新米侍女は魔塔主殿下のお気に入り ~なぜか初恋の天使様と勘違いされて寵愛されています~

 やがて、ダンスの時間が始まった。

 弦楽器が優雅に鳴り、ゆったりとした円舞曲が流れ始める。周囲の貴族たちはペアでフロアに出て、仲睦まじく踊り始めた。

 シオンは少し緊張気味にそれを見て、リエルを誘った。

「踊ろうか」
「……はい」

 輪の中へ進んで、ゆっくりとステップを踏み、リエルは気づいた。

 首元のクラヴァットの隙間。
 それに、袖と手袋の境目――隠されてはいるが、シオンの肌に黒ずんだ痣がある。代償によるものだろう、と気づいて、リエルの胸が痛んだ。

「……その痣は……痛かったりは、しませんか?」
「ああ……全く問題ない」
「心配です……」

 シオンは、くすっと笑った。

「実は、君に心配してもらいたくて、わざと痣を見せている」
「……嘘ばかり」

 本当に、本当に、嘘が多い人だ。
 リエルが軽く睨むと、彼は悪びれる様子なく肩をすくめた。

「ばれたか」

 けれど、目が合うと――リエルは息を呑んだ。
(なんて目をなさっているの)
 彼の目は、見たことのない必死で悲痛な感情を浮かべていた。
 ステップが乱れたのは、リエルが動揺しただけが原因ではない。彼もまたリードを忘れた様子になって、ステップを誤魔化していた。
 
「……本当は、怖いんだ」

 耳元で囁かれた声は、震えていた。
 完璧な王子としての仮面が剥がれ落ちて、目の前には、ただ生きたいと願う青年が立っていた。
 片方しかない金色の瞳が、縋るように揺れている。

「リエル、君だけだ。俺にこんな無様な顔をさせてくれるのは。……どうか、軽蔑しないでほしい」
 
 ひとりの人間として、弱い部分を見せてくれている。
 心の中の柔らかな部分に触れさせてくれている。
 
(ああ、やっぱり、この人はいつも強がって、無理をしてるんだ)
 
『人間は嘘つきですの』
 ケイティの言葉が思い出される。
 ……本当にそうだ。

 そう思ってから、違和感を覚える。
 
 なんだか、自分が人間側じゃないみたい。
 ふと、そう思ったのだ。
 
 オルディナにいた頃やブルーローゼ伯爵家で感じた「自分の居場所ではない」という感覚の根源みたいなものが、見えた気がした。
 それを自覚した瞬間、胸の奥が冷えていく。
 足元の床が実体を失って、奈落へと崩れ落ちるような感覚に、動揺する。

 ――私は、何者?

「不安そうにしている。俺のせいかな、すまない。あまりこういう場に出ないから、ダンスも……」
「いえ……」
 
 シオンの声が、遠くなったように錯覚する。実際の距離は近いのに。 

「俺はもっと心を強く持たないといけないな。いつもそう思うんだ。もっと君をしっかりとリードしたい」
「……弱いところを、もっと見せてください」
「ふふっ、リエルは、その方が好み? なら、そうしようかな……なんてね」
  
(――……このシオン様の目……)

 なぜか、懐かしい気配がする。
 思い出せそうで、思い出せない何かがある。それを思い出したいような、思い出すのが怖いような気分だ。

 曲が終わり、人々の拍手が広がる。
 賑やかな夜会の時間が経つにつれ、リエルの違和感は大きくなっていった。

   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆

 夜会が幕を下ろし、会場から離れた帰りの回廊の途中、内庭に面した高窓から差し込む月明かりの下で、ふたりは足を止めた。 
  
 シオンは、別れ際にそっとリエルの頭に手を置いた。

「今日は、ありがとう。俺の隣にいてくれて」

 リエルは彼の顔を見て、気づいた。
 顔色が、明らかに悪い。

「……シオン様?」
 彼の頬に手を当てると、ひんやりとしている。冷たすぎるように感じる。
「ん……」
 シオンは儚く目を伏せ、夜風に攫われそうな弱々しい微笑を見せた。
「……君は温かいな」

 そのまま消えてしまいそう。
 温もりを、記憶に刻みつけるみたい。
 まるで最期が近いような気配がする――リエルは泣きそうになった。怖くて不安で、仕方ない。

「……もう、しないでください」

 自分でも驚くほど、必死な懇願が零れる。

「……?」
「……あんなこと。あんな儀式……やめてください。あれをしなければ、これ以上弱ってしまうことはないでしょう……?」

 シオンは、一瞬、言葉を失ったように目を瞬かせた。
 そのまま、沈黙が落ちる。
 こんなことを言っても、彼は頷かないだろう。その予想は、当たった。

「浄化の力――天界と取引をする異能は、王族全員が持っているわけじゃない。今代では、俺だけだ」

 淡々とした口調。
 だが、その奥に、重い覚悟が滲んでいる。

「このことは、王族の秘密だ。知られれば、民が動揺する」
「……」
「研究は組織的に進めている。俺がいなくなっても、完成はできるはずだ」

 ――いなくなっても。

 その言葉が、耳の奥で反響する。
 彼はずっと、この国の未来から彼が消えているのを前提にして、研究を進めてきたのだ。

「俺が保身に走れば、困るのは民だ」
「……」
「今は冬だ。異常な雲が戻れば、凍死する者も出る」
「……休めない、んですね」

「ああ」

 あまりにも静かな肯定だった。

 その瞬間、リエルの中で灼熱に似た執着が生まれて、胸を焦がす。

(そんなの、絶対に……だめ)

 恋という名前をつけるにはあまりにも重く、激しい情動が、リエルの魂を揺さぶった。
 揺れる魂は、蓋をして秘めていた大切なものをその奥から引き出そうとする。それは、ずっと許されなかった現象だ。
 そうしてはいけないと定められていたことだ。だから、思い出しかけるたびに邪魔されて、拒絶されて、痛みがリエルを苛んだ。

 封印されているのだ。
 本来の自分が。
 誰に?

 思考が巡って、リエルは閃くように真実に思い至った。
 シオンだ。
 自分の記憶喪失の原因は、目の前の彼なのだ。
 
「シオン様――私は、あなたを……」
 気づいてしまった。思い出してしまった。
「死なせません」

 変人で、でも親しみがあって。
 掴みどころがなくて、けれど安心感があって。
 優しくて、頼もしくて。
 尊い献身と尽力を隠して残念という噂に甘んじて。
 自分を理解しない大勢のために死のうとしている彼。
 この可愛げがあって温かな魂は――。

 
「……リエル?」

 心配そうに覗き込むシオンは、少女の変化に気づいて目を見開いた。

 白い髪は、暖かな陽光を紡いだような金色へとその色彩を変えていく。
 背には、柔らかで穢れなき天使の双翼が現れた。
 瞳は、美しい夜明けの空みたいな紫色。
 神聖な超越者の気配を漂わせながら、その唇が天使の声を響かせる。

「シオン様。私は、あなたを救います」
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