君はまだ、本当の自分を知らない
届かない叫び
研究所へ向かうその日、私は一人だった。
医師から渡された紙には、駅名と、簡単な地図だけが書かれていた。
見慣れない駅名だった。
電車の路線図を何度も確認して、それでも本当に合っているのか不安で、三回は乗り換え案内を見直した。
車内の窓に映る自分の顔は、やけに青白く見えた。
(まだ、間に合う)
何度も思った。
今なら引き返せる。「やっぱりやめます」と言えばいい。
でも、そのたびに、病室の白い天井が浮かんだ。拓真の、穏やかな目。
──俺を、置いて行かないでくれ。
その声が、頭から離れない。
電車は、ゆっくりと速度を落とした。聞き慣れない駅名が、無機質なアナウンスで流れる。扉が開いた瞬間、空気が変わった。
人が、少ない。昼間なのに、妙に静かだった。
降りたのは、私を含めて三人だけ。
改札は、無人に近かった。駅員はいるのかいないのか分からない、小さな窓口だけ。
外へ出る。静かすぎる。コンビニも、カフェもない。
住宅街でもない。オフィス街というほどの賑わいもない。
ただ、広い道路と、似たような色の建物が、等間隔に並んでいる。
音がない。風の音だけが、耳に触れる。
(……本当に、ここ?)
地図を見直す。
矢印の先にあるのは、低くて横に長い、窓の少ない建物。
看板らしいものはない。ただ、入り口の横に、小さなプレートがあるだけ。
病院とは、まったく違う。人を救う場所には、見えなかった。
足が、止まる。もし今、この建物に入れば。
私は、「彼の今」を終わらせる人間になる。
それでも。覚悟を決めて、歩いた。
扉の前に立つと、自動でロックが解除される音がした。
中へ入る。白い。壁も、床も、天井も。音を吸い取るような静けさ。
受付らしきカウンターの奥から、無言で女性が現れた。
「緋依様ですね」
名前を呼ばれる。それだけで、逃げ場がなくなる。案内される廊下は、どこまでも白かった。
窓がない。時間の感覚が、消える。
連れて行かれた部屋の奥は、病院よりも静かだった。音がないのに、圧迫感だけがある。
案内された部屋には、一人の男が座っていた。白衣ではない。年齢の分からない、感情の読めない顔。
目だけが、冷静だった。
「緋依さんですね」
淡々とした声だった。
「クローン生成は、こちらの条件をすべて受け入れていただくことで可能になります」
私は、黙って頷いた。
もう、引き返せない。
「第一に」
男は、机の上の資料を指で叩いた。
「生成後、あなたには定期的にこの研究所へ来ていただきます。クローンである彼の精神状態、生活の様子、感情の変化について、詳細に報告してもらいます」
私は、口を開いた。
「……それは、一生ですか」
「彼が稼働している限りは」
"稼働"。
その言葉に、胸がざらついた。
人間じゃない。装置の一部みたいな言い方。
心臓が、ひとつ沈んだ。
「第二に」
男は、少しだけ声を低くした。
「クローン本人に、自分がクローンであると"絶対"に気付かせてはいけません」
私は、強く唇を噛んだ。
「認識した瞬間から、脳が記憶の波に襲われ、記憶の欠損が始まります。最終的には、完全停止です」
完全停止。それはつまり、二度目の死。
「あなたが彼に真実を告げることは、彼を"殺す"行為と同義です」
私は、まっすぐに男を見た。
「……守ります」
声が震えていた。
「絶対に、守ります」
男は、何も言わなかった。ただ、小さく頷いただけだった。
契約書に、サインをする。ペンを持つ手が、震えていた。
その一筆で、私は、嘘を抱えて生きる未来を選んだ。
───
別室で拓真は横たわっていた。
意識はすでに薄い。
ガラス越しに見える、その巨大な装置は、まるで棺みたいだった。
白いフレームに、絡みつくケーブル。生命維持装置よりも、無機質で、冷たい。
拓真の体が、ゆっくりと中へ運ばれていく。私は、ガラスの前に立った。
(ごめんね)
声に出せなかった。
(こんな形でしか、そばにいられなくて)
拓真の顔は、穏やかだった。まるで、眠っているみたいに。
それが、余計に残酷だった。
装置の扉が、閉まる。低い音がして、完全に密閉された。その瞬間、胸の奥が、引き裂かれた気がした。
(……お別れだね)
誰にも聞こえない声で、心の中だけで言った。
(ありがとう。大好きだった。ちゃんと、私の心の中で生き続けるよ)
私は、ガラスに手を当てた。
冷たかった。向こう側には、もう触れられない。
(また、会おう)
それが、願いなのか、呪いなのか、分からなかった。
機械のランプが、一斉に灯る。
低い振動が、床を伝う。
光の中で、私の知っている拓真は、確かに終わった。
そして同時に、
私の「順調だった恋愛」も、そこで終わった。
医師から渡された紙には、駅名と、簡単な地図だけが書かれていた。
見慣れない駅名だった。
電車の路線図を何度も確認して、それでも本当に合っているのか不安で、三回は乗り換え案内を見直した。
車内の窓に映る自分の顔は、やけに青白く見えた。
(まだ、間に合う)
何度も思った。
今なら引き返せる。「やっぱりやめます」と言えばいい。
でも、そのたびに、病室の白い天井が浮かんだ。拓真の、穏やかな目。
──俺を、置いて行かないでくれ。
その声が、頭から離れない。
電車は、ゆっくりと速度を落とした。聞き慣れない駅名が、無機質なアナウンスで流れる。扉が開いた瞬間、空気が変わった。
人が、少ない。昼間なのに、妙に静かだった。
降りたのは、私を含めて三人だけ。
改札は、無人に近かった。駅員はいるのかいないのか分からない、小さな窓口だけ。
外へ出る。静かすぎる。コンビニも、カフェもない。
住宅街でもない。オフィス街というほどの賑わいもない。
ただ、広い道路と、似たような色の建物が、等間隔に並んでいる。
音がない。風の音だけが、耳に触れる。
(……本当に、ここ?)
地図を見直す。
矢印の先にあるのは、低くて横に長い、窓の少ない建物。
看板らしいものはない。ただ、入り口の横に、小さなプレートがあるだけ。
病院とは、まったく違う。人を救う場所には、見えなかった。
足が、止まる。もし今、この建物に入れば。
私は、「彼の今」を終わらせる人間になる。
それでも。覚悟を決めて、歩いた。
扉の前に立つと、自動でロックが解除される音がした。
中へ入る。白い。壁も、床も、天井も。音を吸い取るような静けさ。
受付らしきカウンターの奥から、無言で女性が現れた。
「緋依様ですね」
名前を呼ばれる。それだけで、逃げ場がなくなる。案内される廊下は、どこまでも白かった。
窓がない。時間の感覚が、消える。
連れて行かれた部屋の奥は、病院よりも静かだった。音がないのに、圧迫感だけがある。
案内された部屋には、一人の男が座っていた。白衣ではない。年齢の分からない、感情の読めない顔。
目だけが、冷静だった。
「緋依さんですね」
淡々とした声だった。
「クローン生成は、こちらの条件をすべて受け入れていただくことで可能になります」
私は、黙って頷いた。
もう、引き返せない。
「第一に」
男は、机の上の資料を指で叩いた。
「生成後、あなたには定期的にこの研究所へ来ていただきます。クローンである彼の精神状態、生活の様子、感情の変化について、詳細に報告してもらいます」
私は、口を開いた。
「……それは、一生ですか」
「彼が稼働している限りは」
"稼働"。
その言葉に、胸がざらついた。
人間じゃない。装置の一部みたいな言い方。
心臓が、ひとつ沈んだ。
「第二に」
男は、少しだけ声を低くした。
「クローン本人に、自分がクローンであると"絶対"に気付かせてはいけません」
私は、強く唇を噛んだ。
「認識した瞬間から、脳が記憶の波に襲われ、記憶の欠損が始まります。最終的には、完全停止です」
完全停止。それはつまり、二度目の死。
「あなたが彼に真実を告げることは、彼を"殺す"行為と同義です」
私は、まっすぐに男を見た。
「……守ります」
声が震えていた。
「絶対に、守ります」
男は、何も言わなかった。ただ、小さく頷いただけだった。
契約書に、サインをする。ペンを持つ手が、震えていた。
その一筆で、私は、嘘を抱えて生きる未来を選んだ。
───
別室で拓真は横たわっていた。
意識はすでに薄い。
ガラス越しに見える、その巨大な装置は、まるで棺みたいだった。
白いフレームに、絡みつくケーブル。生命維持装置よりも、無機質で、冷たい。
拓真の体が、ゆっくりと中へ運ばれていく。私は、ガラスの前に立った。
(ごめんね)
声に出せなかった。
(こんな形でしか、そばにいられなくて)
拓真の顔は、穏やかだった。まるで、眠っているみたいに。
それが、余計に残酷だった。
装置の扉が、閉まる。低い音がして、完全に密閉された。その瞬間、胸の奥が、引き裂かれた気がした。
(……お別れだね)
誰にも聞こえない声で、心の中だけで言った。
(ありがとう。大好きだった。ちゃんと、私の心の中で生き続けるよ)
私は、ガラスに手を当てた。
冷たかった。向こう側には、もう触れられない。
(また、会おう)
それが、願いなのか、呪いなのか、分からなかった。
機械のランプが、一斉に灯る。
低い振動が、床を伝う。
光の中で、私の知っている拓真は、確かに終わった。
そして同時に、
私の「順調だった恋愛」も、そこで終わった。