親友に婚約者を奪われた毛虫令嬢は、腹黒王子様に捕獲されてしまった〜この溺愛からはきっと逃れられない〜
27 クマちゃんの羽化
私は日々の営みを、ただ淡々と繰り返していた。
クマちゃんを見守り、資料を読み込み、先生たちと穏やかに言葉を交わす。……自分の心を、どこかに置き忘れてきてしまったかのように。
そんなある日の朝、いつものように飼育箱を覗くと、蛹の様子が違うことに気が付いた。殻が破れ、中からなにか顔を出し始めている。羽化が始まったのだった。
「クマちゃん……っ。頑張って!」
私は祈るように胸の前で両手を組み、クマちゃんの羽化を見守った。
殻の中から時間をかけ、頭、脚、まだ濡れて皺の寄った翅が出てくる。――そして、ゆっくりゆっくりと、黒い翅を広げ始めた。
クマちゃんは立派なヒトリガの成虫へと姿を変えたのだった――ん?
「え……?」
私は息を呑んだ。
目の前で開かれた翅は、私の知っているヒトリガとは違う。
とても深い黒い翅は朝日を浴びると、紫にも青にも魔法のように色を変え、一つある金色の斑紋が、まるで夜空に浮かぶ満月のようだった。未だかつて見たことがない、とても幻想的で気高い蝶――。
私は瞬きをするのも忘れ、ただただ見入っていた。
「綺麗……。あなた、いったい……?」
メモリア峰からレノ様に付いてきた毛虫は羽化し、漆黒の蝶へ変貌を遂げた。
「も、もしかして、この子が……セレニーノの黒蝶……?」
(早く先生に、確認してもらわなくちゃ!)
私は羽ばたき始めたクマちゃんを優しく指に乗せると、木で編み込んだ小さめの虫籠に移す。はやる気持ちを抑えきれず、私は駆け出すように研究所に向かった。
「先生! この子を見てください!」
玄関でクリフさんに出迎えられるなり、私は一目散に先生の元へ駆け寄る。先生は私のあまりの剣幕に、目を丸くして驚いていた。
私がテーブルの上に虫籠を置くと、先生は眼鏡を指で押し上げ、身を乗り出した。
「……ん? え? ま、まさか、この蝶は……っ。ティナさん、この蝶を一体どちらで!?」
「クマちゃんなんです! 今朝、羽化したらこの姿に……っ」
「な、なるほど! そうだったんですね! 確かに、黒蝶の幼虫に関しての資料は乏しかったので、私としたことが油断していました。あんなにヒトリガの幼虫と酷似していたとは……」
先生は顎に手を当てながら、小さく何度もうなずいた。
「黒蝶が見つかったって? へぇ、これは綺麗だねー」
私たちが虫籠を囲んでいると、後ろからクリフさんが近づき感心している。
「はい……、実はクマちゃんが黒蝶の幼虫だったみたいで」
「あぁ、そっかー。ふーん……」
クリフさんは口元を手で押さえると、すっと目を細めた。その表情に正体の知れない違和感を覚えたが、先生に声を掛けられると意識はそちらに引き戻される。
「では、すぐにレノ様にお知らせした方がいいですねぇ」
「レノ様は今日は?」
研究所内を見回すが、彼の姿は見当たらない。まだ来ていないようだ。
(もしかしてケイシー様と……?)
そう思うと、胸の辺りがズンと重くなった。
「あいにく、本日は外せないお仕事があるようでして、こちらには来られないと仰っていたのですよ。ですが、何かあった場合は連絡する手筈になってますので、早急にお伝えしておきますねぇ」
(そっか……。お仕事……)
それを聞いてスッと心が軽くなるのを感じ、自分のあまりの単純さに笑ってしまう。
ここは先生にお任せした方がいいだろう。
「分かりました。お願いします」
レノ様が来られないとなると、クマちゃんは専門家である先生に預けるのが一番いいのだろうけど。
どうしたらいいか悩んでいると、先生が口を開いた。
「ティナさん、とりあえずこの子を連れて帰って、明日また来ていただけますかねぇ?」
「え、私が連れて帰ってもいいんですか?」
「はい。私が預かってもいいのですが、クマちゃんはティナさんの元にいた方が安心でしょうからねぇ」
先生は目を細め慈しむように微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます。じゃあ、また明日来ます」
そう言って頭を下げると、クマちゃんを連れて研究所を後にした。
「ティナさーん、ちょっといい?」
馬車に乗り込む手前でクリフさんに声を掛けられた。クリフさんはいつもの軽い表情とは違う、真剣な眼差しをこちらに向ける。
「え? どうしたんですか?」
「う……ん、レノ様と、ケイシー嬢のことで、ちょっと……ね。……二人で、話せるかな?」
クリフさんは言葉を濁し、私の後ろに控えるシエンナの方を気にしている。
(レノ様とケイシー様のこと……? そんなに大事な話なの……?)
嫌な予感に胸がざわついてくる。でも、気になってしまう。
「……分かりました。シエンナ、先に馬車に乗っていてくれる? すぐに戻るから」
「お、お嬢様……。はい、承知いたしました」
シエンナに虫籠を渡そうとも思ったが、一人でいるのは心細くてそのまま持っていることにした。彼女は心配そうな視線を私に送ったが、促されるまま馬車に乗り込む。
クリフさんはチラリと一瞬馬車に冷ややかな視線を送った後、少し離れた場所にある大木の方向へ指差した。
「……じゃあさ、ティナさん。あっちの木陰で話さない?」
クリフさんは馬車の後方へ向かって歩き出す。あまり遠くまで行くのは……と、躊躇いながらもその後ろを追った。
大きなブナの木の下に来たところで、クリフさんはこちらを振り返る。
「ティナさん、ごめんねー。俺がケイシー嬢を連れてきたばっかりに、あんたを悲しませる結果になっちゃったみたいでさぁ」
「あ、それはクリフさんのせいでは……」
「あんまり可哀想だからさ……」
虫籠を持つ反対の手を振って否定していると、ぼそりと何か呟いたクリフさんが私に一歩近づく。
「黒蝶と一緒に、あんたも連れてってやるよ」
そう言って、突然私の口元を湿った布のような物で塞ぐ。
(――!? この臭いって、薬品!?)
研究所で嗅いだことのある、少し甘く、ツンと鼻を刺激する薬品の臭い。
抵抗しようともがくが、みるみるうちに頭がぼーっとし身体に力が入らなくなってくる。歪む視界の端に、冷酷な笑みを浮かべてこちらを見下ろすクリフさんが見えた。
(……ど……して……?)
朦朧とする意識の中で、ふとレノ様の姿が浮かぶ。
(……レノ……さ……ま……)
そうして私は、暗闇の中へ落ちていった。
クマちゃんを見守り、資料を読み込み、先生たちと穏やかに言葉を交わす。……自分の心を、どこかに置き忘れてきてしまったかのように。
そんなある日の朝、いつものように飼育箱を覗くと、蛹の様子が違うことに気が付いた。殻が破れ、中からなにか顔を出し始めている。羽化が始まったのだった。
「クマちゃん……っ。頑張って!」
私は祈るように胸の前で両手を組み、クマちゃんの羽化を見守った。
殻の中から時間をかけ、頭、脚、まだ濡れて皺の寄った翅が出てくる。――そして、ゆっくりゆっくりと、黒い翅を広げ始めた。
クマちゃんは立派なヒトリガの成虫へと姿を変えたのだった――ん?
「え……?」
私は息を呑んだ。
目の前で開かれた翅は、私の知っているヒトリガとは違う。
とても深い黒い翅は朝日を浴びると、紫にも青にも魔法のように色を変え、一つある金色の斑紋が、まるで夜空に浮かぶ満月のようだった。未だかつて見たことがない、とても幻想的で気高い蝶――。
私は瞬きをするのも忘れ、ただただ見入っていた。
「綺麗……。あなた、いったい……?」
メモリア峰からレノ様に付いてきた毛虫は羽化し、漆黒の蝶へ変貌を遂げた。
「も、もしかして、この子が……セレニーノの黒蝶……?」
(早く先生に、確認してもらわなくちゃ!)
私は羽ばたき始めたクマちゃんを優しく指に乗せると、木で編み込んだ小さめの虫籠に移す。はやる気持ちを抑えきれず、私は駆け出すように研究所に向かった。
「先生! この子を見てください!」
玄関でクリフさんに出迎えられるなり、私は一目散に先生の元へ駆け寄る。先生は私のあまりの剣幕に、目を丸くして驚いていた。
私がテーブルの上に虫籠を置くと、先生は眼鏡を指で押し上げ、身を乗り出した。
「……ん? え? ま、まさか、この蝶は……っ。ティナさん、この蝶を一体どちらで!?」
「クマちゃんなんです! 今朝、羽化したらこの姿に……っ」
「な、なるほど! そうだったんですね! 確かに、黒蝶の幼虫に関しての資料は乏しかったので、私としたことが油断していました。あんなにヒトリガの幼虫と酷似していたとは……」
先生は顎に手を当てながら、小さく何度もうなずいた。
「黒蝶が見つかったって? へぇ、これは綺麗だねー」
私たちが虫籠を囲んでいると、後ろからクリフさんが近づき感心している。
「はい……、実はクマちゃんが黒蝶の幼虫だったみたいで」
「あぁ、そっかー。ふーん……」
クリフさんは口元を手で押さえると、すっと目を細めた。その表情に正体の知れない違和感を覚えたが、先生に声を掛けられると意識はそちらに引き戻される。
「では、すぐにレノ様にお知らせした方がいいですねぇ」
「レノ様は今日は?」
研究所内を見回すが、彼の姿は見当たらない。まだ来ていないようだ。
(もしかしてケイシー様と……?)
そう思うと、胸の辺りがズンと重くなった。
「あいにく、本日は外せないお仕事があるようでして、こちらには来られないと仰っていたのですよ。ですが、何かあった場合は連絡する手筈になってますので、早急にお伝えしておきますねぇ」
(そっか……。お仕事……)
それを聞いてスッと心が軽くなるのを感じ、自分のあまりの単純さに笑ってしまう。
ここは先生にお任せした方がいいだろう。
「分かりました。お願いします」
レノ様が来られないとなると、クマちゃんは専門家である先生に預けるのが一番いいのだろうけど。
どうしたらいいか悩んでいると、先生が口を開いた。
「ティナさん、とりあえずこの子を連れて帰って、明日また来ていただけますかねぇ?」
「え、私が連れて帰ってもいいんですか?」
「はい。私が預かってもいいのですが、クマちゃんはティナさんの元にいた方が安心でしょうからねぇ」
先生は目を細め慈しむように微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます。じゃあ、また明日来ます」
そう言って頭を下げると、クマちゃんを連れて研究所を後にした。
「ティナさーん、ちょっといい?」
馬車に乗り込む手前でクリフさんに声を掛けられた。クリフさんはいつもの軽い表情とは違う、真剣な眼差しをこちらに向ける。
「え? どうしたんですか?」
「う……ん、レノ様と、ケイシー嬢のことで、ちょっと……ね。……二人で、話せるかな?」
クリフさんは言葉を濁し、私の後ろに控えるシエンナの方を気にしている。
(レノ様とケイシー様のこと……? そんなに大事な話なの……?)
嫌な予感に胸がざわついてくる。でも、気になってしまう。
「……分かりました。シエンナ、先に馬車に乗っていてくれる? すぐに戻るから」
「お、お嬢様……。はい、承知いたしました」
シエンナに虫籠を渡そうとも思ったが、一人でいるのは心細くてそのまま持っていることにした。彼女は心配そうな視線を私に送ったが、促されるまま馬車に乗り込む。
クリフさんはチラリと一瞬馬車に冷ややかな視線を送った後、少し離れた場所にある大木の方向へ指差した。
「……じゃあさ、ティナさん。あっちの木陰で話さない?」
クリフさんは馬車の後方へ向かって歩き出す。あまり遠くまで行くのは……と、躊躇いながらもその後ろを追った。
大きなブナの木の下に来たところで、クリフさんはこちらを振り返る。
「ティナさん、ごめんねー。俺がケイシー嬢を連れてきたばっかりに、あんたを悲しませる結果になっちゃったみたいでさぁ」
「あ、それはクリフさんのせいでは……」
「あんまり可哀想だからさ……」
虫籠を持つ反対の手を振って否定していると、ぼそりと何か呟いたクリフさんが私に一歩近づく。
「黒蝶と一緒に、あんたも連れてってやるよ」
そう言って、突然私の口元を湿った布のような物で塞ぐ。
(――!? この臭いって、薬品!?)
研究所で嗅いだことのある、少し甘く、ツンと鼻を刺激する薬品の臭い。
抵抗しようともがくが、みるみるうちに頭がぼーっとし身体に力が入らなくなってくる。歪む視界の端に、冷酷な笑みを浮かべてこちらを見下ろすクリフさんが見えた。
(……ど……して……?)
朦朧とする意識の中で、ふとレノ様の姿が浮かぶ。
(……レノ……さ……ま……)
そうして私は、暗闇の中へ落ちていった。