世の中にたえて私のなかりせば
公園に着くと、一面に美しい景色が広がっていた。つい視線が上を向く。その景色を成しているのは、薄桃色の小さな花たちだ。
 
「おーい、花見てないでそっち押さえて」
 
桜を見ながらぼーっとしていた私に、藤野が声を掛けてくる。私は慌てて彼を手伝った。
 
大学時代に仲の良かったメンバーで花見をしよう、という話になったのは、つい先週のことだった。急がなきゃ桜が散ってしまうからと、慌てて花見の場を設定したのである。問題は誰が場所取りをするかだ。いい場所で桜を楽しむためには、朝早くから場所を確保しておかなくてはならない。そんな責任重大で大変な仕事を率先して買って出る者はおらず、あみだくじの結果私と藤野に決まった。正直に言って、ラッキーだと思った。藤野とは普段からよく遊んでおり、気心の知れた仲だからだ。それに私は藤野に片思いをしている。本人は全く気づいていないけれど。場所取り係自体は面倒だが、彼とならほんのり嬉しい。
 
「世の中にたえて桜のなかりせば、って感じだな」

周りに人が増え始めたのを見て、藤野が言った。場所取りなんて、朝早く目的地に向かって、ブルーシートを敷いてしまえばほぼ任務終了だ。今は二人揃ってゴロゴロしている。
 
「何それ?」
「え、和歌だよ。高校のときに習っただろ」
 
キョトンとした私に、彼がそう言い放つ。そんなことを言われても全然覚えていない。高校時代、古典は苦手科目第1位だったのだ。
 
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
 
わざわざ下の句も教えてくれるが、やっぱり分からなかった。言われてみれば聞き覚えがある気もするけれど。せいぜいそんなレベルだ。
 
「どういう意味?」
「もし世の中にまったく桜がなかったら、春の人々の心はのどかだったのに。たしかそんな感じだったはず」

確かに桜がなかったら、こんなふうに肌寒い朝方から場所取りなんてしなくて済むし、来週には散っちゃうからなんて急遽予定を決める必要もない。妙に納得してしまった。この桜の美しさには、いつの時代の人間も心を奪われてしまうのだろう。のんびりとそんなことを考えていると、ふっと目の前が陰った。藤野が手を伸ばしたからだとすぐに分かる。その手は私の前髪を優しく撫でて、ゆっくりと離れていった。
 
「花びらついてた」
 
言ってくれれば自分で取れるのに。優しい表情で、優しい手つきで、こういうことをしてくるから、私は片思いをやめられない。でも、告白したところで結果は見えていた。ただの友達じゃいられないのに、恋人になることもできないのだ。
 
もし私が和歌を詠むなら。そんなことを考えてみる。
 
世の中にたえて藤野のなかりせば我の心はのどけからまし
 
うん、悪くない。悪くないけど、あまりにも直球すぎるだろうか。当の本人は、私がそんなことを思案していることも知らずに欠伸をしている。
 
世の中に恋の心のなかりせば私の日々はのどけからまし
 
さっきより大胆に出てみた。恋心がなかったら、私はこの男にこうやって惑わされることはないだろう。
 
だけど本当は、藤野のことも、恋心も、なくなってほしいなんて思ったことはなかった。だってなかったら寂しいし、虚しい。元の和歌を詠んだ人も同じ気持ちだったのではないか。桜がなければのどかだと言いながら、美しい桜を望んでいる。私は古典はからきしだが、そんな思いを詠んでいるような気がした。
 
気がつけば、藤野は隣で眠ってしまっていた。朝早かったので無理もない。私だって眠い。私は藤野の方を向いて、彼の前髪をこっそり撫でた。それから、声にならないくらいの大きさでつぶやく。
 
「世の中にたえて私のなかりせば」
 
そしたら、藤野の心はどうだろうか。彼の隣で、私も目を閉じる。春ののどかな陽気が、ゆっくり顔を出し始めていた。
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