死にゆく私は、桜の世界で二度と散らない恋をした。
お腹も心も満たされた私たちは、売店に立ち寄った。
青い照明に照らされた店内には、大小さまざまなぬいぐるみが山積みにされ、修学旅行生やカップルたちが楽しそうに品定めをしている。
「あ、先輩。見てください、これ」
私が指差したのは、小さなストラップのコーナーだった。
そこには、二つで一つのハート形になる、真っ赤なタコのキーホルダーが並んでいた。
「たこのすけだ。しかもニコイチ仕様」
「さっきあんなに食べたのに、まだタコにこだわりますか?」
「供養だよ、供養。ほら、これ一つずつにしよ」
瀬口先輩は迷いなくレジへ向かい、二つのキーホルダーを購入した。店を出る間際、彼はそのうちの一つを私の手に握らせた。
「はい、咲菜ちゃんの分。僕とお揃いね」
「⋯⋯ありがとうございます。大切にしますね」
手のひらに収まる小さなキーホルダー。
それは、今日という夢のような時間の形見のように思えた。
ガラスの扉を押し開けて外に出ると、頬を刺すような冷たい風が私たちを包み込んだ。
館内の湿った空気から解放され、外の空気は驚くほど新鮮で、澄み渡っている。
けれど、その新鮮な空気の中で、私はあることに気づいた。
先輩の、香水の匂い。また変わってる⋯⋯?
外に出たことで、より鮮明になったその香り。
私は、彼の横顔をそっと見上げる。
「⋯⋯瀬口先輩」
「ん?」
「あ、あの⋯⋯さっきのキーホルダー、本当にいいんですか? 私、何もお返しできてないのに」
すると、瀬口先輩は立ち止まり、少しだけ意地悪そうに目を細めた。
「あ、そういえばさ。さっきから気になってたんだけど」
「⋯⋯? 何ですか?」
彼は私の顔を覗き込み、唇の端を吊り上げて笑った。
「なんで、いまだに『瀬口先輩』なの?」
「え⋯⋯? それは、先輩だから⋯⋯」
「それだけ? 普通、彼氏のことは名前で呼ぶんじゃないかな、と思って」
心臓が、本日最大級の音を立てて跳ねた。
「か、か、かれ、かれしぃい!? ⋯⋯えっ、ええ!?」
裏返った声が、夕暮れの海風に流されていく。
私は驚きのあまり、手に持っていたたこのすけを落としそうになった。
「あはは! 何その反応。面白すぎ」
「わ、笑い事じゃないです! い、いつ彼氏になったんですか、先輩! 私はそんな許可、出した覚えありませんよ!」
「うーん、いつだろうね。でも、文化祭の屋上で、僕しっかり告白したつもりなんだけどなぁ」
先輩はどこか楽しげに、けれど確かな熱を込めた瞳で私を見つめた。
「⋯⋯好きとは言われましたけど⋯⋯でも、あれは、その⋯⋯」
「あれだけじゃ不満? じゃあ、もう一回言おうか?」
「い、いいです! 結構です!」
私は赤くなった顔を隠すようにマフラーに顔を埋める。
けれど、先輩は容赦なく追い討ちをかけてきた。
「で、咲菜ちゃんはどうなの? ⋯⋯僕のこと、好き?」
まっすぐな問い。
青い海を背にした彼の視線が、私の心の奥底を射抜く。
本当は、答えなんてとっくに決まっている。
彼が隣にいてくれるだけで、私の死の恐怖が和らぐこと。
彼の声を聞くだけで、世界が色鮮やかに見えること。
でも、今それを口にしてしまったら、私はもう二度と、彼から離れられなくなってしまう。
「⋯⋯内緒です」
「えー、なんで? ここまで言わせといて内緒はないでしょ」
「今は、ダメです。⋯⋯また、今度言いますから」
「⋯⋯本当に? 約束だよ?」
「はい。約束、です」
私は、小指を立てて彼の前に出した。
先輩は一瞬だけ呆れたような顔をしたけれど、すぐに優しい笑みを浮かべて、自分の小指を私の指に絡めた。
そのまま、彼は私の指を解くことなく、じーっと私の顔を見つめ続けている。
「⋯⋯な、なんですか。そんなに見つめられても、何も出ませんよ」
「⋯⋯奏斗、って呼んで?」
「い、いやです! 急にそんなの、無理ですよ!」
恥ずかしさが限界を超えて、私は彼の指を解いて一歩後ろに下がった。
「奏斗、なんて⋯⋯口が裂けても言えません!」
「あはは、そんなにか。まあ、いいよ。待ってるからね、いつか君が呼んでくれるのを。⋯⋯咲菜」
不意に、名前を呼ばれた。
ちゃん付けじゃない。
それも、ひどく甘く、大切に愛しむような響きで。
私は立ち尽くしたまま、逃げるように歩き出した彼の背中を見つめた。
夕日に染まり始めた彼の背中が、いつもより少しだけ大きく、そして少しだけ儚く見える。
「照れてます?」
ふと思いついた言葉が、私の唇から零れ落ちた。
先を歩いていた彼の背中が、目に見えてびくんと跳ねる。
「えっ」
振り返った彼の顔は、夕日のせいだけとは思えないほど赤く染まっていた。
いつも余裕たっぷりで、私を振り回してばかりのあの瀬口先輩が、今は視線を泳がせている。
そのギャップが、私には何だかとても新鮮だった。
「意外です。結構プレイボーイって感じなのに。女の子の扱いとか慣れてるから、名前で呼ぶくらいなんてことないんだと思ってました」
私が少しだけ意地悪に笑って畳みかけると、彼は「……うっ」と喉を詰まらせた。
「慣れてるわけないだろ。初めてただよ……」
消え入りそうな声でぼやく彼は、まるで初めて恋をした少年のような顔をしている。
その姿があまりにも真っ直ぐで、からかっていたはずの私の胸まで、今度は別の熱がじんわりと広がっていった。
赤くなった顔を隠すように歩き出した彼の背中を追いながら、私は自分の頬が緩むのを抑えられなかった。