名前を呼ぶまで、春は来ない

第18話 会場で

 写真展二日目、日曜日。
 朝、目が覚めると、少しだけ気持ちが軽くなっていた。昨日、母と話したこと。朝倉くんと会ったこと。全てが、私の心を少しずつ前に押してくれている気がした。
 今日も、会場へ行こう。
 自分の写真を、もう一度見たい。
 そして、どんな人が見に来てくれるのか、知りたい。



 午前十一時頃、ギャラリーに着いた。
 今日は昨日より人が多かった。日曜日だからか、家族連れやカップル、年配の方々が会場に足を運んでいた。
 受付で名前を告げて、会場に入る。
 自分の写真の前に立つと、一人の男性が写真を見ていた。
「すみません」
 声をかけると、男性が振り向いた。
「あ、これ、あなたが撮ったんですか?」
「はい」



「いい写真ですね。特に、この街灯の写真」
 男性は、夕暮れの空と街灯の写真を指差した。
「明と暗の境界線が、すごく綺麗に表現されてる」
「ありがとうございます」
「写真、長くやってるんですか?」
「いえ、始めたばかりです」
 男性は、少し驚いたような顔をした。
「そうなんですか。才能ありますよ」



 才能。
 その言葉に、少しだけ自信が持てた。
 男性は名刺を差し出してきた。
「僕、写真教室の講師をしてるんです。もしよかったら、一度見学に来ませんか?」
「……考えてみます」
「無理にとは言いませんが。あなたの写真、もっと見てみたいので」
 男性は、そう言って去っていった。



 写真教室。
 人と一緒に写真を学ぶ場所。
 それは、今の私にはまだハードルが高い。
 でも、いつか——。
 そんな日が来るかもしれない。



 昼過ぎ、会場のベンチに座って休んでいると、入り口から誰かが入ってきた。
 その人影を見た瞬間、心臓が止まった。
 美咲だった。
 中学時代の親友。
 転校していった、あの美咲が——。
 ここにいた。



 美咲は、会場を見回していた。
 そして、私の写真の前で立ち止まった。
 私は、立ち上がることも、声をかけることもできなかった。
 ただ、遠くから美咲を見つめていた。
 美咲は、私の写真を一枚一枚見ていた。
 その表情は、真剣だった。



 どうしよう。
 声をかけるべきか。
 それとも、このまま何も言わずにいるべきか。
 心臓が、激しく鳴っていた。
 手が、震えていた。



 美咲が、こちらを向いた。
 目が合った。
 美咲の目が、大きく開いた。
「……澪?」
 美咲の声が、会場に響いた。
 私は、立ち上がった。
 足が震えていた。



「美咲——」
 その名前を、呼ぶことができた。
 三年ぶりに、美咲の名前を。
 美咲が、こちらへ歩いてきた。
「澪、本当に澪なの?」
「……うん」
 美咲は、私の前で立ち止まった。
 三年間で、少し大人っぽくなっていた。
 でも、笑顔は昔のままだった。



「久しぶり」
 美咲が、笑顔で言った。
「……久しぶり」
 私も、小さく答えた。
「この写真、澪が撮ったの?」
「うん」
「すごい。澪、写真やってたんだ」
「高校に入ってから、始めて」



 美咲は、また私の写真を見た。
「すごく、澪らしい」
「……澪らしい?」
「うん。静かで、でも何か訴えかけてくる感じ」
 美咲は、私を見た。
「澪、元気だった?」



 元気だった?
 その質問に、何と答えればいいのか。
「……まあまあ」
「そっか」
 美咲は、少し寂しそうに笑った。
「私も、まあまあかな」



 沈黙が流れた。
 言いたいことが、たくさんあった。
 でも、何から話せばいいのかわからなかった。
「美咲」
 私は、勇気を出して口を開いた。
「ちょっと、外で話さない?」
「……うん」



 ギャラリーの外、公園のベンチに座った。
 二人とも、しばらく何も話さなかった。
 風が吹いて、木々の葉が揺れる音だけが聞こえた。
「美咲」
 私は、覚悟を決めて言った。
「ごめん」



 美咲が、私を見た。
「何が?」
「あの時、何もできなくて」
 声が震えた。
「美咲が一人でいた時、私、声をかけられなかった」
「澪──」
「怖かったの。自分も孤立するのが怖くて」
 涙が、溢れてきた。
「ずっと後悔してた。ずっと、美咲に謝りたかった」



 美咲は、何も言わなかった。
 ただ、私を見つめていた。
「本当に、ごめん」
 私は、頭を下げた。
 涙が、地面に落ちた。



 しばらくして、美咲が口を開いた。
「澪、顔上げて」
 顔を上げると、美咲が泣いていた。
「私こそ、ごめん」
「え?」
「澪に、あんな手紙渡して」



 手紙。
 『澪、助けて』と書かれた、あの手紙。
「あれ、澪を困らせたかったわけじゃないの」
 美咲は、涙を拭いた。
「ただ、誰かに気持ちを伝えたかっただけ。でも、澪を追い詰めちゃったよね」
「そんなことない——」
「ううん、追い詰めた」



 美咲は、私の手を取った。
「澪がどれだけ怖かったか、今ならわかる」
「美咲——」
「私も、転校先で似たようなことがあったの」
 美咲は、遠くを見つめた。
「友達が孤立してた。でも、私も最初は声をかけられなかった」



「怖かったの。また同じことになるんじゃないかって」
 美咲の声が、震えた。
「でも、ある日、勇気を出して声をかけた」
「それで?」
「その子と、今も友達」
 美咲は、笑った。
「声をかけてよかったって、思った」



「でもね」
 美咲は、私を見た。
「その時、澪のこと思い出したの」
「……私を?」
「うん。澪も、きっと怖かったんだろうなって」
 美咲は、私の手を握った。
「だから、澪を責めたことなんて、一度もないよ」



 その言葉に、涙が溢れた。
 美咲は、私を責めていなかった。
 ずっと、私だけが自分を責めていた。
「美咲——」
「澪、もう自分を責めないで」
 美咲の声は、優しかった。
「あの時は、お互い子供だったんだよ。仕方なかったの」



 仕方なかった。
 その言葉を、美咲から聞けるなんて。
「ありがとう、美咲」
 私は、美咲を抱きしめた。
「ありがとう」
 美咲も、私を抱きしめ返してくれた。
「こちらこそ。会えてよかった」



 しばらく、二人で抱き合っていた。
 三年間の空白が、少しずつ埋まっていく気がした。
「ねえ、澪」
 美咲が、顔を上げた。
「これから、連絡取り合おうよ」
「……いいの?」
「当たり前じゃん。澪、親友なんだから」



 親友。
 その言葉が、嬉しかった。
 私は、まだ美咲の親友でいられる。
「うん。連絡する」
「LINE、交換しよ」
 美咲は、スマホを取り出した。
 私たちは、QRコードを交換した。



「澪の写真、すごくよかったよ」
 美咲が言った。
「特に、傘の写真」
「……ありがとう」
「あれ、澪の気持ちが写ってるよね」
 美咲は、私を見た。
「孤独だけど、まだ諦めてない感じ」



 諦めてない。
 朝倉くんも、同じことを言っていた。
 私は、諦めていないのか。
 まだ、よくわからない。
 でも、少なくとも──。
 今日、美咲に会えた。
 謝ることができた。
 そして、許してもらえた。
 それは、大きな一歩だった。



「美咲、今日はありがとう」
「こちらこそ。また会おうね」
「うん」
 美咲は、手を振って去っていった。
 私は、その背中を見送った。
 胸の中に、温かいものが広がっていた。



 会場に戻ると、朝倉くんがいた。
「桜井さん、いたんだ」
「朝倉くん、また来てくれたの?」
「うん。今日も見たくて」
 彼は、少し照れくさそうに笑った。



「桜井さん、何かあった?」
「……え?」
「顔が、昨日と違う」
 朝倉くんは、私を見つめた。
「なんか、スッキリしてる」



 スッキリしてる。
 確かに、そうかもしれない。
 美咲に会えて、謝れて、許してもらえて。
 長年の重荷が、少しだけ軽くなった気がする。
「……美咲に、会ったの」
「美咲って——」
「中学の時の、親友」



 朝倉くんの目が、大きく開いた。
「本当?」
「うん。偶然、ここに来てて」
「それで?」
「謝った。そしたら、許してくれた」
 私は、笑った。
「美咲、私のこと責めてなかったって」



 朝倉くんは、嬉しそうに笑った。
「よかった」
「うん」
「桜井さん、少し楽になった?」
「……少しだけ」
 正直に答えた。
「完全には、まだ。でも、前より軽くなった」



 朝倉くんは、私の肩に手を置いた。
「桜井さん、頑張ったね」
「ありがとう」
「これから、どうする?」
「……どうするって?」
「写真部、戻ってくる?」



 写真部。
 辞めてから、もう一ヶ月近く経つ。
 三島先輩たちは、どうしているだろう。
「……まだわかんない」
「そっか」
 朝倉くんは、少し寂しそうに笑った。
「でも、待ってるから」



 その日の夕方、家に帰ると、母が待っていた。
「おかえり。今日はどうだった?」
「……美咲に会った」
 母の目が、大きく開いた。
「美咲ちゃんに?」
「うん。偶然、写真展に来てて」



 母は、私の手を取った。
「それで?」
「謝った。そしたら、許してくれた」
 涙が、また溢れてきた。
「美咲、私のこと責めてなかったって」
 母は、私を抱きしめた。
「よかったわね、澪」
「うん」



 その夜、ベッドに横になりながら、今日を振り返った。
 美咲との再会。
 三年間の後悔が、少しだけ軽くなった。
 完全には消えない。
 でも、前を向ける気がする。



 スマホに、美咲からメッセージが来た。
 『今日は会えてよかった。澪の写真、本当に素敵だったよ。また会おうね』
 私は、返信した。
 『こちらこそ。ありがとう、美咲』



 そして、朝倉くんにもメッセージを送った。
 『今日も来てくれてありがとう。嬉しかった』
 すぐに返事が来た。
 『明日、最終日だね。また行っていい?』
 私は、笑いながら返信した。
 『もちろん。待ってる』



 待ってる。
 その言葉を、自分から言えた。
 朝倉くんを、待っている。
 それが、嬉しかった。



 窓の外を見ると、星が出ていた。
 梅雨の晴れ間。
 久しぶりに見る、夜空。
 カメラを手に取って、窓を開ける。
 夜空にカメラを向けた。
 星と、街の灯りの境界線。
 シャッターを切った。



 液晶画面を見る。
 暗い空に、小さく光る星。
 その下に、街の明かり。
 光と闇の境界線。
 でも、今日の写真は──。
 少しだけ、明るく見えた気がした。



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