八年越しの初恋、回収します。〜私のトリコになった部下に、八年前から溺愛されています〜


二人で職場へと戻る廊下を並んで歩く。

「瞳子さん、李人くんの留学はもうすぐですね」
「そうね……」

李人の名前を出されると、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
応援すると決めた。
海外へ行って、自分の夢を追いかける弟を止めるつもりもない。
それでも、ずっと一緒に暮らしてきた弟がいなくなる寂しさまで、簡単に消えるわけではなかった。

そんな私の気持ちを察したのか、朝倉くんがふっと笑う。

「代わりに僕が空いた穴を埋めますから。瞳子さんは何も心配しないでくださいね」

ピカピカの笑顔が眩しい。
弟の代わりなんて簡単にできるものではない。
でも、彼なりに私を元気づけようとしてくれているのが伝わってきた。

「……ありがとう」

戸惑いながら、そう返す。
朝倉くんは満足そうに頷いた。

こういうところは、本当に優しい人だと思う。
私の生活の隙間まで埋めようとしてくれる。
少しだけ、後めたい気持ちが顔をのぞかせる。

(優しいから、好き。それでいいのよね……)

胸の奥にふっと影がよぎった。
そのときだった。

「本当にっ、何なの!」

廊下の向こうから、女性の怒鳴り声が聞こえてきた。
清掃ワゴンを押していた清掃員さんが、怒り心頭といった顔をしている。

朝倉くんがぴたりと足を止めた。

「後藤さん、お疲れ様です。何かあったんですか?」

相手が誰であっても、自然に声をかける。

(さすが成績優秀な営業マン!)

人との距離を縮めるのが、本当にうまい!

「カップルが喧嘩してジュースこぼして、綺麗に拭いてくれって命令してくるのよ? 自分たちでやりなさいよねっ!」

後藤さんは額に青筋を浮かべている。

「それは大変でしたね」

朝倉くんが苦笑する。

廊下の奥には、観葉植物で仕切られた休憩コーナーがある。
そこから、男女の言い争う声が聞こえてきた。

(この声……聞こ覚えがある)

朝倉くんと目が合った。
息を顰めて、二人で、こっそり覗いてみる。

そこにいたのは──龍彦と野々宮綾香だった。

「綾香は俺が出世頭だから近づいたのかよっ!」

「彼女がいながらデートに誘ったのは、そっちじゃないの!」

「でも、いきなり結婚はないだろう? もう少し冷静になろう!」

「朝倉くんに恥ずかしいところを見られたら、会社にいられないわ! 上司にも結婚退職するって報告したからね! 責任を取るのが当然でしょっ!」

思いがけず重い話が耳に入り、胸がぐっと苦しくなる。

(関わってはいけない)

私はそっと視線を逸らした。

このまま何も聞かなかったことにして、通り過ぎよう。

そう思った──のに。

隣にいた朝倉くんが、一歩前へ出た。

「え……?」

行動に一切の迷いがない。
彼は2人の前まで歩いていくと、落ち着いた声で言った。

「こぼしたものは、自分たちで片付けたらどうですか?」

「おまえ……っ」

「後藤さんは召使いではありませんよ」

龍彦と野々宮さんが、ぽかんと朝倉くんを見る。
私は思わず息を飲んだ。

(カップルの喧嘩に、そこまで首を突っ込む?)

朝倉くんは一歩も引かない。
むしろ、野々宮さんのほうが気まずそうに視線を泳がせた。

「……しっかり責任はとってもらうからねっ!」

野々宮さんは龍彦にそう言い残し、逃げるようにその場を離れていく。

そして、私の横を通り過ぎる瞬間。

「おばさんはフラれたんだから、もう雨森さんと関わらないでくださいねっ!」

痛いくらいの鋭い視線を向けられた。
まるで私が龍彦に未練を残しているような言い方だ。

(若いって、自分に自信があって羨ましい)

悔しいというより、憐れみを感じてしまう。

私はもう、龍彦に未練なんてない。

そんなことを考えていると、龍彦がポケットに手を入れ、朝倉くんへ近づいていった。

「朝倉、お前が綾香に俺が出世頭だって吹き込んで、焚きつけたらしいな?」

「雨森さんは、同期の中で一番の成績ですよね」

朝倉くんは涼しい顔をしている。

「瞳子さんのおかげですが」

「……っ!」

龍彦の顔が引きつった。

「茶化すなっ!」

声を荒らげ、朝倉くんを睨みつける。

「お前のせいで、綾香に結婚しろって脅迫されてんだぞ! お前が責任とれよ!」

無茶苦茶な理論だった。
体育会系のノリで、いまだに先輩というだけで下の者が従うと思っている。
いつの間にか龍彦は、この会社の変化に取り残された人間になっていた。

そんな龍彦を、朝倉くんは冷静に見つめる。

「野々宮さんとセックスをしたのは雨森さんです」

「なっ……!」

「下心から手を出したあなたの責任です」

「お、おまえっ……!」

あまりにも堂々と言われて、私は思わず耳を塞ぎたくなった。

(もう……やめてよ……)

でも、それ以上に気になることがあった。
龍彦に、こんなところで油を売っている暇があるのだろうか。

「……雨森さん」
「なんだよ」

「株主のフォローは大丈夫なんですか?」

私は、どうしても気になって尋ねてしまった。

けれど、龍彦が反応したのは、仕事の話ではなかった。

「……早速、俺のことは苗字呼びかよ」

キュッと龍彦の目が細くなる。

「よそよそしいもんだな」






< 30 / 82 >

この作品をシェア

pagetop