死にゆく私は、桜の世界で二度と散らない恋をした。


十二月二十五日。
私は今までで一番時間をかけて身支度を整えた。


お気に入りの白いコートに、母が買ってくれた淡いピンク色のマフラー。
鏡の中の私は、少しだけ顔色が悪いけれど、瞳だけは期待と不安で揺れていた。


​待ち合わせは、街外れにある大きな公園の入り口。
ここは冬の間だけ、特別なイルミネーションが施されることで有名だ。

そして何より、この場所には冬桜が植えられている。


「⋯⋯あ、いた」


​人混みの中で、ひときわ目立つ背の高い人影。
瀬口先輩は、黒のロングコートにグレーのタートルネックという、いつもより少し大人びた格好で立っていた。


丁寧に整えられた髪が、街灯の光を受けて艶やかに光っている。


​「先輩! お待たせしました」


私が駆け寄ると、先輩はゆっくりとこちらを振り返った。
その瞬間、彼の瞳が大きく見開かれる。


​「⋯⋯咲菜ちゃん。それ、反則」


「えっ、何がですか?」


「いや⋯⋯。可愛すぎて、心臓に悪いなって思って」


先輩は照れ隠しのように、鼻先をマフラーに埋めて視線を逸らした。

私は顔が熱くなるのを感じながら、「先輩こそ、今日はすごくかっこいいです」と、勇気を出して言葉を返した。


「よし、行こうか。今日は僕がエスコートするって決めてるから」


​先輩が自然に私の手を取り、自分のコートのポケットに導く。
ポケットの中は、あの日水族館で感じたよりもずっと熱くて、温かかった。


​公園の中に足を踏み入れると、そこは光の海だった。
青や白のLEDが地面を埋め尽くし、まるで天の川が地上に降りてきたような錯覚に陥る。

けれど、私たちが目指すのはその先にある冬桜のエリアだった。


街の喧騒から少し離れた、静かな一角。
そこに、その木は立っていた。


春の桜のような豪華さはない。
けれど、枯れ木のような枝に、ぽつり、ぽつりと小さく、けれど力強く咲く淡いピンクの花びら。

イルミネーションの光に照らされて、その花は幻想的な輝きを放っていた。


​「⋯⋯綺麗。本当に、冬に咲くんですね」


「うん。普通の桜は春まで眠ってるけど、すごいよね」


​先輩の言葉に、私は心臓の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。


冬に咲く桜。
私の中に根を張る桜咲病も、今は休眠しているはずなのに。
この冬桜を見た瞬間、胸の蕾が「私もここにいるよ」と主張したような気がした。


​「⋯⋯ねえ、先輩。私、最近思うんです」


私は、冬桜の枝を見上げながら、ぽつりと呟いた。


この病気になってから、世界がすごく綺麗に見えるようになりました。今まで当たり前に見ていた景色も、先輩と過ごす時間も、全部がキラキラしてて⋯⋯。それが、すごく嬉しいんです。でも、同時に⋯⋯怖くなるんです」


繋いでいた先輩の手を、ぎゅっと握りしめる。


「春が来たら、この花が散るのと一緒に、私もいなくなっちゃうんじゃないかって。そう思うと、この綺麗な景色を、ずっと見ていたいって願っちゃうんです」


​先輩は何も言わず、私の告白を静かに聞いてくれた。
周囲には、笑い合うカップルや、走り回る子供たちの声が響いている。

その日常のど真ん中で、私だけが終わりを漂わせていた。


「⋯⋯咲菜。こっち向いて」


​顔を上げると、すぐ目の前に奏斗先輩の瞳があった。

いつもは悪戯っぽく私をからかうその瞳が、今は壊れ物を守るような、痛切な慈愛に満ちている。


先輩の手が、私の後頭部をそっと引き寄せた。


逃げる場所なんてどこにもない。
けれど、逃げたいなんて微塵も思わなかった。


​重なり合ったのは、冬の空気よりもずっと熱い、柔らかな温度。


​「⋯⋯っ」


​触れるだけの、静かな、けれど深い、誓いのようなキス。


その瞬間、鼻先をかすめたのは、先輩の香水の匂いでも、冬の夜の匂いでもなかった。


私の中から溢れ出す、狂おしいほどに甘い、満開の桜の香り。
それはまるで、私の心臓に咲く蕾が、彼の温もりに応えて一瞬だけ花を開かせたかのようだった。


唇が離れると、先輩は私の額に自分の額をこつん、とぶつけた。
近すぎる距離の中で、彼の荒い鼓動が、私の震える心臓に共鳴する。


​「⋯⋯今の、忘れないで」


私の瞳から、一筋、涙が零れた。
けれどそれは、さっきまでの恐怖の涙じゃない。


こんなにも誰かを愛して、誰かに必要とされているという、震えるような幸福の涙。


「僕は最後まで君の隣にいる。⋯⋯冬桜が咲いている今も、春が来て、本当の桜が咲き誇るその瞬間も。僕は君の手を絶対に離さない」


先輩の声は、冷たい夜風を切り裂くように真っ直ぐ届く。


「君がいなくなるなんて、考えない。君が『ここにいた』ことを、僕が一生かけて守り続ける。だから、今はただ、この光を楽しもう。僕と、二人だけで」


先輩の大きな手が、私の頬を包み込んだ。
その温かさに、また私の瞳から熱いものが溢れ出す。


泣いちゃダメだ。
今日は楽しいクリスマスなんだから。


そう思えば思うほど、涙は止まらなくなった。


​「⋯⋯っ、あ、りがとう、ござい、ます⋯⋯っ」


「泣かないで。せっかくのメイクが台無しだよ」


​先輩は優しく笑って、親指で私の涙を拭った。


その時。
ズキッ⋯⋯!

心臓を、鋭い針で刺されたような痛みが走った。


「⋯⋯っ!!」


私は反射的に、胸を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
​「咲菜!? 大丈夫!?」


「⋯⋯あ、う⋯⋯。だい、じょうぶ、です。ただ、ちょっと⋯⋯」


​息が苦しい。
心臓の蕾が、内側から私の肉を押し広げようとしている。
休眠打破⋯⋯。あの時期が近づいているのだ。


冬桜の開花に合わせるように、私の中の死もまた、目覚めようとしていた。


​「救急車を⋯⋯」


「⋯⋯ううん、いいの。大丈夫、落ち着きました。⋯⋯ほら、見てください」


​私は震える手で、先輩の服を掴んだ。
不思議なことに、痛みが走った瞬間、私の体から漂う桜の香りが、一気に濃くなった気がした。


それは、周囲のイルミネーションや、冬桜の香りをすべて飲み込んでしまうほどに、甘くて、残酷な香り。


​「⋯⋯痛いのは、私がまだ、生きようとしてる証拠だから。⋯⋯だから、心配しないで、先輩」


​私は無理やり笑顔を作った。
先輩の顔が、見たこともないほど苦しそうに歪む。


彼は再び私を強く、壊れ物を抱くように抱きしめた。


​「⋯⋯ごめん。何もできなくて、本当にごめん」


「⋯⋯先輩が、隣にいてくれるだけで、痛くないんです。本当ですよ?」


​光の海の中で、私たちは長い間、寄り添い合っていた。
頭上では、冬桜の花びらが、風に舞って私たちの肩に降りかかる。


その光景は、涙が出るほど美しくて。


私はこのまま、この温もりの中で、冬の一部になってしまいたいと願わずにはいられなかった。


クリスマスの夜。
イルミネーションの輝きの中で、私たちは初めて本当の痛みと向き合った。


それは、愛おしさと切なさが混ざり合った、この病気を持った私にしか味わえない、特別な生の感触だった。


「⋯⋯ねえ、奏斗先輩」


「ん?」


「メリークリスマス。⋯⋯私を選んでくれて、ありがとう」


​私が初めて名前で呼ぼうとして、けれど少しだけ照れて「先輩」をつけて呼ぶと、彼は驚いたように目を見開き、その後、これ以上ないほど優しい顔で笑った。


​「⋯⋯ああ。メリークリスマス、咲菜」


冬桜の下、私たちは誓った。

たとえ春が来ても、この光を、この香りを、二人の間に流れたこの時間を、決して忘れないことを。


夜空には満天の星が輝き、私たちの行く末を静かに見守っていた。

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