君はまだ、本当の自分を知らない

暴かれた真実

 家に戻ってから、どれくらい時間が経ったのか、わからない。時計は見ていたはずなのに、数字が頭に入ってこなかった。

 秒針は動いていた。確かに動いていたのに、時間だけが、僕の周囲を素通りしていくみたいだった。

 テーブルの上に置いたファイル。

 『T-03』

 それは、いずれ起爆する爆弾のように静かだった。触れなければ、ただの紙の束。けれど、開けば、何かが壊れる。

 ページを開く。さっき研究所で見た続きを、改めて、読む。

 被験体 T-03
 事故発生日時:〇年〇月〇日
 状態:死亡確認

 ──は?

 思わず、声が出た。

 喉の奥が、乾いた音を立てる。視界が、一瞬だけ遠くなる。

 そのまま、ゆっくりとページをめくる。

 交通事故。
 脳組織の広範囲損傷。

 淡々と、感情の一切ない文章で、「僕の死」が書かれていた。

「……なに、これ」

 笑いそうになった。いや、実際、口角は上がっていたと思う。

 現実感がなさすぎて、可笑(おか)しかった。

「冗談にしては、悪質すぎるだろ」

 誰に言うでもなく、呟く。声が、妙に軽い。

 事故?死亡?馬鹿馬鹿しい。

 だって、僕は今、ここにいる。心臓も動いてる。息もしてる。こうして、ページをめくっている。床の感触も、指先の紙のざらつきも、全部、確かだ。

「適当なことが、書いてあるだけだ」

 そう結論付けた。研究所。ファイル。番号。全部、誰かの悪趣味な研究か、もしくは占い師が書いた予言書。

 そう考えれば、説明はつく。つく、はずだった。

 次のページ。

 オリジナル被験体の記憶保持率:90%
 クローン個体への移植完了
 適合率:安定

 指が止まった。

「……クローン?」

 声に出した瞬間、現実感が、一気に薄れる。

 SFだ。映画だ。小説の設定だ。現実じゃない。現実であるはずがない。

 頭のどこかが、必死に拒否している。

「……はは」

 乾いた笑いが漏れた。

 もし本当にクローンなら?僕は、僕じゃない?

 鏡に映る自分の顔を思い出す。毎朝見ていた顔。髭を剃るとき、寝癖を直すとき、緋依と並んで歯を磨くとき。

 あれは、本物じゃない?

 そのとき、玄関の鍵が回る。

 ──ガチャ。

 心臓が、跳ねた。

 反射的にファイルを閉じる。でも、隠す、という選択肢は浮かばなかった。隠したところで、何も変わらない気がした。

 扉が開く。

「ただいま」

 いつもの声。いつもの、緋依。

 その何気ない一言が、やけに遠く感じた。

「……おかえり」

 僕の声が少しだけ掠れていた。

 彼女は靴を脱ぎ、リビングに入ってくる。そして、テーブルの上のファイルを見た瞬間、彼女は完全に、動きを止めた。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 空気が、ぴん、と張り詰める。冷蔵庫の微かな駆動音だけが、やけに大きい。

「……それ」

 声が低かった。僕はファイルを指で叩いた。わざと軽く。

「これ、冗談だよね」

 自分でも、驚くくらい軽い口調だった。

「事故で死んだとか、クローンとか、適当なことばっかり書いてあるけど。これって、なに?」

 緋依は、僕の顔を見てから、ファイルに視線を落とした。

 ほんの一瞬、瞳が揺れる。それだけで、答えは出ているも同然だった。

「……どこで、それ手に入れたの?」

 責める声じゃなかった。怒ってもいなかった。

 ただ、回収しなければならないものを見つけた人の声だった。

「調べてた」

 そう言うと、彼女の肩が、わずかに揺れた。

「……後、付けてたの?」

「ごめん」

 本当に、そう思った。

 信じきれなかったこと。疑ったこと。尾行したこと。全部。

「でも、違和感があって」

 兄の話。
 母の命日。
 偏頭痛のこと。
 知らないはずの好み。

 今までの些細な違和感が、波のように押し寄せてくる。

 彼女が一瞬だけ言葉を濁した日。
 僕が「覚えてない」と言ったとき、少しだけ悲しそうに笑った夜。

「全部、偶然だと思おうとした。でも無理だった」

 緋依は、目を伏せた。

 その睫毛(まつげ)が、震えている。

「それ……見ちゃ、いけなかった」

 それは、叱る言葉じゃなかった。

 懇願だった。

「これ、なんなの?」

 ファイルを持ち上げる。重さが、変に現実みたいで、嫌だった。

「僕、事故で死んだって書いてある。だけど、ここにいる。意味がわからない」

 声が、少しずつ荒くなる。

「なあ、緋依。僕は、生きてるよな?」

 その問いに、彼女はすぐには答えなかった。

 数秒の沈黙。それは、逃げる時間じゃない。考える時間だった。

 やがて、静かに、息を吸う。

「……拓真」

 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が、嫌な音を立てた。

 その呼び方が、いつもより、少しだけ丁寧だった。

「全部、話すね」

 それは、覚悟を決めた人の声だった。

「でも、その前に……」

 一歩、近づいてくる。

 距離が、縮まる。

 彼女の目が、真っ直ぐこちらを見ていた。その奥にあるのは、罪悪感でも、恐怖でもなく──

 失うことへの、覚悟。

「お願い。途中で、信じられなくなってもいい。否定してもいい。それでも、最後まで聞いて」

 声が、わずかに震えている。

 僕は、何も言えなかった。ただ、(うなず)いた。

 その瞬間、彼女の瞳が、ほんの少しだけ潤む。

 そして──

「あなた、拓真は、一度、事故で亡くなってるの」

 その一言で、世界が、音を立てて崩れ始めた。崩れているのに、奇妙なほど、静かだった。

 まるで、ずっと前からヒビが入っていたガラスが、ようやく割れただけみたいに
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