恋は、終わったのです

32.終止符を打つ音 sideセオドア

 sideセオドア


 場の空気は張り詰め、誰もが次の言葉を待っている。沈黙の中、口を開いたのは公爵夫人だった。


「気持ちは変わらないのね」

 公爵夫人は、穏やかな声だった。



「はい」

 エマを選ぶという私の決意は変わらない。



「よかったわ」

 公爵夫人の唇がわずかに緩んだ。ほころびと呼ぶには小さすぎるその変化を、私は見逃さなかった。



「ありがとうございます!」

 認められた。エマとの結婚を祝福されることは分かっていたが、それでも「よかった」と言われたことに、かすかな安堵を覚えた。


 だが、その感情はすぐに、得体の知れない不安へと形を変えた。



「あなたを小さい頃に養子に迎えなくて。ああ、いずれ養子になるからと、今まであなたへ援助していたすべての費用は返さなくて結構よ」

「……は?」


 何を言われたのか、一瞬、理解が追いつかず、眉をひそめた。



「私たちは、リディアの夫となる者を養子に迎えるつもりだったの」


 胸がざわつく。鼓動が速くなる。何かが決定的に噛み合っていない。



「ど、どういうことです?」

 声が震えているのが分かった。指先がひやりと冷たくなり、足元が揺らぐ感覚に襲われる。



「むしろ、リディアを養子に迎えたかったの。ねえ、あなた?」


 公爵が同意するように頷く。


 思考が追いつかない。リディアを……養子に? そんな話、一度も聞いたこともない。

 夫人はゆっくりと微笑み、遠い昔を懐かしむように語り始めた。



「私と侯爵は、はとこでね。侯爵は年の離れた私を今でも姉のように慕ってくれているわ。身内だけの場所では、姉上って呼んでくれているの。リディアと初めて会った時……、私の亡くなった妹にそっくりで驚いたわ」

「私の妻は妹を溺愛していたのだが、幼い頃に亡くなってしまったのだ」



 公爵が低く言葉を継いだ。哀愁を帯びたその声が、場を沈ませる。


「私たちは結婚してずいぶん経っていたのだけれど子供ができなくて……。公爵家のためにと、この人を説得したのだけれど、離縁にも妾にも首を縦に振らなかったの」


 公爵夫人は、穏やかな表情のまま、静かに過去を振り返るように続ける。



「妻以外を愛するなど、ありえない」


 公爵の言葉は固い決意に満ちていた。



「だからリディアを養子にって頼み込んだわ。リディアの弟が生まれた頃だから、5歳頃かしら?」

 視界が揺らぐ。知らなかった、そんな話……。



「でも、侯爵夫妻は、自分の娘は手元に置きたいって言うから……成人して結婚したら、うちの子になってもらうことで折り合いをつけたの」

 公爵夫人の声が少し遠くなる。



「爵位を継ぐのは男。でも、幸いリディアの婚約者は次男だったから、結婚したら公爵家にって話は、すんなり通ったわ。……まあ、実際は、幸いではなかったようですけど。私、リディアが娘になってくれる日を待ちのぞんでいたのよ。結婚式のドレスだって何年も前から作っているのに」


 喉が詰まる感覚に襲われる。


「わ、私は? 私のことを気に入ってくれていたのでは?」


 ようやく絞り出した言葉だった。しかし、返ってきたのは、期待とはまるで違うものだった。



「リディアの夫になる者だから可愛がっていた。何かおかしいかしら?」

 胸が締め付けられる。


「君は、公爵家の養子という重みをわかっていない。気に入られていれば何をしてもよいと?」


「本当ですわ、あんな女を連れてくるだなんて。見え透いた美辞麗句を言う子も、他力本願の子も好きではないのよ。正妻がいながら、邸に帰らない当主と愛人との子……兄に嫌われようが、平民になろうが、当然じゃない」


 公爵夫妻の非難の言葉が、容赦なく突き刺さる。



「よくもリディアがいながら、自分の愛人候補を我が妻の前に連れくることができたな! しかも正妻にしようとたくらんでいたなど、ぞっとする!」


 公爵の怒りに背筋が凍る。



「でも、夫人とはあんなに会話も弾んで……」

「エマって子が一方的に話していただけよ。頭の軽そうな話題ばかり……。あなたもリディアと私の会話の内容をちゃんと覚えていたら、あんな愚行止めていたはずではなくて? 私の振る話題、全てに対応できるリディア。お茶会というのはただお茶を楽しむ場ではないのよ」


 冷静に、だが明確に。夫人の言葉は私を追い詰めていく。


「そ、そんな、エマを伯爵家の養子にしてくれたじゃないですか!」


 気に入っていないというならどうして……。しかし、夫人は嘲笑うように肩をすくめる。



「別にあなたの嫁にするつもりで仲介したわけではないし、公爵家の嫁にするつもりも微塵もないわ。そんな話したかしら?」


 言葉が出ない。


「私は、子供のいない子爵家も紹介したわ。残念ね。エマさんがそちらを選んでいたらあなた、婿養子に入れたのに。ふふ、起こりうる最悪の事態を考えて先々を見れない、その程度の男。いずれにせよ、公爵の器ではなかった。この結果は必然ね」


 息を呑む。


 子爵家のことは調べた。

 血縁関係の中には、養子に適したものはおらず、他の家の次男三男を当たったらしいが、領地を持たない子爵家だったため優秀なものには断られたと聞く。

 可愛らしいエマを餌に令息を釣ろうという魂胆だろう、あの時はそう思った。ならば、やはり迷いなく伯爵家を選ぶべきだろうとも……。



 公爵夫人は、いつから私とエマのことに感づいていたのだろうか……もしや、私たちの思惑さえ、最初から?



「……リディアは知っていたのか?」

 私の問いに、リディアが淡々と答える。


「公爵夫人が自分の血縁であることを知らないとでも? でも、可愛がってもらっていたとはいえ、私を養子にしたかったのと、亡くなった妹君に似ていたというのは初耳ですけど」


 グラント侯爵を見やる。リディアから目線を逸らしたということは、侯爵は、隠していたのだな。


 拳を握りしめる。



「血縁関係をなぜ教えてくれなかった」

 怒りがこみ上げる。しかし、返ってきた言葉は冷え冷えとしたものだった。



「我が侯爵家も含め、これから身内になろうとしている者に興味があれば分かったはずだわ。遠い血縁ではないのですもの。自分で調べて察するべきことよ」

 彼女の声には微塵の揺らぎもない。どこか呆れたように、見下すように続けた。



「何て教えればよかった? 『私のおかげで公爵になれるのだから、もっと私を大切にしなさい』って? ただでさえ劣等感を抱いているプライドの高いあなたに?」


 鋭い言葉が、容赦なく突き刺さる。



「……少なくとも、結婚はしてやった」

 自棄のようなその言葉に、彼女の唇がわずかに歪んだ。



「もう結構よ。私は歩み寄ろうとしたし、関係を改善しようともしたわ。あなたが公爵家に入ることを前提に、たくさんの大人が動いていた。果たすべき責任が私たちにはあったのよ」

 静かだが、確固たる意志を感じさせる声だった。


「だから私は、愛はなくても結婚しようとしていた。みんなのために」


 嘘だ……。


「……私のためだろう? 記憶にはないが、私たちは幼いころ、好き合っていたと聞いている。私のことが、好きだったのだろう?」

 公爵家の養子、私の拠り所がなくなる……。何とかしないと。



「そうだ、今からでも関係を改善しよう」


 懇願するように、手を伸ばす。だが、彼女の表情は変わらなかった。


「好き合っていた記憶など私にもないわ。恋をする前に、あなたとの恋は終わっていたわ」



 リディアは、おもむろに封筒から紙の束を取り出した。


「これを見て。あなたの不貞の証拠よ。私に課題を押し付けていたことも、同じドレスをエマに贈って私を貶めたことも、私を叩いたことも、全部全部書いてある! 関係改善なんてよく言えたわね」



 周りの大人たちの目が大きく見開かれる。信じられないといった顔の公爵が、手を伸ばしリディアからそれを受け取り、夫人とともに見る。徐々に表情が険しくなり、重い沈黙が降りる。


 悔しさと、焦りと、そして何より、自らが招いた結果への恐怖が胸を締め付ける。



「……不利益を被る者が出るのは、リディアだって嫌だろう」


 最後の抵抗だった。だが、彼女は冷笑を浮かべるだけだった。



「散々、私は、そう言ってきたつもりよ」


 彼女の瞳が鋭く光る。


「手遅れよ。私は覚悟を決めたのだから」


 静かな、しかし決定的な宣告だった。全身から力が抜けていく。



「じゃあ、私はこれから一体……」

「働いたら? 文官の再募集があるはずよ」


 苦笑しながらリディアが言う。難関の文官試験など受かるはずがないという口ぶりだ。





 黙っていた父が、冷たく告げる。


「……愚息は連れて帰ります」


 その言葉が、私の人生に終止符を打つ音に聞こえた。



「そうして頂戴。不愉快よ」


 公爵夫人が手をひらひらと振る。その瞬間、父が勢いよく立ち上がり、私の腕を乱暴に掴む。

 扉が静かに開く。廊下へ引きずり出されると、沈黙が訪れた。



 なぜか、扉の近くにはリディアの友人が立っていた。


< 32 / 43 >

この作品をシェア

pagetop