終電で帰ってくる彼に、溢れんばかりの「おかえり」を
ブラック企業から解放された後、住み込み家政婦となりました
 連日のテレビを賑わせていたのは、ある会社のニュース。
 『社員をただの道具と見下げたブラック企業の末路』というフレーズは、私が新卒で入った会社のことを指していた。

  終電で帰ることができたら奇跡。
  奇跡が起こらなければ、会社に残る。
  寝る間もないほどの膨大な仕事量。
  冠婚葬祭にすら出席することの許されない職場環境。

 そんな、この世の地獄のようなの会社がそこだった。
 
 
 しかしある日、上層部の目を盗んで誰かが労働基準監督署に駆け込んだらしい。その結果、積み重なった未払い賃金と過重労働が白日の下に晒され、会社は社会的信用を失った。そして、元から基盤が不安定であった会社はあっけなく倒産したのだった。
 
 あれだけ追い求めても一度も叶わなかった定時退社が、退社となる最後の日になってようやく実現した。

「お疲れ様でした。……皆さん、どうかお元気で」

 警備員さんのどこか同情を含んだ声を背に、私たちはオフィスを後にした。
 
「見てよ、彩羽(いろは)!空が明るいなんて信じられない!!」

 唯一残った同期であり戦友だった美遥(みはる)が、笑いながら私の肩を叩く。

「ほんと。信じられないね」

 会社を出て見上げた空は、どうしようもなく綺麗だった。
 全て終わった。その事実が、ほんの少しだけ現実味を帯びたように感じた。

「ねえねえ!もしよかったら、このまま飲みに行かない?ほら、2人で飲みに行くことなんて今まで一度もなかったじゃん!」
「たしかに!お祝いも兼ねて行こうか!」
「おー!」
 
 元気よくこぶしを突き上げた美遥に、思わず笑ってしまった。 
 私たちはそのまま、吸い込まれるように駅前の居酒屋へ入っていった。


 席に着くなり、各々好きなお酒を注文する。今までの飲み会では「最初はビールだろ!」と上司から言われていたが、今日はそんなことを言ってくる人もいない。
 運ばれてきた梅酒とカシオレを持って、にこやかに笑う。

「それでは~…」
「「かんぱーい!!」」

 カシャン、という小気味いい音と共にグラスがぶつかる。そのまま勢いよく傾ければ、冷たいお酒が喉を通る。

「ん~~~!!最高!!」
「まさに天国!やーっと解放された~!!」

 あのままだと間違いなく過労死していた。いや、毎日生きる屍のような状態だったため、ほとんど死んでいたと言っても過言ではない。
 そんな戦場を生き延びた私たちにとって、明日以降無職になるなんて些細なことだった。

「っしゃ、ガンガン食べるぞ~!」
「終電で帰ることになってもいつもよりも早いもんね。いやー、倒産最高!!」

 そんなことを言いながら、また勢いよくジョッキを傾けたのだった。

 
 1軒目、2軒目、3軒目…。
 軒数を数えなくなったのは、きっとその辺りからだ。
 話題はもちろん会社のこと。理不尽な上司の顔や徹夜で仕上げたプレゼン資料、結局振り込まれなかった残業代。怒りと悲しみと、そして心のどこかで感じている『やっと終わった』という解放感。

 これは、まさしく『生を実感する』ということに違いなかった。
 
「そろそろお開きにしようか」

 どちらともなく、寂しげにそう言った。気づけば、時計の針は12時を回っていた。終電に乗れるのに逃してしまうなんて勿体ない。荷物をまとめて席を立つ。立ち上がる時に感じる浮遊感に、ハイペースで飲み続けたお酒が思ったよりも体に回っていたことを感じる。でも、その感覚が心地よかった。

「んー…!最高」
「本当に。生きててよかった」

 店を出て息を吐けば、ようやく肩の力が抜けたような気がした。
 
「私たち、頑張ったよね……本当、バカみたいにさ」
「…うん。よく頑張ったよ」

 お互いに慰め合い、小さく笑う。
 
「じゃあね、また連絡するから」
「絶対だよ?また飲みに行こ」
「うん、またね」
「またね!」

 改札口で美遥と別れ、私はふらつく足取りでホームへ向かった。

 深夜の駅特有の冷たい風。酔いと疲労が混ざり合い、視界がぐにゃりと歪む。滑り込んできた電車のドアが開くと同時に、私は空いている座席に倒れ込むように座った。

 心地よい振動に、静かな車内。冷房の風が火照った頬を撫でていく。
 重たいまぶたを閉じた瞬間、私の意識を保っていられなかった。

 

 どれくらい時間が経っただろうか。
 不意に、トントンと肩を叩かれる感触があった。

「……あの、もしもし」

 低くて少し硬質な、でも温かみのある男性の声。私は重い頭を無理やり持ち上げようとしたが、首がうまく固定できない。

「……んぅ……」
「起きてください。もうすぐ終点ですよ」

 終点?
 そうだ、私は電車に乗って……

 けれど、脳が情報を処理することを拒否している。言葉の代わりに、口から出たのは支離滅裂な本音だった。

「……ないの……もう、ない……」
「え?」
「会社、なくなっちゃった……私の、3年間……どこ……?」

 自分でも何を言っているのか分からない。ただ、必死にキーボードを叩いていた指の痛みやデスクに突っ伏して眠った朝の寒さが涙と一緒にこみ上げてくる。
 終わったはずなのに終わっていない。記憶となって体を蝕んでいることが、何となく察せられた。

「……頑張った……のに……」

 私はそのまま、再び深い眠りへと落ちてしまった。
 見知らぬ誰かの清潔な石鹸のような香りが鼻腔をくすぐった気がした。けれど、それが夢か現実かを確認する術は今の私にはなかった。

 
◇◇◇

 
 ズキズキと脈打つこめかみの痛みで、私は目を覚ました。
 喉が焼けるように乾いている。重い瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは見覚えのない無機質なグレーの天井だった。

「……ここ、どこ……?」

 心臓がドクリと跳ねる。
 慌てて布団の中で自分の体を確認した。服は昨日のオフィスカジュアルなブラウスとスラックスのまま。ボタンも外れていないし、乱れてもいない。
 最悪の事態は免れたようだと安堵した直後、カチャリとドアが開く音がした。

「おはようございます。目は覚めました?」

 そこに立っていたのは、昨夜夢うつつの中で聞いた声の主だった。驚くほど整った顔立ちに、知的な眼鏡。白のワイシャツを着こなしたその男性は、ベッド近くの椅子に腰かけた。

「昨日のこと、覚えていますか?」
「あ、あの……! ごめんなさい、私、一体……」
「お声がけさせてもらったのですが、終点についても起きられなかったんです。放っておくわけにもいかず、タクシーで僕の家まで連れてきました。あ、僕はソファーで寝ましたので安心してください」

 彼の紳士的な彼の対応に、私は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。開放感があったとはいえ、羽目を外しすぎだ。

「本っ当に、申し訳ありません!そして、ありがとうございます!!」

 ベッドの上ではあるが頭をこすりつけんばかりに謝る私。そんな私の様子にも、彼は爽やかに笑って返してくれた。

「あははっ、元気なようで良かったです。もしよろしければ、こちらもどうぞ」

 その言葉とともに差し出されたのはスポーツドリンクだ。こんなにも気を遣っていただけて、本当に申し訳なくなる。いただいたスポーツドリンクを飲んでから、思い切って口を開く。

「あの、差し支えなければ何かお礼をさせてください!!」

 私の申し出に、男性は困ったように笑った。その表情すらも絵になる様な美形だ。そんなことを他人後のように思っていると、男性は小さく口を開いた。
 
「本当に気にしないでください。僕がしたくてしているだけなので」
「いえ、気が済みません! せめて……せめて、お昼ご飯を作らせてください!料理には自信があります!!」

 食い下がる私に、彼は「それなら」と観念したようにキッチンを貸してくれた。

 案内された彼の家の冷蔵庫は、驚くほど整頓されていたが中身は最低限のものしかなかった。きっと忙しい人なのだろう。私は袖をまくり、残っていた鶏肉、卵、少し萎びたほうれん草、それからストックの根菜を捌いていく。

 料理を初めて1時間後。
 テーブルには、照り焼きチキン、出汁の効いた厚焼き玉子、ほうれん草の胡麻和え、そして根菜たっぷりの豚汁が並んだ。それだけに留まらず、冷蔵庫にあった予備の食材で、きんぴらごぼうや煮浸しなど数日分の作り置きまで仕上げておいた。これなら、多忙であろう彼でも簡単に食べることができるだろう。
 
 完成したことを知らせれば、すぐにダイニングテーブルに移動してくれた。

「……すごいですね」

 テーブルに並んだ料理にキラキラとした目を向ける彼は、どこかそわそわしている。その目はまるで少年のようだ。

「ふふっ、お口に合うかは分かりませんがどうぞ召し上がってください」

 早速箸を持ち一口食べた瞬間、彼の動きが止まった。その反応に不安に思ったのも束の間、驚く勢いで箸を進めてくれる。

「美味しいです!こんなに温かみのある食事、いつ以来でしょうか」
「本当ですか? 良かった…。私、唯一の趣味が料理なんです。そんなに喜んでいただけるのなら、次の仕事は飲食系にしようかな、なんて」

 ふと口を突いて出た言葉に、彼が顔を上げた。

「次の仕事? 転職活動中なんですか?」
「あ……実は」

 私は苦笑しながら、昨日までに起きた出来事を打ち明けた。
 連日ニュースを騒がせているあの倒産した会社に勤めていたこと。昨日は最後の出社日で、それを理由に羽目を外して飲んでしまったこと。それでご迷惑をおかけしてしまったこと。

「なるほど。あの会社の……」
「はい。ということで、絶賛無職なんです。会社が最後の嫌がらせか、転職活動をする隙を与えてくれなかったので」

 自嘲気味に笑う私を、彼はじっと見つめていた。やがて彼は箸を置くと、真剣な眼差しでこう切り出した。

「なら、僕専属の住み込みの家政婦になってくれないか」
「……えっ?」

 あまりに突拍子もない提案に、私の思考が停止する。その隙にも彼は静かに言葉を続けた。

「実は多忙なあまり、家事にまで時間を回すことができないんです。そこで、あなたのような家事スキルがある人に家を守ってもらえると助かります。もちろん、衣食住は完備。給料も、前の会社の月収よりは弾むと約束しましょう」

 あまりの厚遇に、一瞬反射で頷きかけた。しかし、残った理性がそれを止める。
 
「で、でも、初対面の私をそんな…」
「昨日のあなたは、泥酔していてもずっと『頑張ったのに』と泣いていました。悪い人間には見えないんです。僕は、あなたのことを信用したい」

 初対面の人の前でみっともなく泣いたことか、まるでプロポーズのような熱烈な言葉を真正面から伝えられたこと。そのどちらに動揺したか分からないが、顔に熱が集まるのを感じる。
 黙り込んでしまった私に、彼はおずおずと言葉を加える。

 「……どうでしょうか。まずは、働き口が見つかるまでという限定契約でも構いませんよ」

 働く場所を失った今の私にとって、それはあまりに魅力的な提案だった。さらに、彼の瞳には下心のような濁りは一切ないように感じられた。それを証明するかのように、昨日から今日にかけての紳士的な対応が思い出される。
 この人が私のことを信用したいと言ってくれたように、私もこの人のことを信用したい。

「……本当に、私でいいんですか? 」
「勿論です」
「…じゃあ、お願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」

 終電で拾われた私は、こうして彼の住み込み家政婦となりました。


 まさかその彼が大企業の御曹司だなんて、このときの私は知る由もなかった。
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