終電から始まる、偽装恋人生活

第1話

ホームに着いた瞬間、電光掲示板に表示された文字が私を現実に引き戻した。

『最終電車 まもなく』

この言葉は、いつもやさしいようで残酷だ。
乗れた者だけが救われる、と言われている気がする。

私は息を整えながら、端のほうに立った。
きれいなヒールより、楽なスニーカーが正解だったな、と今さら思う。
終電を待つホームは、昼間の駅と別の場所だ。酔いと疲労と、少しの焦りが、同じ空気に混ざっている。

電車が滑り込んできて、ドアが開く。
私は人の波に混ざらないように、なるべく奥へと乗り込んだ。

車内は思ったより空いている。
座席に腰を落とした瞬間、膝から力が抜けた。鞄の中のノートPCが、まるで重りみたいに感じる。

――やっと、帰れる。

そう安心したのに。

「ねえねえ」

声が近い。
アルコールの匂いが、距離の概念を壊してくる。

隣の席に、年上の男が半分、体をねじ込むように座っていた。スーツのネクタイは緩み、目は笑ってないのに口だけが笑っている。

「お姉さん。ひとり?」

肩に、手が触れそうになる。

――え?終電内でナンパ?

私は反射的に体を引いた。

「触らないでください」

言い切った。
言い切れたことに、自分で驚いた。

けれど男は、引かない。
引かないどころか、「こわーい」と笑って、私の鞄の取っ手に指をかけた。

「お姉さん、そんなに警戒しなくても――」

次の瞬間だった。

「すみません」

低い声が割って入る。
男の視線がそちらへ向いたのと同時に、私の肩に、軽く手が置かれた。

驚いて顔を上げると、立っていたのは見知らぬ男性だった。
黒いコート。きちんとした髪。目元は涼しくて、でも冷たくない。

彼は男のほうを見て、淡々と言った。

「彼女です」

――出た。ドラマでしか聞いたことないやつ。

私が固まっている間に、彼は私と男の間に身体を滑り込ませ、無理やり座った。
距離が一気に変わる。男の雑な熱が遮られて、空気が整う感じがした。

「は?いや、俺、話してただけで――」

「そうですか。彼女、今夜は疲れてるんで」

彼の声は穏やかなのに、言葉の端が折れない。
男は何か言い返そうとして、でも彼の目を見て口を閉じた。
その目は、静かに「これ以上はやめろ」と言っていた。

しばらくして男は、舌打ちまじりに席を立つ。
「ケチ」と吐き捨て、別の車両へ消えていった。

電車の揺れが戻ってくる。
それまで止まっていた心臓が、遅れてドクンと打った。

「……大丈夫ですか?」

私がお礼を言うより先に、彼が言った。

「怖かったですよね。あなたが降りるまで、ここに」

そう言って、彼は私の隣ではなく、少し前の立ち位置に立った。
私を守る壁みたいに。
でも壁の圧はない。視界を塞がない。逃げ道を残した距離だ。

――慣れてる。
こういうときの、人の扱いに。

「ありがとうございます。……咄嗟に、すごい言葉が出てましたね」

自分でも驚くくらい、変な冗談が口からこぼれた。
怖さを笑いで薄めたかったのかもしれない。

彼は一瞬だけ口元を緩めた。

「令和でも、まだ使えます」

その返しが意外と軽くて、私は息を吸い直した。
笑っていいんだ、と体が思い出す。

「……こういう時の対応、慣れてるんですね」

「そんなことないですよ。彼氏のふりとか、初めてですし」

彼はそう言って、車内の端に目を配った。
まるで、次の危険を予測しているみたいに。

電車は駅を通過していく。
窓に映る私の顔は、さっきより少しだけ安心した顔に戻っていた。

「あなたは……終電、よく乗るんですか」

尋ねると、彼は少しだけ間を置いた。

「仕事で。……帰りが遅いんで」

それ以上は言わない。
言わないけど、嘘の匂いもしない。
言葉の引き算が上手な人だ。

私も、聞きすぎないほうがいい気がした。
初対面の誰かの優しさに、踏み込みすぎるのは良くないと思った。

電車は私の最寄りへ近づいてきた。

「次、降ります」

私が立ち上がると、彼も自然に立った。

「送ります」

「え……?」

「改札まで。――さっきの人が、駅で待ってる可能性もあります」

その言い方は、過剰じゃない。怖いほど現実的だった。
私は咄嗟に「大丈夫です」と言いかけて、飲み込んだ。

今日だけは、この人に甘えさせてもらおう。

ドアが開き、私たちはホームへ降りる。
冷たい空気が頬に刺さる。
深夜の駅は、音が少ない。靴音がやけに響く。

階段を下り、改札へ向かう通路を歩く。
彼は私の少し斜め前を歩いて、時々少し振り返る。
確認の眼差し。付き添いのプロの視線。

改札が見えてきて、私はようやく息を吐いた。
ここまで来れば、もう――

そう思ったのに、胸の内側が妙に落ち着かなかった。
このまま別れたら、たぶん私は明日から、電車に乗るたびに今日のことを思い出す。
「彼女です」と言われたときの、あの瞬間を。

終電の改札前。駅前ローターに人の気配は、もうない。
自動改札の「ピッ」という音だけが、やけに元気に響いた。

彼は一歩、引いた。

「あの、私の最寄り駅で降りてもらってしまったけど、あなたのご自宅の最寄り駅もこのあたりですか?ここから帰れますか?タクシーとか、探しますか……?」

「……いえ、大丈夫ですよ。あなたは夜道に注意して。気をつけて帰ってください」

そう言って、彼はこちらに背中を向けた。

「……あ、明日も、終電ですか?」

自分の声が、思ったより細い。
返事はすぐには来ない。たった数秒が、長い。

彼は振り向かずに言った。

「……乗らない方がいい。できれば、人が多い、もう少し早い時間帯に帰宅することをおすすめします」

「……あ、はい」

「それに、俺みたいなのに関わると……」

その瞬間、彼のポケットが震える。
スマホ。
彼は迷いなく出て、短く息を吐いてから通話に出た。

「……はい。……現場対応、終わりました」

声が低い。さっき車内で私に向けた声とは別人みたいに、事務的で。

私は「聞いてはいけない」と分かっているのに、その場から離れられない。

「……ええ。……こちらは問題なしです」

駅前商店街へ続く並木道。
その影が、わずかに動いた。

――カシャ。

乾いた音。
この時間の駅には不釣り合いな、軽いシャッター音。

彼の目が一瞬だけ、鋭くなる。
顔色が変わる、というより――表情の温度が下がる。

彼は通話を切るのが早かった。
まるで、私より先に危険を見つけてしまったみたいに。

「……帰って」

振り向いた彼の声は、さっきより静かで、強い。

「今夜のこと、忘れて」

「でも――」

言いかけた私を、彼は最後まで見なかった。
視線は、木の影のほうに置いたまま。

「お願いだ」

その一言だけ置いて、彼は並木道の向こうへ足を向ける。
人のいない商店街に、足音が吸い込まれていく。

私は、木の影を見た。
そこには、すでに誰もいなかった。

終電は、もう行ってしまった。
なのに私の胸の中だけ、発車ベルが鳴りやまない。
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