麗華
第二部 立ち止まる場所
9、帰る理由【麗】
優しい香りだった。
夜の店では、女の香りなんて嫌というほど浴びてきた。
甘すぎる香水も、きついアルコールの混ざった吐息も、
仕事だと割り切ればどうにでもなる。
それなのに。
ふとした瞬間、
俺は無意識に探している。
花の匂いと、
それとは違う、柔らかい甘さ。
彼女(志乃)の香り。
今日も騒がしい店内。
指名してくれる姫たちを立ち回り、笑わせ、癒やし、
グラスを満たし、言葉を添え、視線で絡め取る。
身体が覚えている。
どの角度で笑えばいいか。
どの距離で触れればいいか。
軽いボディータッチも、
肩に寄せられる体温も、
何も動じない。
反応しない。
なのに――
あの人を思い出すと、喉が渇く。
触れたい、なんて、
こんな衝動、仕事では一度もなかった。
グラスを持つ指先に、わずかな震え。
誤魔化すように笑って、
俺はまたReyを演じた。
早く帰りたい。
•
何も意識していなかったあの日、
どうしても、母のお粥が食べたかった。
朝から身体が重い。
大学へ行けなくはなかっただろうけど、
行ってもすぐに帰る未来が見えた。
講義と研究室に体調不良の連絡を入れる。
自分の部屋で寝ていれば済む話なのに、
なぜかその日は、実家に帰りたかった。
迎えに来た母は、少し驚いた顔をして笑った。
「麗、珍しいわね。それだけ頑張ってきたってことよ」
家に着いて薬を飲み、
布団に沈む。
身体が熱い。
頭がぼうっとする。
母の声が遠くなる。
「志乃ちゃん、あとで来ると思うから」
そこだけ、はっきり聞こえた。
•
目が覚めると、部屋の空気が少し変わっていた。
静かな足音。
額に、ひやりとした感触。
「熱、上がってる」
志乃の声だった。
薄く目を開けると、
逆光の中に彼女の輪郭がある。
近い。
夜の店で、どれだけ肌が触れても平気だった身体が、
今は情けないほど敏感だった。
志乃の指が、もう一度額に触れる。
冷たいはずなのに、
触れた場所だけ、熱が集まる。
息が浅くなる。
花の匂いと、洗剤の匂い。
それに混じる、彼女自身の体温。
騒がしい世界とは違う、静かな匂い。
「水、飲める?」
頷こうとして、腕が動く。
水を取りに行こうとしていた彼女。
気づけば、彼女の手首を掴んでいた。
強く掴むつもりなんてなかった。
ただ――
離れないでいて欲しかった。
「……麗くん?」
立ち上がろうとした志乃が、バランスを崩す。
布団に、二人で倒れ込む。
近すぎる。
呼吸が、触れる。
視線が絡まる。
喉が鳴る音が、自分でも聞こえた。
「…そばにいて」
掠れた声。
夜の俺じゃない。
ただの、麗の声。
一瞬、時が止まる。
血の気が引いた。
俺は、何をしている。
欲しいなんて、言ったことはなかった。
掴んでいた手を、ゆっくり離す。
「……ごめん」
額を押さえる。
「熱のせいだ」
嘘だ。
でも、今はそれでいい。
志乃は何も言わなかった。
ただ、少し乱れた呼吸を整えてから、
そっと距離を取る。
「ちゃんと治してね」
その一言だけ残して、
部屋を出ていった。
扉が閉まる音。
天井を見上げながら、
俺は知った。
これは、仕事じゃない。
何なんだろう。
ただ、あの静けさに戻りたいと思ったんだ。
夜の店では、女の香りなんて嫌というほど浴びてきた。
甘すぎる香水も、きついアルコールの混ざった吐息も、
仕事だと割り切ればどうにでもなる。
それなのに。
ふとした瞬間、
俺は無意識に探している。
花の匂いと、
それとは違う、柔らかい甘さ。
彼女(志乃)の香り。
今日も騒がしい店内。
指名してくれる姫たちを立ち回り、笑わせ、癒やし、
グラスを満たし、言葉を添え、視線で絡め取る。
身体が覚えている。
どの角度で笑えばいいか。
どの距離で触れればいいか。
軽いボディータッチも、
肩に寄せられる体温も、
何も動じない。
反応しない。
なのに――
あの人を思い出すと、喉が渇く。
触れたい、なんて、
こんな衝動、仕事では一度もなかった。
グラスを持つ指先に、わずかな震え。
誤魔化すように笑って、
俺はまたReyを演じた。
早く帰りたい。
•
何も意識していなかったあの日、
どうしても、母のお粥が食べたかった。
朝から身体が重い。
大学へ行けなくはなかっただろうけど、
行ってもすぐに帰る未来が見えた。
講義と研究室に体調不良の連絡を入れる。
自分の部屋で寝ていれば済む話なのに、
なぜかその日は、実家に帰りたかった。
迎えに来た母は、少し驚いた顔をして笑った。
「麗、珍しいわね。それだけ頑張ってきたってことよ」
家に着いて薬を飲み、
布団に沈む。
身体が熱い。
頭がぼうっとする。
母の声が遠くなる。
「志乃ちゃん、あとで来ると思うから」
そこだけ、はっきり聞こえた。
•
目が覚めると、部屋の空気が少し変わっていた。
静かな足音。
額に、ひやりとした感触。
「熱、上がってる」
志乃の声だった。
薄く目を開けると、
逆光の中に彼女の輪郭がある。
近い。
夜の店で、どれだけ肌が触れても平気だった身体が、
今は情けないほど敏感だった。
志乃の指が、もう一度額に触れる。
冷たいはずなのに、
触れた場所だけ、熱が集まる。
息が浅くなる。
花の匂いと、洗剤の匂い。
それに混じる、彼女自身の体温。
騒がしい世界とは違う、静かな匂い。
「水、飲める?」
頷こうとして、腕が動く。
水を取りに行こうとしていた彼女。
気づけば、彼女の手首を掴んでいた。
強く掴むつもりなんてなかった。
ただ――
離れないでいて欲しかった。
「……麗くん?」
立ち上がろうとした志乃が、バランスを崩す。
布団に、二人で倒れ込む。
近すぎる。
呼吸が、触れる。
視線が絡まる。
喉が鳴る音が、自分でも聞こえた。
「…そばにいて」
掠れた声。
夜の俺じゃない。
ただの、麗の声。
一瞬、時が止まる。
血の気が引いた。
俺は、何をしている。
欲しいなんて、言ったことはなかった。
掴んでいた手を、ゆっくり離す。
「……ごめん」
額を押さえる。
「熱のせいだ」
嘘だ。
でも、今はそれでいい。
志乃は何も言わなかった。
ただ、少し乱れた呼吸を整えてから、
そっと距離を取る。
「ちゃんと治してね」
その一言だけ残して、
部屋を出ていった。
扉が閉まる音。
天井を見上げながら、
俺は知った。
これは、仕事じゃない。
何なんだろう。
ただ、あの静けさに戻りたいと思ったんだ。