扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
◇◇◇

 凛子はカトレアと共に、倒れた兵士の間を縫う。
 ただの秘書官である自分がこのような場所に居る危険性は重々承知している。
 一歩でも離れれば、雪ごと斬り落とされそうな緊張。
 だが視線の先、白い影が阻んでいた。

 ディエルがこちらを見た。
 氷晶より冷たい光。

「やあ、リィン、奇遇だねこんな所で。君、ってやっぱり稀少だね」

 凛子の背筋を、鋭い悪意が駆け上がった。

「ディルさん……」

「いいね、その呼び方。ちゃんと覚えていて偉い偉い」

 囁く声は、毒を含んだ甘さ。
 カトレアが一歩踏み込み、剣を構える。

「大司祭様! 何故このような!」

「何故?」

 ディエルは静かに首を傾げる。

「ああ、そういえば僕は仲裁しに来たんだっけ。帝国とロマーヌとアゼリアス。面倒だな権謀術数は僕の範疇外なんだけど」

 その瞬間、砦の奥で鈍い閂の音が響いた。
 後方門が開く。雪原が、怒号のような地響きと共に揺れる。

「シェイルは砦を奪還するつもり。僕はシェイルを孤立させるつもり。ということは、ある意味、利害が一致したかな?」

 小首を傾げたのち、ディエルの姿は凛子とカトレアの前から姿を消した。

「前へ! 砦の中へ突入する!」

 シェイルの声が兵を動かし、雪を削り、闇を切り裂く。

「ディエル、退け!」

 二人の剣先が交差する距離。
 かつて肩を並べた兄弟が、互いの喉元を狙う位置へ。

「奪われる痛みを、もう一度思い出せるかな」

 雪上の剣戟が、凍りついた夜明けを燃やし始めた。
 二人の兄と弟は破滅へと。
 夜はまだ、明けない。

 砦を震わせる咆哮の影で、ディエルは雪に指を滑らせた。
 彼が描く紋様は、かつて黒き賢者ラストゥーリャが刻んだ扉の理を、残酷に書き換えたもの。

「結界は定義できている。ならば、定義し直せばいいだけの話」

 そして、白い雪の下から、黒い線がゆらりと静かに浮かび上がった。
 夜より暗い、裂け目の前兆。

 シェイルが叫んだ。

「リィン、動くな!」

 しかし、凛子の足は縫い付けられたように動かない。
 視界が歪む。音が遠のく。

「……なにこれ」

 凛子の脳裏に、夢と現の境界のような記憶が揺れた。
 
 閉ざされた扉、
 誰も知らぬ、
 誰にも知られぬ、
 彼と、彼女が、
 界を越えた迷子、
 
 今、ディエルが展開した術式が、凛子の細い道を奪う。
 瞳に宿ったのは、愛にも似た独占欲。
 もしくは、幼子の我儘。

「シェイルが踏み込めない場所に、君を閉じ込める」

「ディエル……ッ!」

 シェイルが雪を裂いて迫る。
 その瞬間、黒い紋様が凛子の足元で弾けた。
 虚無の亀裂が、ぱちりと口を開く。

「リィン!!」

 シェイルの怒号。
 伸ばされた手。
 その先で、世界が崩れ落ちる。

「やめろッ――!!!!」

 剣が振り下ろされ、地を割り、術式が一部破壊される。
 不完全なまま、扉が動き出した。

 凛子は吸い込まれかけ、空間が引き千切られ、シェイルの手がようやく彼女の腕を掴んだ。

「絶対……離すか」

 烈火を飲んだ声。
 弟に向けた殺意が、完全に芽吹いた瞬間でもあった。

 それでも、術式は歪んだ力で凛子を引き込む。

「壊れろ」

 ディエルの囁きが、祈りとして風に溶けた。

「君は僕の――救済に成りえるのかな、リィン」

 世界が悲鳴を上げる。
 空と雪が割れ、砦が嘆き、兵が凍りつく。
 繋がれた腕。
 その先へ、夜明け前の闇が牙を剥いた。
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