底辺乗り物オタクの私、推しに見つかりました―推しの推し活が、溺愛すぎる
 東京湾アクアラインの長いトンネルを抜けると、空気の質が劇的に変わった。
人工的なビル群の影は消え、フロントガラスの向こうには、春特有の柔らかく湿り気を帯びた房総の風が吹き抜けている。 「海を越えると、やっぱり空が広いね」  壮大が窓を少しだけ開けると、潮の香りに混じって、どこか土の匂いが車内に流れ込んできた。  
私は、助手席でルートマップと手元の時計を交互に見つめながら、驚きを隠せずにいた。 「・・・信じられない。車だと、もう房総半島の上なんですね。いつも鉄道で来るときは、安房鴨川経由でぐるっと回るか、外房線の特急わかしおで一気に下るか。それだけで旅の半分が終わる感覚だったのに」 「今日は特別な『運転士』がついてるからね。ショートカットはお手の物だよ」  壮大は得意げにハンドルを切り、木更津東インターを降りて一般道へと車を進めた。
 車内には、彼が事前に準備してくれた「いすみ鉄道サンプリング曲」が流れている。ジョイント音の軽快なリズムに、どこか懐かしいアコースティックギターの旋律が重なるその曲を聴いていると、まだ見ぬ黄色い車両への期待で胸が高鳴った。私にとって、いすみ鉄道の菜の花列車に乗ることは、カレンダーをめくるよりも正確に「春の訪れ」を実感する儀式のようなものだ。あの黄色い車体を目にし、菜の花の香りに包まれない限り、私の身体は春を受け入れられない仕様になっている。
 車はやがて、いすみ鉄道の沿線、国吉駅付近へと差し掛かった。 「民鉄さん、そろそろ『獲物』が来る時間じゃない?」 「ええ、ダイヤ通りなら、あと数分で上り列車がこの先のカーブを通過するはずです」  私がカメラのセッティングを始めると、壮大は慣れた手つきで脇道へと入り、視界が開けた土手のそばに車をピタリと停めた。 「ここなら、あそこのカーブを曲がってくる黄色いのが正面から見えるよ。ほら、準備して」  推しである壮大に、撮影スポットをナビゲートされるという贅沢。いつもは駅のホームや踏切の脇で、孤独にシャッターチャンスを待つのに、今日は特等席まで運んでもらっている。 「ありがとうございます、壮大さん・・・。なんだか、外側から追いかけるのって新鮮で、少しだけ後ろめたいような気もします」 「ははっ、なんで? 鉄道を多角的にプロデュースしてると思えばいいんだよ。ほら、来た!」
 遠くから、いすみ鉄道独特の軽やかなエンジン音が聞こえてきた。  菜の花の絨毯を割り裂くようにして現れたのは、鮮やかな黄色い車体——いすみ300型だ。  ファインダー越しに見るその姿は、周囲に咲き乱れる菜の花の黄色と完璧に溶け合い、まるで風景そのものが意思を持って動き出したかのような錯覚を覚える。  その時、私の耳が、スピーカーから流れる音楽と、本物のエンジン音を同時に捉えた。 「あ・・・! 壮大さん、今の音! さっきのトラックに入ってた低音、この車両のアイドリング音だったんですね」 「気づいた? さすが音鉄。その重低音が欲しくて、わざわざ録りに行ったんだよ。本物の音と重なると、音楽が完成するだろ?」  壮大は、子供のような無邪気な笑顔で、走り去る列車を見送った。彼は、鉄道を単なる「乗り物」としてではなく、風景と音が織りなす一つの芸術作品として、私と一緒に楽しんでくれている。
列車を見送った後、私たちはさらに線路沿いの小道を並走した。  いすみ鉄道の魅力は、なんといってもその「黄色」の共演だ。新型車両の明るい黄色と、昭和の面影を色濃く残すキハの重厚な色合い。それが、沿線を埋め尽くす菜の花の群生と完璧に混ざり合い、視界のすべてを黄金色に染め上げていく。
「やっぱり、この景色を見ないと春が来た気がしません。私の身体は、この黄色を摂取して初めて春のスイッチが入るようにできてるんです」  私が噛み締めるように呟くと、壮大は車をゆっくりと走らせ、並走する車両の速度と自身のエンジンの回転数を完璧にシンクロさせながら答えた。
「同感。鉄道に乗って中から見る黄色もいいけど、こうして車から『風景としての鉄道』を眺めるのは、作り手側(オタク)としては最高の贅沢だよね。鉄道が風景を彩って、風景が鉄道を輝かせる。この完璧な相互作用を外側から俯瞰で味わえるのは、機動力のある車ならではの特権だよ」
 壮大の言葉には、迷いがなかった。彼は単なる付き添いではなく、一人の「表現者」として、そして「鉄道ガチ勢」として、この瞬間を私と同じ熱量で食らっている。
「ほら、あそこの踏切の向こう。菜の花の密度が一番高いポイントだよ。車、寄せるね」
すると突然、壮大がふざけたように菜の花の茂みに顔を寄せ、乙女を装って言った。 「ねえねえ、民亜。・・・撮って」  彼は両手を頬に当てて、いたずらっぽく小首を傾げた。トップスターが、この野山で「乙女ポーズ」を決めている。あまりの可笑しさに、私は笑いながらカメラを構えた。 「あ、いいですね! 菜の花の妖精さん、こっち向いてくださーい」  カチャ・カチャ。  その冗談に応えながら、私は夢中でシャッターを切った。ファインダーの中の彼は、背景の黄色に溶け込んで、冗談とは思えないほど美しかった。
 数枚撮ったところで、壮大がふっと真面目な顔に戻った。 「・・・あ、そういえばさ。この前スタジオで撮ってくれた写真、あれ、ここに載ってるから」  彼はスマホをいじりながら、何気ない口調でそう言った。 「どういうこと・・・?」


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