バカな男に騙された私が本当の自分を手に入れるまで
 三人で席に着く。

 男は迷いなく中央を選び、肘を広げて背もたれに深く身を預けた。座った、というより、占領した、という姿勢だった。最初から、ここが自分の場所だと疑っていない。周囲がどう配置されるかなど、考える必要もないという顔。

 女は男の右。私は左。

 小さなテーブルが、物理的な距離を強引に縮める。そのくせ、見えない線だけはくっきりと引かれ、私だけが外側へ押し出されているのが分かる。距離は同じはずなのに、立っている場所が違う。

 女が脚を組み替えた。

 布が擦れる音が、やけに耳に残る。
 足首の細さ。
 膝の白さ。

 私は視線を落とし、自分の膝を見ないようにした。見た瞬間、何かが確定してしまう気がしたからだ。比較される側だと、自分で認めてしまう気がして。

 男も脚を組み、顎をわずかに上げる。
 この場の重心が自分にあることを、疑いもしない所作。

 空調の風が、テーブルの下を通り抜ける。カップの表面に水滴が浮かび、それがゆっくりと伝っていく。その動きだけが、異様にゆっくりに見えた。

「で」

 男が切り出す。

「今日、ちゃんと話しとく」

 “ちゃんと”。

 その言い方が、腹の奥に引っかかる。
 まるで、私が勝手に誤解して、勝手にこじらせたみたいな響きだった。正される側に、最初から押し込められている。

 女が、にこにこと笑っている。

 楽しんでいる。
 人の心が壊れる直前の時間を、甘いデザートでも待つみたいな顔で。

 男の視線が、私に向いた。

「名前、なんだっけ。……ああ」

 わざとらしく思い出す素振り。
 忘れているはずがないのに。

「三上」

 呼ばれる。

 でも、温度がない。
 人の名前じゃない。番号を呼ばれたみたいだった。

「お前さ」

 その一言で、空気が変わる。

 同じ日本語なのに、刃が付く。
 これから切る、と宣言するための前置き。

「俺のこと、何だと思ってた?」

 嫌な聞き方だった。
 質問の形をしているのに、許される答えは最初から一つしかない。正解じゃなく、服従を求める聞き方。

 私は言葉を探す。
 探すというより、口の中で転がすだけだ。

 何を選んでも、ここでは不正解になる。

「……何って」

 声が、薄い。

 店内のBGMに溶けて、消えていく。
 自分の声なのに、自分のものじゃないみたいだった。

 男が鼻で笑った。

「いいよ。言わなくて」

 言わせる気なんて、最初からない。
 “言わせなかった”という事実で、勝つつもりなのだ。

 女が、小さく笑い声を漏らす。

「あは。だよね」

 何が“だよね”なのかは説明しない。
 説明しないまま、私を同じ箱に押し込む。

 女は頬杖をつき、私を見た。
 視線はまっすぐで、整っていて、綺麗だった。

 その目に、確かな悪意が浮かんでいる。
 それでも表情は、どこまでも柔らかい。

「ねえ、最初から不思議だったんだ」

 声は甘い。
 中身は毒だ。

「この人の隣に立って、平気な顔できるタイプの子って、逆にすごいなって」

 “すごい”は褒め言葉じゃない。
 異物を見るときの言葉だった。

 男が頷く。

「そう。そういうとこ」

 女を見て、満足そうに笑う。
 自分の支配に、同意が返ってくるのが嬉しくてたまらない顔。

「三上、お前さ」

 男が、指先でテーブルを軽く叩く。

 トン。
 トン。

 カップがわずかに震え、スプーンが小さく鳴った。
 その音だけが、妙に現実的だ。

「勘違いすんな」

 勘違い。

 便利な言葉だ。
 相手の感情を、相手の責任にできる。

 女が、間を逃さず重ねる。

「勘違いっていうか……うん、そうだね」

 唇の端を上げて、言い直す。

「夢見すぎ」

 その言葉が、胸の奥に落ちた。

 ドスン、と鈍い音がした気がした。
 音がしただけで、叫びは上がらない。

 何かが、静かに壊れた。

 割れたのに、形は保たれている。
 だから、周りは気づかない。

 壊れたのは、声を出す前の、
 私のほうだった。
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