浦和探偵 ジン 外伝 プロヴェナンス ――美術保険調査ファイル――
第一話
光下の欺瞞
展示番号七番のファイル、冒頭の所感欄にはこう記されていた。
「浦和の静けさは、単なる無音ではない。それは、幾代にもわたって蓄積された知識と、それを守り抜いてきた者たちの選民意識が作り出す、重たい膜のようなものだ。県庁所在地の矜持と、文教都市としての潔癖さ。この街の画廊を訪れるコレクターたちは、真作であること以上に『この街にふさわしい品格』を求めていた。」
橘かなは、展示番号七番の書類を閉じた。浦和駅から徒歩七分。駅前の喧騒を抜け、古い住宅と小さな事務所が混じる裏通りへ入ると、白壁の画廊が現れる。昼のこのあたりは驚くほど静かだ。県庁へ向かう車がゆっくりと通り過ぎ、買い物帰りの自転車が舗道を滑る。遠くで信号の電子音が規則正しく鳴っていた。展示室の空気は乾いていた。喉の奥がわずかに張る。湿度が低い部屋特有の、皮膚の内側まで乾かされるような感覚だ。
橘は壁裏のデータロガーへ目をやった。湿度四十五パーセント、温度二十一度。数値は安定している。記録表は前日分まで連続し、欠測もない。入口脇のラックには、作品ごとのコンディションレポートが並んでいる。支持体の状態、絵具層の浮き、クラックの進行度、修復歴。紙の角はすべて揃い、差し替えた形跡はない。
「委託販売契約書は、こちらで間違いございません」
画廊の担当者が書類を差し出した。橘は受け取り、順に目を通す。展示期間、販売手数料三十パーセント、動産総合保険、壁掛け展示特約。付保額は評価額の九十パーセント、免責十万円。問題はない。来歴――一次所有者は欧州の個人コレクター、二次はニューヨークのディーラー、三次で国内に流入。以後三十年間、国内の個人コレクター間で秘蔵。直近六年前、国内私設鑑定団体による再鑑定を経て現所蔵者が取得。海外オークション会社の落札証明書写し、ロット番号とハンマープライスは一致している。
「輸送は、どちらが担当されましたか」
「都内のファインアート専門業者です。温湿度管理車両。開梱時の立会記録、パッキング写真もございます」
橘はうなずいた。書類は揃っている。数字も整っている。展示計画書を開く。壁面番号、照明角度三十五度、照度二百ルクス以下。申請通りだ。ページをめくる指が、展示番号七番で止まった。
「……六年前」
橘の指先が、再鑑定の年月を記したインクの上で微かに震えた。六年前、橘は一度だけ判断を誤った。作品じゃない。来歴だった。書類は完璧だった。古いオークション記録。個人コレクターの証明。鑑定書。完璧すぎた。橘が見抜けなかった唯一の偽物。そして、その鑑定書に記されていたのは、今、目の前にある書類と同じ団体の署名だった。
「橘さん。またあなたにお会いするとは」
背後から、低く、しかしよく通る声がした。
振り向くと、画廊の副代表が立っていた。五十代半ば。体に吸い付くように仕立てられた背広。非の打ち所のない佇まいだが、その目は笑っていない。
「六年前の件、弊社としても残念に思っております。……今回は、より慎重な『数字』を期待していますよ」
それは、暗に「余計な詮索はせず、数字だけを合わせて承認しろ」という牽制だった。
橘は、静かに書類を閉じた。
「……業務に私情は含みません。書類と物質の整合性を確認するだけです」
それ以来、彼女の報告書は社内で必ずもう一度読み直されるようになった。橘は展示番号七番へ目を戻した。油彩、二十号、キャンバス。評価額が相場より三割ほど高い。
「評価額の根拠は、何でしょうか」
「海外提携の私設鑑定団体です。Certificate of Authenticityも添付しております」
担当者の声に迷いはない。団体名は聞いたことがある。業界では、ときどき名前が出る。署名はデジタル登録済み、登録番号も有効期間内だ。橘は頷いた。だが視線は作品から離れない。来歴の移転間隔が、やや短い。価格の上昇曲線が、妙に整っている。視線が額縁の裏側へ移る。二十号の油彩なら重量は三・五から四キロほど。額装の厚みから見ても規定範囲のはずだ。橘は額の下を軽く持ち上げ、すぐに元へ戻した。その瞬間、表情がわずかに変わる。一九五〇年代前半の作品なら、木枠にも時間の痕跡が残る。乾燥と湿気を繰り返した木材は微妙に歪み、繊維が立つ。しかしこの木枠は均質だった。修復の可能性はある。支持体の交換は珍しくない。それでも――橘は額縁をもう一度見た。
「……規定値内です」
担当者が書類へ視線を落としたまま言う。橘は小さくうなずいた。
そのとき、展示室の片隅で、老いた女性が七番の作品をじっと見ていた。橘が声をかけると、女性は静かに言った。
「昔、うちに飾ってあったんです。主人がいたころは」
女性はそれだけ言って、静かに展示室を出た。橘はしばらく、七番を見た。
展示室の奥から女が現れる。ジャガーのキーを指先で回している。
「終わったか」
桜井ジンだった。
「はい。書類上は適正です」
「上はな」
「コンディション確認の範囲では、問題は見当たりませんでした」
橘はそう言った。言葉は正確だった。背後で男が壁にもたれていた。
「終わったん?」
弦太だった。
「はい、一通り確認は済みました」
「重さ、触ったん?」
橘は作品を持ち上げ、数秒、そして静かに戻す。眉がわずかに動いた。
「誤差の範囲です」
弦太が照明の角度を変えると、斜光が画面を走る。マチエールは厚く、油絵具の盛り上がりもある。乾燥収縮の割れも見える。だが、その表情が整いすぎていた。
「光の下なら通る感じなん」
弦太が言った。自然光では判断が難しい。蛍光灯では影が柔らかすぎる。赤外線反射や蛍光X線となれば、専門機関の設備が必要だ。
「誤差ってことなんさ」
弦太が口角を上げる。
「夜、来るん?」
「閉館後の作業は、管理者の立会いが必要になります」
「固いんさ」
彼は笑わない。ジンが窓の外を見る。
「お前の仕事だ」
橘はうなずく。
「はい」
昼の展示室は静かだ。白い壁、均整の取れた照明、整った契約書。温湿度は安定し、保険は有効、鑑定書も整っている。すべて、正しい。橘はファイルを抱え直した。入口のガラス越しに通りが見える。歩道の縁に黒いセダンが停まっていた。ジャガー。古い型だが塗装は丹念に磨かれている。人の流れの中で、その一台だけが動かない。冷え始めたエンジンが、金属を小さく鳴らした。その日、浦和は穏やかだった。光の届くあいだは。
展示番号七番のファイル、冒頭の所感欄にはこう記されていた。
「浦和の静けさは、単なる無音ではない。それは、幾代にもわたって蓄積された知識と、それを守り抜いてきた者たちの選民意識が作り出す、重たい膜のようなものだ。県庁所在地の矜持と、文教都市としての潔癖さ。この街の画廊を訪れるコレクターたちは、真作であること以上に『この街にふさわしい品格』を求めていた。」
橘かなは、展示番号七番の書類を閉じた。浦和駅から徒歩七分。駅前の喧騒を抜け、古い住宅と小さな事務所が混じる裏通りへ入ると、白壁の画廊が現れる。昼のこのあたりは驚くほど静かだ。県庁へ向かう車がゆっくりと通り過ぎ、買い物帰りの自転車が舗道を滑る。遠くで信号の電子音が規則正しく鳴っていた。展示室の空気は乾いていた。喉の奥がわずかに張る。湿度が低い部屋特有の、皮膚の内側まで乾かされるような感覚だ。
橘は壁裏のデータロガーへ目をやった。湿度四十五パーセント、温度二十一度。数値は安定している。記録表は前日分まで連続し、欠測もない。入口脇のラックには、作品ごとのコンディションレポートが並んでいる。支持体の状態、絵具層の浮き、クラックの進行度、修復歴。紙の角はすべて揃い、差し替えた形跡はない。
「委託販売契約書は、こちらで間違いございません」
画廊の担当者が書類を差し出した。橘は受け取り、順に目を通す。展示期間、販売手数料三十パーセント、動産総合保険、壁掛け展示特約。付保額は評価額の九十パーセント、免責十万円。問題はない。来歴――一次所有者は欧州の個人コレクター、二次はニューヨークのディーラー、三次で国内に流入。以後三十年間、国内の個人コレクター間で秘蔵。直近六年前、国内私設鑑定団体による再鑑定を経て現所蔵者が取得。海外オークション会社の落札証明書写し、ロット番号とハンマープライスは一致している。
「輸送は、どちらが担当されましたか」
「都内のファインアート専門業者です。温湿度管理車両。開梱時の立会記録、パッキング写真もございます」
橘はうなずいた。書類は揃っている。数字も整っている。展示計画書を開く。壁面番号、照明角度三十五度、照度二百ルクス以下。申請通りだ。ページをめくる指が、展示番号七番で止まった。
「……六年前」
橘の指先が、再鑑定の年月を記したインクの上で微かに震えた。六年前、橘は一度だけ判断を誤った。作品じゃない。来歴だった。書類は完璧だった。古いオークション記録。個人コレクターの証明。鑑定書。完璧すぎた。橘が見抜けなかった唯一の偽物。そして、その鑑定書に記されていたのは、今、目の前にある書類と同じ団体の署名だった。
「橘さん。またあなたにお会いするとは」
背後から、低く、しかしよく通る声がした。
振り向くと、画廊の副代表が立っていた。五十代半ば。体に吸い付くように仕立てられた背広。非の打ち所のない佇まいだが、その目は笑っていない。
「六年前の件、弊社としても残念に思っております。……今回は、より慎重な『数字』を期待していますよ」
それは、暗に「余計な詮索はせず、数字だけを合わせて承認しろ」という牽制だった。
橘は、静かに書類を閉じた。
「……業務に私情は含みません。書類と物質の整合性を確認するだけです」
それ以来、彼女の報告書は社内で必ずもう一度読み直されるようになった。橘は展示番号七番へ目を戻した。油彩、二十号、キャンバス。評価額が相場より三割ほど高い。
「評価額の根拠は、何でしょうか」
「海外提携の私設鑑定団体です。Certificate of Authenticityも添付しております」
担当者の声に迷いはない。団体名は聞いたことがある。業界では、ときどき名前が出る。署名はデジタル登録済み、登録番号も有効期間内だ。橘は頷いた。だが視線は作品から離れない。来歴の移転間隔が、やや短い。価格の上昇曲線が、妙に整っている。視線が額縁の裏側へ移る。二十号の油彩なら重量は三・五から四キロほど。額装の厚みから見ても規定範囲のはずだ。橘は額の下を軽く持ち上げ、すぐに元へ戻した。その瞬間、表情がわずかに変わる。一九五〇年代前半の作品なら、木枠にも時間の痕跡が残る。乾燥と湿気を繰り返した木材は微妙に歪み、繊維が立つ。しかしこの木枠は均質だった。修復の可能性はある。支持体の交換は珍しくない。それでも――橘は額縁をもう一度見た。
「……規定値内です」
担当者が書類へ視線を落としたまま言う。橘は小さくうなずいた。
そのとき、展示室の片隅で、老いた女性が七番の作品をじっと見ていた。橘が声をかけると、女性は静かに言った。
「昔、うちに飾ってあったんです。主人がいたころは」
女性はそれだけ言って、静かに展示室を出た。橘はしばらく、七番を見た。
展示室の奥から女が現れる。ジャガーのキーを指先で回している。
「終わったか」
桜井ジンだった。
「はい。書類上は適正です」
「上はな」
「コンディション確認の範囲では、問題は見当たりませんでした」
橘はそう言った。言葉は正確だった。背後で男が壁にもたれていた。
「終わったん?」
弦太だった。
「はい、一通り確認は済みました」
「重さ、触ったん?」
橘は作品を持ち上げ、数秒、そして静かに戻す。眉がわずかに動いた。
「誤差の範囲です」
弦太が照明の角度を変えると、斜光が画面を走る。マチエールは厚く、油絵具の盛り上がりもある。乾燥収縮の割れも見える。だが、その表情が整いすぎていた。
「光の下なら通る感じなん」
弦太が言った。自然光では判断が難しい。蛍光灯では影が柔らかすぎる。赤外線反射や蛍光X線となれば、専門機関の設備が必要だ。
「誤差ってことなんさ」
弦太が口角を上げる。
「夜、来るん?」
「閉館後の作業は、管理者の立会いが必要になります」
「固いんさ」
彼は笑わない。ジンが窓の外を見る。
「お前の仕事だ」
橘はうなずく。
「はい」
昼の展示室は静かだ。白い壁、均整の取れた照明、整った契約書。温湿度は安定し、保険は有効、鑑定書も整っている。すべて、正しい。橘はファイルを抱え直した。入口のガラス越しに通りが見える。歩道の縁に黒いセダンが停まっていた。ジャガー。古い型だが塗装は丹念に磨かれている。人の流れの中で、その一台だけが動かない。冷え始めたエンジンが、金属を小さく鳴らした。その日、浦和は穏やかだった。光の届くあいだは。
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