優しさの行き先

4章|幼なじみの「今日は帰ろう」

 車寄せの風は、昼でも冷たかった。
 高層ビルの谷間を抜けてくる風は、香水の残り香や、上等な布の匂いをまとめて攫っていく。
 それでも、胸にへばりついたものだけは剥がれない。

 九条夫人の邸宅を出るとき、私は最後まで笑っていた。
 扉の向こうにある“甘い香りの地獄”を、なかったことにするみたいに。

「叶乃様、お大事に」
「またゆっくりお茶を」
「白石様にもよろしくね」

 背中に投げられる言葉は、すべて柔らかい。
 柔らかいからこそ、棘がよく刺さる。

 私は車寄せの前で立ち止まり、手袋の指先を整えた。
 誰もいないのに、姿勢を正す。
 “奥様”でいるのが癖になっている。

「送る」
 少し離れた場所から、透の声がした。

 朝比奈透。
 黒いコートに、無駄のない身のこなし。
 いつもと同じ。
 それが、泣きそうになるほどありがたい。

「……大丈夫よ」
 私は、反射で言った。
 癖だ。大丈夫じゃない時ほど、そう言う。

 透は、私の言葉を受け流すみたいに首を傾げた。

「大丈夫なら、送らせて」
 押しつけじゃない。
 “叶乃の大丈夫”を否定しないまま、別の道を用意する言い方。

 私は小さく笑った。

「透って、いつもそう」
「そうって?」
「……断らせない言い方をする」
 私が言うと、透はほんの少しだけ口角を上げた。

「断らせないんじゃない。断りやすい理由を潰してるだけ」
 淡々と言って、透は車のドアを開けた。
 私に手を差し出さない。
 その距離が、彼の礼儀だ。
 そして、彼の“寄り添い方”だ。

 私はそのまま車に乗り込んだ。
 シートは温かい。
 温度がある、というだけで少しだけ息がしやすくなる。

 扉が閉まる音が、外の世界を遮断する。
 ガラスの向こうで、九条夫人の家が小さくなっていく。
 香りが薄れていく。
 なのに、噂の言葉だけは濃く残る。

 透が運転席に乗り込み、エンジンをかける。
 ハンドルを握る手は、落ち着いている。

「……どこまで送ればいい」
 透が聞いた。

「家よ」
 私は答えてから、苦笑した。
「当たり前よね。白石家の“奥様”だもの」

 透はアクセルを踏み、車は滑るように走り出した。
 信号待ちの赤が、フロントガラスに淡く映る。

「奥様、ね」
 透が小さく繰り返した。

 私は窓の外を見た。
 街は忙しくて、誰も私の噂なんて知らない顔で歩いている。
 それが、少し羨ましい。

「今日、何か言われた?」
 透の問いは短い。
 “何があったのか全部言え”じゃない。
 言える範囲でいい、という問い。

「……いつもの」
 私は笑おうとした。
「“初恋を奪った女”って」

 透が、眉だけ僅かに動かした。
 怒りを大きくしない。
 私が怯えないように。

「……名前まで出た?」
「出たわ」
 私は答えた瞬間、胸の奥がつんと痛んだ。
「絵里紗の」

 透は、短く息を吐いた。

「そうか」
 それだけ。
 慰めの言葉を積まない。
 積めば、私が崩れるのをわかっている。

 信号が青に変わる。
 車は流れに乗る。

「私、笑ってた」
 私は、ぽつりと呟いた。
「“幸せです”って言った。……言わなきゃ、負けるから」

 透の声が、少しだけ低くなる。

「叶乃。今日は帰ろう」
 私は、反射で首を横に振った。
 もう帰っているのに。
 でも私の中では、まだ“サロンの中心”に立っている。

「帰ったら、余計に噂になる」
 透は、即答しない。
 ハンドルを微調整し、車線変更をしてから、静かに言った。

「もう噂になってる」
 事実だけ。
 その事実が、私の背骨を支える。

「……透」
 私は名前を呼んだ。
 声が少しだけ震える。
 透は視線を前に向けたまま続ける。

「叶乃が、笑うのをやめたら終わる世界なら、終わっていい」
 その言葉が、胸の奥を強く叩いた。

「終わったら、私は——」
「叶乃は叶乃だよ」
 透は、私の言葉を遮らないのに、結論だけを先に置く。
 揺らがない結論。

 私は唇を噛んだ。
 泣くな。泣くな。
 何度も自分に言い聞かせる。

「……私、惨めなのが嫌なの」
 声が小さくなる。
「夫が遅い。理由を聞けない。聞いたら……私が疑う女になる。悪役みたいになる」

 透が、わずかに首を傾げた。

「叶乃。疑うことは、悪役じゃない」
「でも……」
「疑われるような状況を作ってる側がいる」
 透の言葉は冷静で、だからこそ痛い。
 私が避けてきた現実を、丁寧に言語化するから。

 私は呼吸が浅くなった。
 胸が、ぎゅっと縮む。

「……恒一は、悪い人じゃない」
 私は、必死に言った。
 夫を悪者にしたくない。
 悪者にした瞬間、夫婦は終わってしまう気がして。

 透は、肯定も否定もしない。
 ただ、私の“願い”を壊さない声で言う。

「悪い人じゃなくても、人は人を傷つける」
 静かな言葉。
 それが、いちばん残酷で、いちばん真実だった。

 私は目を閉じた。
 サロンで浴びた視線が、まぶたの裏に蘇る。
 花の香り。笑い声。
 そして、絵里紗の名前。

「……透、私ね」
 言いかけて、喉が詰まった。

 透が、ほんの少しだけ声を落とす。

「言わなくていい。今は」
 その優しさが、逆に涙を誘う。

 車は白石家の門の前に着いた。
 重い門扉。
 灯り。
 整いすぎた静けさ。

 透は車を停めたが、すぐに降ろそうとしない。
 エンジン音だけが、狭い車内に残る。

「叶乃」
 透が呼ぶ。
 私は返事ができなかった。
 呼ばれるだけで、胸がいっぱいになる。

「今日は、帰ろう」
 透がもう一度言った。
 その“帰ろう”は、家に帰るという意味じゃない。
 ——無理して笑う場所から、帰ろう。
 そういう意味だ。

 私は、ようやく小さく頷いた。

「……うん」
 言葉にした瞬間、涙が喉の奥までせり上がる。
 私は必死に飲み込んだ。

 透が、ドアのロックを解除した。

「行ける?」
「行ける」
 私は答えて、ドアに手をかける。
 外の冷気が頬に触れる。

 透は最後に、低い声で言った。

「叶乃。俺は、家の中には入らない」
「どうして」
「余計な噂を作らせない」
 淡々とした言葉。
 彼は私を守るために、“踏み込まない”を選ぶ。

 私は息を吸った。
 涙の匂いを、冷たい空気で押し戻す。

「……ありがとう」
 私が言うと、透は小さく頷いた。

「礼はいらない」
 それから、少しだけ口元を緩める。

「——ただ、無理な日は無理って言え」
 私は笑おうとして、やめた。
 笑う必要は、もうない気がした。

 私は門をくぐり、白石家の玄関へ向かう。
 背後で車のエンジン音が遠ざかる。
 けれど、その音は私の中に残った。

 “味方がいる”という音。
 “私は悪役だけじゃない”という音。

 玄関の扉を閉めた瞬間、家の静けさが戻る。
 でも私は、さっきまでと違う呼吸をしていた。

 息が、少しだけ深い。

 ——そして、私は気づいてしまった。
 今日のサロンで浴びた言葉よりも、
 透の「帰ろう」の方が、ずっと私の心を動かしたことに。
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