オレンジじゃない夕方
プロローグ・1
【プロローグ】
「原さん、そろそろ帰ろうか」
そう言われて、私は手を止めて用紙から顔を上げた。
窓の外を見ると、夕焼けがあるはずの所に、薄青い空が広がっている。
宵の始まりの時間、世界は独特だと思う。
「疲れた?」
さらさらの黒髪の整った顔が私を見下ろした。
敬の声は滑らかだ。敬の声は、まだ低くなっていない、子供の声だが、何かが居心地良く耳に響く。
「ううん」
「頼んでごめんね。書記役お疲れ様」
ボールペンにキャップをして筆箱にしまう。
放課後。美術室で、私がしていたのは、委員会活動のまとめの清書だった。
書記の人が風邪で学校を休んでいて、帰りのホームルームが終わった後、敬から声をかけられたのだった。
「クラス委員の時間も保護して貰わなきゃ。これじゃ部活時間がなくなっちゃうよ」
脇に置いていた鞄を引き上げようと手を伸ばしながら、敬が言った。
私は立ち上がってジャケットを羽織り、鞄に筆箱をしまった。
「私は、暇だから」
「暇って言ったって。原さん帰宅部でしょ?家で何かしてるんじゃない?」
「何もしてないよ」
「そうなの?なら良いけど。僕は、やらなきゃいけないこと多いから。」
ガラガラと戸を開けて美術室を出ると、廊下の窓から見た空も同じ色をしていた。
校門へ向かう帰宅する生徒達の姿がパラパラと見えた。
階段を降りて昇降口まで歩いていくと、もうほとんど部活の人たちも帰ってしまって誰もいなかった。
外履きを取ると、私のよりひとつ斜め上の靴入れに、敬が手を伸ばした。
「原さんが書記だったら良かったな。」
靴を片手に下げて敬が言った。
「何で?」
私が聞いた。
「別に」
敬が言った。靴をつっかけながら、いつも通りの顔をしている。
靴紐を結びながら外を見ると、透明なガラス扉の向こうの景色はなんとなく青ざめて、まるで空全体が地上に落ちてきているようだった。
敬が言った。
「オレンジじゃない夕方は、特別な人と居る時間って気がするな。」
【1】
石造りの校門。新しい緑の葉を茂らせた木々。
淡々と日常を過ごしていくと、こういう風に、例えば花が咲いてるなんていう小さな喜びや感動は、無関心の中に埋もれてしまう。
できれば楽しみを感じながら生きたい。
前庭を抜けて早足で歩いて昇降口に入る。
ガラガラと戸を開けて教室に入っていくと、クラスメート達はもう大方登校していた。
細木冴が私に気づいて、寄りかかっていた窓際から軽く手を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
冴はそんなに派手なタイプでもないのに髪を染めている。
冴によれば、中学生で髪を染めるのははやややんちゃな自立の現れなんだそうだ。
冴が言った。
「昨日コンビニに行く途中、前川くんと真咲が一緒に居るのを見ちゃったよ」
「ああ。」
私が言った。
「クラス委員の手伝いだよ」
「そうなんだ。昨日剣道部体育館で試合してたよ。前川くん、行かなくてよかったのかな。」
冴が言った。
「華道部も昨日展示だったけど」
「あ、見たかった」
「大した事なかったよ。いつものちっこいやつ。それよりは前川くんの道着姿の方が良いな。」
冴が続けた。
「前川くんにはあの剣道のお面みたいのを被らないで欲しいような。勿体ないから。」
「……」
「真咲になら脱いでくれるよ。でも」
冴が待ったをする時みたいに両手を上げた。
「この間聞いたんだけど、前川くんって好きな人居るらしいよ」
「……ふーん」
「ふーんで良いんだ。私はがっかりした」
「別に、関係ないよ」
「真咲、前から前川くんと時々話すでしょ。期待しちゃうとかわいそうだからさ」
冴は国語が苦手だ。
冴は昨日出た国語の宿題を持って来るのでチェックしてくれと言って、私の席を離れた。
✳✳✳
学校という場所は不思議だ。
ティーンエイジャーの個々の思惑やパワーを制服で包んで隠している。
思春期を集団で過ごすのは将来の社会生活に良いらしい。
チャイムが鳴って、教室に担任の宇多先生が入って来た。
宇多先生は挨拶をする前に黒板の隣にあるロッカーを開けた。
待っている生徒達に、先生は棚からお手製のくじの箱を取り出して掲げて見せた。
「今日は席替えをします。」
私は取り立ててどの席という希望もなく、片肘をついて黒板を見ていた。
あえて言うなら窓際が良い。
回ってきたくじの数字を黒板で探すと、席は廊下側の一番後ろの席だった。
机に椅子を逆さにして乗せて、生徒達が移動を始める。
教科書を入れたまま机を持ち上げて動かしていくと、同じようにして移動してくる敬にかち会った。
「隣?」
私は、机の中のものが重くて、腕を取られそうだったのを、一瞬、そう感じなくなった。
「みたい」
私が言った。
「ラッキー。原さんの隣、嬉しい。」
敬は普通にそういう事を言う。敬は照れない。
「よろしく」
私は平静を装って、机から椅子を降ろした。
✳✳✳
放課後、私がホームルームの余韻に浸っていると、ロッカーの向こうの方から、ペンケースを持った敬が現れた。
敬は、自分の机に付くと、ペンケースを開けて、ボールペンを掴み、机の上でメモ帳にさらさらとメモを取り始めた。
見るともなくそれを見ていた私が、自分もメモ帳に時間割を書こうとペンを取り出していると、隣から片手間に声を掛けてきた。
「原さん教科係で何か困ってることない?」
「別に、ないよ。」
「困ってそうに見えるけど。いつも一人きりで仕事して。」
「……。」
「そういや、原さん達が帰り道」
「あ」
私が気づいて口を開く。
「どうかしたの?」
「ちょっと、敬に、頼みたいことあって」
私は一呼吸置いてから言った。
「明日の朝、一緒に、副教材をケースにしまってくれない?」
「副教材?。なんの?。」
「理科の教材。沢山あるやつ。冊子の。」
「全然いいよ。」
それから、目を小さなノートに戻しながら、
「原さんはもっと人を頼った方がいいと思うな。」
と呟いた。
気遣う様な事を言われるのは、何だかちょっと照れくさい。
私がリアクションを取らずに居ると、敬は、話の続きをした。
「原さん、昨日帰り道、細木と何話してたの?」
昨日夕方帰り道冴と敬の話をしていた私は、ここへ来て居心地が悪くなって、汗をかき始めた手でペンを握り変えた。
「別に」
「そういや僕のこと、かわいい、って言ってたのは冗談だったの?」
あてこする様に、茶目っ気たっぷりに敬が聞いたので、私は狼狽えて目を伏せた。
「ご、ごめん。」
「何が?。」
敬はくすくす笑いながら、
「ありがとね」
と言った。
✳✳✳
敬は翌朝、職員室前で私と落ち合った。
敬が言うには、重い荷物を男子が持ち、軽い荷物を女子が持つのは、至極まっとうな事らしい。
半分持つ、と言う私に憐れんだ様な目を向けてきっぱりと断ってから、ファイルだけ私に持たせて、冊子の束を持った敬は歩き出した。
「原さん教科係なんでなったの?」
歩きながら敬が尋ねた。
「別に。するのなくて。」
「ふーん。」
「敬はクラス委員なんでなったの?」
「推薦。僕なんでも良くて。」
「ふーん。」
ひと気のない教科準備室に入って、敬はテーブルに副教材を置くと、片手で机に凭れて、パラパラと冊子を捲った。
「蝶の研究、だって。」
「なにそれ。」
「蝶居るでしょ。生き物の研究。面白いかどうかは分かんないけど。」
「ふーん。」
もっと面白いものがありそうなのに、敬は蝶の研究のページを読み始めた。
熱心に文字を追う黒髪の影がページに落ちる。
カーテンの隙間から差し込む細い日差しが敬の額にかかり、埃っぽい部屋の中、伏せた瞼の下瞳が静かに瞬きをする。
────そういう刹那だ。
私は手持ち無沙汰にファイルを覗いた。
最初のページのこの間帰って来たプリントのコピーに、所々赤で印が付けられている。
「蝶ってさ。」
敬がページを捲くりながら口を開いた。
「なに?」
「どんな生き物怖いと思う?」
「どんな……。」
「蜘蛛とか怖いのかもね。滅多に居ないし、珍しいかもしれないけど。」
「そう?」
「捕まったら最後。離れられないよ。」
敬はそう言うとふっと笑った。
「原さん蝶々だったらどうする?。」
「どうするって?。」
「捕まったら。最後に何考える?」
それから、
「色々考える事あるだろうけど。」
と言うと、図鑑を閉じて戻した。
「ねえ」
敬が言ったので、私は彼を見上げた。
「蝶々から何連想する?」
「蝶々から……。」
「僕は女の人を連想するな。」
そして、
「細くって、華奢で壊れそうな。」
「そう。」
「原さん達可哀想。」
「なにが?」
「別に。ただ痛い事はされないだろうね。」
敬はそう言うとくすくす小さく笑いながら、
「されたら言って。」
と一人で笑った。
「されたら言うよ。」
「そうしなね。」
敬のフェミニズムに頭を下げるばかりだ。
✳✳✳
小説が好きな私は、欠かすことなく毎日本を読んだ。
想像の世界では、私はその小説その小説のヒロインだった。
時々ヒーローにもなって、そういう時は、無感覚で、無心で、人が違うと言えないほど登場人物そのものだ。
ホームルーム後、私は読みかけの小説を閉じて、敬を起こそうかどうか迷っていた。
隣の席で、敬は、すやすやと寝息を立てながら、気持ちよさそうに眠っている。
黒板の隣の時計はもう3時半を指している。
眠っている敬のすこやかな肌や睫毛や顎のラインに目が行って、慌てて逸らすを繰り返す。
そうしていてもしょうがないので、私は敬を揺り起こした。
「敬、敬」
「おはよう原さん」
突然、むくりと起き上がって、案外に冴えた声で敬が言ったので、私はぎょっとして飛び下がった。
「起きてたの?」
「うん。寝たフリ。ずっと前から」
「へ、へえ……」
「原さん驚いた?」
敬は笑いながらそう言うとペロ、と舌を出した。
「驚かせようと思って」
「……。」
「はは。面白い。人を驚かすの。」
「め、迷惑だよ……」
「原さん面白かった?」
私がいや、と曖昧に応えると、敬はケラケラ笑いながら、
「嘘ばっか。」
と言った。
鞄を背負って階段を降りていくと、部活動をするジャージ姿の生徒達とすれ違った。
授業以外で学校に残るなんて、私だったらまっぴらだ。
青春。希望。涙。そんなワードが頭にちらつく。
「敬、部活は?」
「今日はパス。よくサボってる。」
「ふーん。」
昇降口には誰も居なかった。
「帰り誰とも帰らないなら僕と帰らない?」
背の高い靴入れに手を伸ばしながら、敬が私に尋ねた。
「良いよ。」
「それ、どの良いよ?」
「どっちでも良い。」
敬は靴を突っ掛けると、トントン、とつま先を鳴らして、私が靴を履くのを待った。
「明日晴れるかなあ。」
「晴れるよ。どう見ても。」
「明日朝学校へ来る時、晴れてると良いんだけど。天気って感情じゃどうにもならないから。」
そう言うと敬はくすっと笑った。
「晴れてくれなきゃ困るなあ。」
「なんで?」
「そういう講があるんだよ。知らないと思うけど。」
「講?」
「教えない。けどね」
敬は笑いながら続けた。
「晴れなかったら、原さんに嫌なことが起こると思うな。」
「どうして?」
「さあね。そういう講だから。」
敬はにっこり笑顔でまた続けた。
「原さん好きな人居る?」
急にそう聞かれた私は体がかあっと熱くなるのを感じた。
この気持ちは、一生蓋をされて届きそうにない。
────敬にだけは言えない。
俯いて、靴のつま先を見ながら。
「知らない。居ないんじゃないかなあ。」
「僕ずっと原さんの事好きだったよ?。」
出し抜けにそう言われて、息が止まるかと思った。
聞き違い?。いやそんな。
黙って顔をあげずに居ると、数秒、朗らかな声が上から落ちて来た。
「嘘嘘冗談。言ってみただけ。」
期待が萎むもわもわした嫌な感じと共に、胸の奥にチクリ、と痛みが刺すのを感じた。
私は平静を装って聞いた。
「敬は居ないの?」
「僕は居ないよ。」
敬はてれんとして、掴みどころがなくて、いつも余裕綽々だ。
「あーあ、明日晴れて欲しかったのに」
敬がまた言った。
「だから、晴れるって」
「必ず晴れるならね。良いけど、今日は。」
原さんと帰れたから、という敬の言葉が、さっきの棘をごまかして融解していく。
続く
「原さん、そろそろ帰ろうか」
そう言われて、私は手を止めて用紙から顔を上げた。
窓の外を見ると、夕焼けがあるはずの所に、薄青い空が広がっている。
宵の始まりの時間、世界は独特だと思う。
「疲れた?」
さらさらの黒髪の整った顔が私を見下ろした。
敬の声は滑らかだ。敬の声は、まだ低くなっていない、子供の声だが、何かが居心地良く耳に響く。
「ううん」
「頼んでごめんね。書記役お疲れ様」
ボールペンにキャップをして筆箱にしまう。
放課後。美術室で、私がしていたのは、委員会活動のまとめの清書だった。
書記の人が風邪で学校を休んでいて、帰りのホームルームが終わった後、敬から声をかけられたのだった。
「クラス委員の時間も保護して貰わなきゃ。これじゃ部活時間がなくなっちゃうよ」
脇に置いていた鞄を引き上げようと手を伸ばしながら、敬が言った。
私は立ち上がってジャケットを羽織り、鞄に筆箱をしまった。
「私は、暇だから」
「暇って言ったって。原さん帰宅部でしょ?家で何かしてるんじゃない?」
「何もしてないよ」
「そうなの?なら良いけど。僕は、やらなきゃいけないこと多いから。」
ガラガラと戸を開けて美術室を出ると、廊下の窓から見た空も同じ色をしていた。
校門へ向かう帰宅する生徒達の姿がパラパラと見えた。
階段を降りて昇降口まで歩いていくと、もうほとんど部活の人たちも帰ってしまって誰もいなかった。
外履きを取ると、私のよりひとつ斜め上の靴入れに、敬が手を伸ばした。
「原さんが書記だったら良かったな。」
靴を片手に下げて敬が言った。
「何で?」
私が聞いた。
「別に」
敬が言った。靴をつっかけながら、いつも通りの顔をしている。
靴紐を結びながら外を見ると、透明なガラス扉の向こうの景色はなんとなく青ざめて、まるで空全体が地上に落ちてきているようだった。
敬が言った。
「オレンジじゃない夕方は、特別な人と居る時間って気がするな。」
【1】
石造りの校門。新しい緑の葉を茂らせた木々。
淡々と日常を過ごしていくと、こういう風に、例えば花が咲いてるなんていう小さな喜びや感動は、無関心の中に埋もれてしまう。
できれば楽しみを感じながら生きたい。
前庭を抜けて早足で歩いて昇降口に入る。
ガラガラと戸を開けて教室に入っていくと、クラスメート達はもう大方登校していた。
細木冴が私に気づいて、寄りかかっていた窓際から軽く手を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
冴はそんなに派手なタイプでもないのに髪を染めている。
冴によれば、中学生で髪を染めるのははやややんちゃな自立の現れなんだそうだ。
冴が言った。
「昨日コンビニに行く途中、前川くんと真咲が一緒に居るのを見ちゃったよ」
「ああ。」
私が言った。
「クラス委員の手伝いだよ」
「そうなんだ。昨日剣道部体育館で試合してたよ。前川くん、行かなくてよかったのかな。」
冴が言った。
「華道部も昨日展示だったけど」
「あ、見たかった」
「大した事なかったよ。いつものちっこいやつ。それよりは前川くんの道着姿の方が良いな。」
冴が続けた。
「前川くんにはあの剣道のお面みたいのを被らないで欲しいような。勿体ないから。」
「……」
「真咲になら脱いでくれるよ。でも」
冴が待ったをする時みたいに両手を上げた。
「この間聞いたんだけど、前川くんって好きな人居るらしいよ」
「……ふーん」
「ふーんで良いんだ。私はがっかりした」
「別に、関係ないよ」
「真咲、前から前川くんと時々話すでしょ。期待しちゃうとかわいそうだからさ」
冴は国語が苦手だ。
冴は昨日出た国語の宿題を持って来るのでチェックしてくれと言って、私の席を離れた。
✳✳✳
学校という場所は不思議だ。
ティーンエイジャーの個々の思惑やパワーを制服で包んで隠している。
思春期を集団で過ごすのは将来の社会生活に良いらしい。
チャイムが鳴って、教室に担任の宇多先生が入って来た。
宇多先生は挨拶をする前に黒板の隣にあるロッカーを開けた。
待っている生徒達に、先生は棚からお手製のくじの箱を取り出して掲げて見せた。
「今日は席替えをします。」
私は取り立ててどの席という希望もなく、片肘をついて黒板を見ていた。
あえて言うなら窓際が良い。
回ってきたくじの数字を黒板で探すと、席は廊下側の一番後ろの席だった。
机に椅子を逆さにして乗せて、生徒達が移動を始める。
教科書を入れたまま机を持ち上げて動かしていくと、同じようにして移動してくる敬にかち会った。
「隣?」
私は、机の中のものが重くて、腕を取られそうだったのを、一瞬、そう感じなくなった。
「みたい」
私が言った。
「ラッキー。原さんの隣、嬉しい。」
敬は普通にそういう事を言う。敬は照れない。
「よろしく」
私は平静を装って、机から椅子を降ろした。
✳✳✳
放課後、私がホームルームの余韻に浸っていると、ロッカーの向こうの方から、ペンケースを持った敬が現れた。
敬は、自分の机に付くと、ペンケースを開けて、ボールペンを掴み、机の上でメモ帳にさらさらとメモを取り始めた。
見るともなくそれを見ていた私が、自分もメモ帳に時間割を書こうとペンを取り出していると、隣から片手間に声を掛けてきた。
「原さん教科係で何か困ってることない?」
「別に、ないよ。」
「困ってそうに見えるけど。いつも一人きりで仕事して。」
「……。」
「そういや、原さん達が帰り道」
「あ」
私が気づいて口を開く。
「どうかしたの?」
「ちょっと、敬に、頼みたいことあって」
私は一呼吸置いてから言った。
「明日の朝、一緒に、副教材をケースにしまってくれない?」
「副教材?。なんの?。」
「理科の教材。沢山あるやつ。冊子の。」
「全然いいよ。」
それから、目を小さなノートに戻しながら、
「原さんはもっと人を頼った方がいいと思うな。」
と呟いた。
気遣う様な事を言われるのは、何だかちょっと照れくさい。
私がリアクションを取らずに居ると、敬は、話の続きをした。
「原さん、昨日帰り道、細木と何話してたの?」
昨日夕方帰り道冴と敬の話をしていた私は、ここへ来て居心地が悪くなって、汗をかき始めた手でペンを握り変えた。
「別に」
「そういや僕のこと、かわいい、って言ってたのは冗談だったの?」
あてこする様に、茶目っ気たっぷりに敬が聞いたので、私は狼狽えて目を伏せた。
「ご、ごめん。」
「何が?。」
敬はくすくす笑いながら、
「ありがとね」
と言った。
✳✳✳
敬は翌朝、職員室前で私と落ち合った。
敬が言うには、重い荷物を男子が持ち、軽い荷物を女子が持つのは、至極まっとうな事らしい。
半分持つ、と言う私に憐れんだ様な目を向けてきっぱりと断ってから、ファイルだけ私に持たせて、冊子の束を持った敬は歩き出した。
「原さん教科係なんでなったの?」
歩きながら敬が尋ねた。
「別に。するのなくて。」
「ふーん。」
「敬はクラス委員なんでなったの?」
「推薦。僕なんでも良くて。」
「ふーん。」
ひと気のない教科準備室に入って、敬はテーブルに副教材を置くと、片手で机に凭れて、パラパラと冊子を捲った。
「蝶の研究、だって。」
「なにそれ。」
「蝶居るでしょ。生き物の研究。面白いかどうかは分かんないけど。」
「ふーん。」
もっと面白いものがありそうなのに、敬は蝶の研究のページを読み始めた。
熱心に文字を追う黒髪の影がページに落ちる。
カーテンの隙間から差し込む細い日差しが敬の額にかかり、埃っぽい部屋の中、伏せた瞼の下瞳が静かに瞬きをする。
────そういう刹那だ。
私は手持ち無沙汰にファイルを覗いた。
最初のページのこの間帰って来たプリントのコピーに、所々赤で印が付けられている。
「蝶ってさ。」
敬がページを捲くりながら口を開いた。
「なに?」
「どんな生き物怖いと思う?」
「どんな……。」
「蜘蛛とか怖いのかもね。滅多に居ないし、珍しいかもしれないけど。」
「そう?」
「捕まったら最後。離れられないよ。」
敬はそう言うとふっと笑った。
「原さん蝶々だったらどうする?。」
「どうするって?。」
「捕まったら。最後に何考える?」
それから、
「色々考える事あるだろうけど。」
と言うと、図鑑を閉じて戻した。
「ねえ」
敬が言ったので、私は彼を見上げた。
「蝶々から何連想する?」
「蝶々から……。」
「僕は女の人を連想するな。」
そして、
「細くって、華奢で壊れそうな。」
「そう。」
「原さん達可哀想。」
「なにが?」
「別に。ただ痛い事はされないだろうね。」
敬はそう言うとくすくす小さく笑いながら、
「されたら言って。」
と一人で笑った。
「されたら言うよ。」
「そうしなね。」
敬のフェミニズムに頭を下げるばかりだ。
✳✳✳
小説が好きな私は、欠かすことなく毎日本を読んだ。
想像の世界では、私はその小説その小説のヒロインだった。
時々ヒーローにもなって、そういう時は、無感覚で、無心で、人が違うと言えないほど登場人物そのものだ。
ホームルーム後、私は読みかけの小説を閉じて、敬を起こそうかどうか迷っていた。
隣の席で、敬は、すやすやと寝息を立てながら、気持ちよさそうに眠っている。
黒板の隣の時計はもう3時半を指している。
眠っている敬のすこやかな肌や睫毛や顎のラインに目が行って、慌てて逸らすを繰り返す。
そうしていてもしょうがないので、私は敬を揺り起こした。
「敬、敬」
「おはよう原さん」
突然、むくりと起き上がって、案外に冴えた声で敬が言ったので、私はぎょっとして飛び下がった。
「起きてたの?」
「うん。寝たフリ。ずっと前から」
「へ、へえ……」
「原さん驚いた?」
敬は笑いながらそう言うとペロ、と舌を出した。
「驚かせようと思って」
「……。」
「はは。面白い。人を驚かすの。」
「め、迷惑だよ……」
「原さん面白かった?」
私がいや、と曖昧に応えると、敬はケラケラ笑いながら、
「嘘ばっか。」
と言った。
鞄を背負って階段を降りていくと、部活動をするジャージ姿の生徒達とすれ違った。
授業以外で学校に残るなんて、私だったらまっぴらだ。
青春。希望。涙。そんなワードが頭にちらつく。
「敬、部活は?」
「今日はパス。よくサボってる。」
「ふーん。」
昇降口には誰も居なかった。
「帰り誰とも帰らないなら僕と帰らない?」
背の高い靴入れに手を伸ばしながら、敬が私に尋ねた。
「良いよ。」
「それ、どの良いよ?」
「どっちでも良い。」
敬は靴を突っ掛けると、トントン、とつま先を鳴らして、私が靴を履くのを待った。
「明日晴れるかなあ。」
「晴れるよ。どう見ても。」
「明日朝学校へ来る時、晴れてると良いんだけど。天気って感情じゃどうにもならないから。」
そう言うと敬はくすっと笑った。
「晴れてくれなきゃ困るなあ。」
「なんで?」
「そういう講があるんだよ。知らないと思うけど。」
「講?」
「教えない。けどね」
敬は笑いながら続けた。
「晴れなかったら、原さんに嫌なことが起こると思うな。」
「どうして?」
「さあね。そういう講だから。」
敬はにっこり笑顔でまた続けた。
「原さん好きな人居る?」
急にそう聞かれた私は体がかあっと熱くなるのを感じた。
この気持ちは、一生蓋をされて届きそうにない。
────敬にだけは言えない。
俯いて、靴のつま先を見ながら。
「知らない。居ないんじゃないかなあ。」
「僕ずっと原さんの事好きだったよ?。」
出し抜けにそう言われて、息が止まるかと思った。
聞き違い?。いやそんな。
黙って顔をあげずに居ると、数秒、朗らかな声が上から落ちて来た。
「嘘嘘冗談。言ってみただけ。」
期待が萎むもわもわした嫌な感じと共に、胸の奥にチクリ、と痛みが刺すのを感じた。
私は平静を装って聞いた。
「敬は居ないの?」
「僕は居ないよ。」
敬はてれんとして、掴みどころがなくて、いつも余裕綽々だ。
「あーあ、明日晴れて欲しかったのに」
敬がまた言った。
「だから、晴れるって」
「必ず晴れるならね。良いけど、今日は。」
原さんと帰れたから、という敬の言葉が、さっきの棘をごまかして融解していく。
続く


