ、強い?」
「強いわね」
「そっか」
「嬉しそうな顔をしないで」
「してないよ」
「してるわ」

 セリナは一歩前へ出て、妹を背にかばう。
 だがその動きに、長身の男――ラグザールが眉を上げた。

「なんだよ。保護者か?」
「ええ。かわいい妹の前に立つのは姉の役目です」
「へぇ。じゃあ、その妹借りてもいいか?」
「よくないわね」
「即答だな」
「当然でしょう」

 セリナの剣先に雷が宿る。
 ぴり、と空気が震えた。
 一方で、ゼイディスはじっとレイリアを見ていた。
 いや、正確にはその隣のセリナも見ていたが、今はまだ目立たなかった。

「兄上、あまり雑に絡まないでください。あの子、見た目よりずっと危ないですよ」
「だから面白ぇんだろ」

 ラグザールはゆっくりと前へ出る。
 まるで散歩でもするような気楽さで。けれど、一歩ごとに地面が軋んだ。

「おい、ちび」
「誰がちび」
「お前だよ」

 レイリアの眉がぴくりと動く。

「今、魔物殴ってただろ」
「うん」
「楽しいか?」
「まあまあ」
「ははっ。いい返事だな」

 ラグザールの目が細くなる。
 その視線は、獲物を見る目とも、何かを見つけてしまった目ともつかない、ひどく危ういものだった。

「なら、俺とやろうぜ」
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