雨は嫌いですか、私は好きです
 肘でノブを押せないかと試してみる。

(……駄目)

 全く、びくともしないし音も立たない。ここで無理をすれば、体勢を崩して全部落としてしまう。
 落としたらどうなるだろう。ばさりと床一面に広がる紙。視線。小さなざわめき。自分の不器用さが廊下いっぱいに広がる。
 喉が、きゅっと縮んだ。
 ただノックができないだけなのに。たったそれだけなのに、誰かに見られている気がしてしまう。
 背後の気配に敏感になる。
 今、誰かが通ったらどうしよう。
 こんなところで立ち尽くしている理由を、聞かれたらどう答えればいいのか。

「……っ」

 腕が震え始める。早く、どうにかしないと限界だ。
 けれど、どうにもできない。
 いっそのこと大声でも上げてやろうかと思ったその時、

 ———ガラガラガラ。

「羽馬せーん」
「あ? なんだ、成瀬か。ちゃんと先生と言いなさい先生と」

 背後から声が落ちたかと思うと、振り返る間もなく横から伸びた手が扉を開けた。
 聞き覚えのある呑気な声。その声を聞いた瞬間、恐怖に凍っていた心が解けていく。
 
「小森? ああ、問題集を届けてくれたのか」
「え、あ、えっと……」

 開け放たれた扉の前には、数学教師の羽馬先生、通称「羽馬せん」が立っていた。
 雨音が抱えた問題集の束を見て、慌てて受け取る。
 ようやく解放された腕がビリビリと痺れていた。

「悪いな、助かったよ」
「いえ、別に」
「重かっただろう。後で取りに行こうと思っていたんだが……」

 羽馬先生が何か言っていた気がするが、俯いた雨音はそれどころではない。

(な、なんで……)

 ちらりと自分の左側に視線を向ける。制服のワイシャツと緋色のネクタイが目に入った。

(ここに、いるの?)

 教室を出てから今までの道で、一度もすれ違ってなどいなかったはず。
 雨音が扉を開けられずに右往左往し始めた時も、気配すらなかったのに。
 この時、確かに隣りに立っていた。

「おい、帰らないのか?」
「あっ!」
「そろそろ雨が降り出すらしい。今日は晴れるってテレビではやってたが、曇りだしてきてる」
「じゃ、じゃあ、私はこれで」

 まずい。晴れると聞いていたから今日は傘を持ってきていない。早く帰らないと濡れて帰ることになってしまう。

「二人とも、心配だったら貸出用の傘を使ったらいいからな。風邪引くなよ」
「はーい。じゃね、羽馬せん」
「だから、先生と言えって。全く……気をつけて帰れよ」
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