クワイ河の残根
 タイ西部、カンチャナブリ県。かつて「死の鉄道」と呼ばれた泰緬鉄道(たいめんてつどう)の建設地、クワイ川のほとりに建つ神道神社を訪れた。目的は、八十年前の過酷な労働の中で散った英霊たちの慰霊祭に参列するためだ。

 夕暮れの境内には、南国の湿った風が線香の香りを運んでいた。

 夜になり、地元の有志によるささやかな前夜祭が始まると、宴の賑わいとは裏腹に、私は酔い醒ましに神社脇を流れるクワイ河の岸辺へ降り、一本の煙草に火を灯した。

 その時だ。背後からシャツの裾を、子供が甘えるような強さでぐいと引かれた。驚いて振り返るが、月光に照らされた草むらがあるだけで、不思議なことに人影はない。

 境内で参拝客と話をしていた社主にそのことを打ち明けると、彼は穏やかに微笑んだ。

「ああ、ここの英霊たちは寂しがり屋でね。特に参拝者の煙草には目がありません。一本、火を点けて供えてやってください」

 私は約束通り岸辺に戻り、火を点けた一本の煙草を平らな石の上に置いた。

 不思議なことが起きた。風ひとつない無風状態にもかかわらず、煙草の火が「ふーっ」と深く吸い込んでいるような一定のリズムで、赤く、激しく明滅を始めたのだ。
 
 その時、月明かりの中に赤十字の腕章をつけた一人の衛生兵の姿がぼんやりと浮かび上がった。

 彼は泥にまみれた作業服を着ていたが、その表情は驚くほど穏やかで、満足げに目を細めて私を見つめていた。衛生兵は私の肩にそっと手を置くと、小さな声で「ありがとう……」と言って、深々と一礼した。

 だが――

 彼は二度と顔を上げることなく、紫煙とともに消えていった。

「ああ、供養ができたのだ」と私は涙を流した。

 翌朝の慰霊祭。私は隣り合わせた地元の老紳士に、昨夜の出来事を興奮気味に話した。

「衛生兵の方が、本当に嬉しそうに私の煙草を吸ってくれたんです」

 老紳士は私の話を聞くうちに、血の気が引いたようにみるみる顔が青ざめ、震える手で私の腕を掴んだ。

「……君、それは本当か。その衛生兵は、君に煙草を求めたのか?」

「ええ、社主さんもそう仰ってました。英霊が欲しがっているから、一本供えてやれと……」

 老紳士は絶句した。

「……社主だと?」

「はい」

 老人はしばらく黙り込んだ。

 そして掠れた声で言った。

「……この神社には、社主なんていない」

 私は思わず笑った。

 老人が冗談を言っているのだと思ったのだ。

 だが、その顔には冗談めいた色など一切なかった。

 老人は怯えたように周囲を見回し、やがて私の耳元で囁いた。

「君はまだ日本に帰らないほうがいい……」

 そう言われた瞬間に、私の肩が急に重くなるのを感じた……

(完)
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