あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第11章|“甘い香り”の勘違い

 その夜、蓮は珍しく早く帰ってきた。

 九時前。
 結衣が夕食の皿を並べ終えた頃、鍵の音がして、胸が小さく跳ねた。

「お帰りなさい」

「……ただいま」

 蓮はネクタイを緩め、コートを脱ぎながら短く答えた。
 いつもと同じ。
 でも、今日は“早い”だけで、結衣の心は少しだけ期待してしまう。

(今日は、少し話せるかも)

 結衣がコートを受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間だった。

 ふわり、と――甘い香りが鼻先をかすめた。

 柔らかくて、上品で、どこか色っぽい匂い。
 結衣が持っている柔軟剤の匂いではない。
 台所の匂いでもない。

 知らない香り。

 結衣の手が止まった。

「……結衣?」

 蓮が怪訝そうに結衣を見る。
 結衣は慌てて笑顔を作り、コートを受け取る。

「い、いえ。……お疲れさまです」

 胸の奥が、冷たくなる。
 息を吸うたび、香りが喉に刺さる。

(香水……?)

 白石さやの赤い口紅が脳裏に浮かぶ。
 望月玲香の涼しい目が浮かぶ。
 そして、路地裏の小春――。

 結衣はコートをハンガーに掛けようとして、もう一度香りを嗅いでしまう。
 確認なんてしなければよかったのに。

 甘い。
 確かに甘い。

 結衣の指先が冷たくなり、ハンガーが小さく鳴った。

 蓮は靴下を脱ぎながら、淡々と言った。

「……飯、あるか」

「……はい。すぐに」

 結衣はキッチンへ逃げるように向かった。
 包丁を持つ手が震えそうで、ぎゅっと握りしめる。

(違う、って思いたい)

 でも、頭は勝手に繋げていく。

(社内写真で近かった白石さん)
(夜でも連絡が来る望月さん)
(“小春”って名前の知らない女性)

 香りは、視覚より残酷だ。
 証拠みたいに、身体に残る。

 結衣は温め直した皿を運び、蓮の前に置く。
 席についた蓮が、箸を取る。

「……いただきます」

「……いただきます」

 結衣も箸を取った。
 でも、喉が渇いて味がしない。

 沈黙が続く。
 結衣は一度だけ、勇気を出した。

「……今日、撮影だったんですね」

 蓮の箸が止まる。

「……見たのか」

 たったそれだけ。
 “どうだった”も、“来てくれてありがとう”もない。

 結衣は笑って頷いた。

「はい。……お忙しそうでした」

 蓮は視線を落とし、淡々と食べる。
 結衣の胸の中で、香りだけが膨らむ。

(聞かなきゃ)

 聞かなきゃ、終わらない。
 でも、聞いたら壊れる。
 その間で、結衣は息ができない。

 結衣は箸を置いてしまった。

「……蓮さん」

 蓮が顔を上げる。
 結衣はその目を見て、言葉を選んだ。
 直接は言えない。
 でも、遠回しでもいいから。

「……お仕事、大変ですよね。……色んな人と、近くで……」

 結衣の声が、小さく震えた。

 蓮は眉を寄せた。

「……何が言いたい」

 その言い方が、冷たく聞こえてしまう。
 結衣は慌てて首を振った。

「違うんです。責めたいんじゃなくて……」

 結衣は息を吸った。
 もう一度、コートの甘い香りが蘇る。

 思わず口から出てしまった。

「……香りが、したんです」

 蓮の目が僅かに揺れた。

「……香り?」

「……あなたの、上着から。甘い匂いが……」

 言ってしまった。
 言った瞬間、結衣の胸が痛くなる。

(こんなこと言う妻、嫌われる)

 蓮はしばらく黙っていた。
 その沈黙が、結衣には“答え”に見えた。

 ――やっぱり。
 隠してる。
 図星だから、言えない。

 結衣の指が震える。

 ようやく蓮が口を開いた。

「……香水じゃない」

 結衣は息を止める。
 否定されたのに、救われない。

「……じゃあ、何ですか」

 結衣の声は、思ったよりも強く出た。
 蓮の目が少しだけ大きくなる。
 結衣はすぐに後悔した。

 蓮は視線を逸らしたまま、低く言う。

「……消臭だ」

「……消臭?」

「猫の。……濡れてたから。匂いがついた」

 結衣の頭が真っ白になる。

(猫……?)

 猫用の消臭スプレー。
 それなら、甘い匂いがするものもある。
 理屈は分かる。
 でも――結衣の心は納得しない。

(猫って、どこで?)
(誰と?)

 “猫”は、結衣の中で既に“女性”と結びついている。

 結衣は笑おうとした。
 でも笑えなかった。

「……そう、なんですね」

 蓮は、結衣の顔を見た。
 ほんの少しだけ、困ったような目をした。

「……疑ってるのか」

 結衣の喉が詰まる。
 疑ってないと言えば嘘になる。
 疑ってると言えば終わる。

 結衣は視線を落とし、かすれた声で言った。

「……疑いたく、ないです」

 蓮の手が止まった。
 彼の指先が、わずかに強張る。

「……なら、やめろ」

 その言葉が、結衣の心を一番深く傷つけた。

 やめろ。
 “説明する”じゃなくて、“疑うな”だけ。

(私が悪いの?)

 結衣は笑った。
 泣く前に笑う癖が、また出た。

「……ごめんなさい」

 蓮は何か言いかけて、飲み込んだ。
 そして、いつも通り立ち上がる。

「……明日も早い。先に寝ろ」

 結衣は頷いた。
 頷くしかできなかった。

「……はい」

 蓮が廊下へ消える。
 扉が閉まる音がする。

 結衣は、食卓に一人残された。
 甘い香りが、まだ鼻の奥に残っている。

 それは“猫の消臭”なのに、
 結衣には“知らない女の気配”にしか思えなかった。

(猫のことも、女のことも……結局、私は何も知らない)

 知らない。
 知らないことが、怖い。

 結衣はカップを握りしめ、こぼれそうな涙を堪えた。
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