あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第8章|知らない女性(小春)

 玄関に入った瞬間、結衣は濡れた靴のまま立ち尽くした。

 雨の路地裏で見た光景が、まだ瞼の裏に貼りついている。
 猫を抱いた蓮。
 あの柔らかい声。
 そして――白いレインコートの女性。

(誰……?)

 問いが、喉に刺さって息がしづらい。

 結衣は傘を畳み、手を拭く。
 丁寧に。いつも通りに。
 何もなかったふりをするために。

 リビングは暗い。
 蓮はまだ帰っていない。
 それだけで、少しだけ“逃げられた”気がした。

 結衣はキッチンで湯を沸かし、カップを一つ出した。
 自分の分だけ。
 二人分を並べると、苦しくなる。

 湯気が上がる。
 その白さの中に、さっきの女性の笑顔が浮かぶ。

「九条さん、本当に優しい」

 ――優しい。
 その言葉は、結衣が言われたかった言葉だ。

(私には……)

 結衣はカップを持つ手に力が入り、熱さに指を引いた。
 痛みが、少しだけ救いになる。

 鍵が回った。

 結衣は反射で背筋を伸ばし、いつもの笑顔を作る。
 作らなければ壊れてしまう。

「お帰りなさい」

 蓮が玄関に立っていた。
 スーツは少し湿っていて、肩に雨粒が残っている。
 そして――腕に、薄い紙袋。

 結衣の心臓が跳ねた。

「……ただいま」

 蓮は紙袋を持ったまま、靴を揃える。
 結衣は目を逸らせなかった。
 紙袋の中身が、何かは分からない。けれど、“誰か”を想像してしまう。

「それ……何ですか?」

 声が思ったより冷たく出た。
 結衣は自分で驚き、慌てて笑おうとする。

「すみません。変な聞き方を……」

 蓮は一瞬だけ眉を寄せた。

「……猫の、ものだ」

 猫。
 結衣の胸がざわつく。

「猫……?」

 蓮は短く頷き、紙袋をテーブルの上に置いた。
 中から覗いたのは、小さなタオルと、猫用のミルクらしいパック。

(猫のために、買ったんだ)

 その事実は、少しだけ安堵をくれる。
 でも同時に、別の痛みも運んでくる。

(私には、あんな声をくれないのに)

 結衣は唇を噛んだ。
 聞きたい。
 さっき見た女性のことを。
 でも聞けない。

 蓮はネクタイを外し、手を洗いながら言った。

「……濡れてた。放っておけない」

 “放っておけない”。
 その言葉は、結衣が一番欲しい言葉だった。

(私は……放っておけるの?)

 心の中で叫んだ瞬間、涙が喉まで上がった。
 結衣は急いでカップを持ち、キッチンへ背を向けた。

「お茶、淹れますね」

「……頼む」

 その返事も、いつも通り短い。
 路地裏で聞いた“頼む”とは違う。
 結衣は背中で、その違いを感じてしまう。

 茶を淹れて、カップを二つ置いた。
 蓮が座る。結衣も向かいに座る。
 夫婦の形だけは、整う。

 結衣はカップに口をつけた。
 熱いはずなのに、味がしない。

 沈黙が落ちる。

 結衣は、勇気を振り絞って口を開いた。

「……猫、なんて。知らなかったです」

 蓮の視線が結衣に向く。
 結衣の胸が跳ねる。

「……言ってなかった」

 それだけ。
 理由も、続きもない。

(どうして言ってくれないの)

 結衣は笑いながら頷く。
 心が、どんどん置いていかれる。

「……あの。今日、雨の中で……」

 言ってしまいそうになる。
 見た、と。
 あなたが猫に優しくしていた、と。
 知らない女性と一緒だった、と。

 でも――結衣は言えなかった。
 言った瞬間、すべてが壊れる気がしたから。

 蓮はスマホを見ていた。
 画面が光り、通知が一瞬だけ見えた。

『小春:ルル、無事に温まりました。ありがとうございます』

 結衣の目が、その文字に吸い寄せられる。

(……小春?)

 心臓が、音を立てて落ちた。

 名前がある。
 蓮のスマホに、女性の名前で連絡が来る。
 望月だけじゃない。

 結衣は、息が詰まった。
 指先が震えて、カップが小さく鳴った。

 蓮が顔を上げる。

「……どうした」

 結衣は笑った。
 涙が出そうなのに、笑うしかない。

「なんでも……ありません」

 蓮は何か言いかけて、また飲み込む。
 いつものことだ。

 結衣は、カップを置いて立ち上がった。
 台所へ行くふりをして、距離を取る。

 背中に、蓮の視線が刺さる。
 でも、言葉は来ない。

 結衣はシンクの前で、蛇口をひねった。
 水の音を大きくするために。

(小春さんって、誰)

 問いが胸の中で膨らむ。

 結衣はタオルで手を拭きながら、鏡のように光る水面を見つめた。
 そこに映る自分の顔が、思ったよりも弱っている。

(私は……妻なのに)

 その夜、蓮はいつも通り「先に寝ろ」と言った。
 結衣はいつも通り「はい」と頷いた。

 でも――いつも通りの中で、結衣の心だけが違っていた。

 “知らない名前”が、夫婦の間に置かれた。
 そしてそれは、まだ芽だ。

 けれど、芽は必ず伸びる。
< 8 / 31 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop