鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜
第6話 朝の光と逃げられない約束
目が覚めると、見慣れない天井が視線いっぱいに広がっていた。
微かに漂うシトラスの香りに、ここがどこなのか一瞬わからなくなる。
ダークグレーのシーツの感触が、ゆっくりと昨夜の記憶を引き戻す。
「……ぅん…………」
まだ霞がかかったぼんやりとした思考の中、ゆっくり起き上がる。
大きな窓のブラインドから、僅かに溢れ落ちる光。
ふかふかの布団は、いつものものより柔らかくて、思わずもう一度潜り込みたくなる。
「……?!」
はっとして、慌てて周囲を見渡した。
(まって……ここ……)
慌てて昨日の出来事を思い出していると、ドアの開く音が聞こえた。
「おはよ、よう寝れた?」
「……ひぅっ」
「どしたん、変な声出して」
ベッドの縁に腰掛けたのは、きっとここの主であろう鷹宮先輩。
きっちりした人が気を抜いた、完全にオフモードの格好。
黒のロングTシャツにスウェット。
眼鏡にかかる前髪が無造作で、着崩した首元から覗く鎖骨――
それだけで、反則すぎるほど色っぽい。
(だめ……この人のこんな格好、心臓に悪い……)
動揺が伝わったのか、小さく笑われてしまった。
「とりあえず顔洗ってといで」
案内された洗面所には、必要な物が一通り揃えられていた。
歯ブラシにタオル、それにメイク落としや化粧水まで。
新品とはいえ、使うのに気が引け……あれ?
(急に決まったことなのに、どうしてこんなに完璧に揃ってるんだろう……まさか、誰か他の女の人の……?)
あたしはある可能性を浮かべてしまった。
恐る恐る、リビングにいる鷹宮先輩に声をかける。
「……こんなに、用意してもらって、もし、彼女さんの物だったりしたら……」
すると先輩は、コーヒーを一口飲んでから、事もなげに言った。
「昨日の夜、コンシェルジュに用意させたんや。新品やから安心して使い」
「コンシェルジュ……?夜中ですよ?」
「それくらいさせて当たり前の管理費、払ってるからな。変な気、回さんでええから、はよおいで」
(……当たり前、なの?)
「ついでに言うと、彼女はおらんよ。今は」
鷹宮先輩はあっさりと否定し手招きする。
急いで洗面所から戻ると、キッチンの方から小さな音がした。
フライパンが熱せられる音と、コーヒーのいい香り。
「あ……」
思わず足を止める。
キッチンに立つ鷹宮先輩の背中は、昨夜よりもずっと日常の顔をしていた。
「もうすぐできるし、座っとき」
言われるままに、ダイニングの椅子に腰を下ろす。
テーブルの上には、マグカップが二つ。
ひとつはカフェオレ、もうひとつは――
昨日には無かったブラックのコーヒー。
(……これも用意してくれたんだ)
化粧水といい、コーヒーといい、昨日の今日で揃えられている。
その事実に、鷹宮先輩が自分の知っている世界の人じゃない気がして、胸の奥がざわついた。
「あの……鷹宮先輩」
呼びかけると、短い返事のあと、ダイニングテーブルにお皿とフォークが並ぶ。
「先に食べよ、冷めてまうし」
「ありがとうございます。いただきます」
お皿の上には、クロワッサンにベーコン。
そして――
形の崩れた目玉焼き。
(あれ?)
なんでも器用に出来るイメージだったのに。
「……意外です」
想像しなかった不器用な一面に、クスッと小さな笑みが溢れてしまった。
「笑うな……料理は苦手やねん」
「卵の殻が入ってへんだけマシやろ」
ちょっとバツが悪そうに視線を逸らした横顔。
まるで子どもが拗ねたみたいで、ちょっと可愛い。
完璧な上司の、あまりにも人間味のある弱点を見つけた気がして、胸の奥がくすぐったくなった。
朝食のお礼に洗い物をしていると、鷹宮先輩がスーツに着替えてきた。
出勤する準備に、のんびり過ごしてる場合じゃないのを思い出す。
すると鷹宮先輩がキッチンにやって来た。
「今日は有給使って休んどき」
「大丈夫です…出勤します」
「あと、ホテル探すとかもナシ」
「え?」
鷹宮先輩は、腕組みしながら壁に寄りかかっている。
有無も言わさない――そして通せんぼしているみたいな雰囲気だ。
あたしは言葉を選びながら、続ける。
「でもやっぱり探しますっ、手続きもあるし……ずっとお世話になるのは……」
「無理やろ」
即答だった。
「罹災証明、役所、保険。平日に全部一人で回れるなんて思てる?」
「それに慣れへん仕事抱えて、ホテルで過ごすとかキツいで」
まるで、業務確認みたいな口調。
でも、その一言一言が、確実に退路を塞いでくる。
「……でも」
反論しようと顔を上げた瞬間、低い声に遮られた。
「……葵」
低く、けれど逃げ場を塞ぐような響き。
名字でもない。
ちゃん付けでもない。
ただ、あたしの名前だけが、低く落ちてきた。
(こんな呼び方、しなかったはずなのに)
その響きだけで、呼吸が浅くなる。
鼓膜を揺らすその声は、甘い呪文のようにあたしの思考を停止させる。
「生活が落ち着くまでは、ここに住め……他、行くとこないやろ」
それは、決定事項みたいに落ちてきた。
彼の瞳の奥に宿った、仕事の時とは違う──獲物を捕らえたような、静かで熱い光。
「そんで今日は体を休めること」
そういう言い方されると、断りづらくて困る。
でも今の状況では、実家も遠方で友人にも頼りにくいから、正直有り難い。
すぐに返事をしないあたしに、止めの一撃。
「あと、さっきの目玉焼き笑った罰として、今日の晩飯を作ること」
夕食も一緒に食べるのは当たり前みたいな顔。
「買い出しもあるやろうし、鍵渡しとくな」
その一言が、やけに優しい。
差し出した手のひらに、
彼の指が、少しだけ触れてから
鍵が落とされた。
小さな重みと彼の体温が、じんわりと広がる。
それは、ただ泊まるための鍵じゃなくて。
ここにいていいと、居場所ごと渡された気がした。
湯気の向こうで、朝の光が揺れている。
この部屋で、
この人と、
朝を迎えている現実。
「……よろしく、お願いします」
絞り出すような声に、鷹宮先輩は満足げに目を細めるので、あたしは慌てて視線を逸らす。
「こちらこそ、よろしくお願いします。葵」
彼の体温が残る小さな銀色。
自由を許してくれる鍵のようで、
本当は彼という檻に閉じ込める鎖みたいだった。
(……逃げられない約束を、結ばされた気がする)
でも、不思議と怖くなかった。
むしろ、その鎖に縛られることに安らぎを感じている自分に、気づきたくなかった。
――気づいてしまったら、戻れなくなりそうで。
微かに漂うシトラスの香りに、ここがどこなのか一瞬わからなくなる。
ダークグレーのシーツの感触が、ゆっくりと昨夜の記憶を引き戻す。
「……ぅん…………」
まだ霞がかかったぼんやりとした思考の中、ゆっくり起き上がる。
大きな窓のブラインドから、僅かに溢れ落ちる光。
ふかふかの布団は、いつものものより柔らかくて、思わずもう一度潜り込みたくなる。
「……?!」
はっとして、慌てて周囲を見渡した。
(まって……ここ……)
慌てて昨日の出来事を思い出していると、ドアの開く音が聞こえた。
「おはよ、よう寝れた?」
「……ひぅっ」
「どしたん、変な声出して」
ベッドの縁に腰掛けたのは、きっとここの主であろう鷹宮先輩。
きっちりした人が気を抜いた、完全にオフモードの格好。
黒のロングTシャツにスウェット。
眼鏡にかかる前髪が無造作で、着崩した首元から覗く鎖骨――
それだけで、反則すぎるほど色っぽい。
(だめ……この人のこんな格好、心臓に悪い……)
動揺が伝わったのか、小さく笑われてしまった。
「とりあえず顔洗ってといで」
案内された洗面所には、必要な物が一通り揃えられていた。
歯ブラシにタオル、それにメイク落としや化粧水まで。
新品とはいえ、使うのに気が引け……あれ?
(急に決まったことなのに、どうしてこんなに完璧に揃ってるんだろう……まさか、誰か他の女の人の……?)
あたしはある可能性を浮かべてしまった。
恐る恐る、リビングにいる鷹宮先輩に声をかける。
「……こんなに、用意してもらって、もし、彼女さんの物だったりしたら……」
すると先輩は、コーヒーを一口飲んでから、事もなげに言った。
「昨日の夜、コンシェルジュに用意させたんや。新品やから安心して使い」
「コンシェルジュ……?夜中ですよ?」
「それくらいさせて当たり前の管理費、払ってるからな。変な気、回さんでええから、はよおいで」
(……当たり前、なの?)
「ついでに言うと、彼女はおらんよ。今は」
鷹宮先輩はあっさりと否定し手招きする。
急いで洗面所から戻ると、キッチンの方から小さな音がした。
フライパンが熱せられる音と、コーヒーのいい香り。
「あ……」
思わず足を止める。
キッチンに立つ鷹宮先輩の背中は、昨夜よりもずっと日常の顔をしていた。
「もうすぐできるし、座っとき」
言われるままに、ダイニングの椅子に腰を下ろす。
テーブルの上には、マグカップが二つ。
ひとつはカフェオレ、もうひとつは――
昨日には無かったブラックのコーヒー。
(……これも用意してくれたんだ)
化粧水といい、コーヒーといい、昨日の今日で揃えられている。
その事実に、鷹宮先輩が自分の知っている世界の人じゃない気がして、胸の奥がざわついた。
「あの……鷹宮先輩」
呼びかけると、短い返事のあと、ダイニングテーブルにお皿とフォークが並ぶ。
「先に食べよ、冷めてまうし」
「ありがとうございます。いただきます」
お皿の上には、クロワッサンにベーコン。
そして――
形の崩れた目玉焼き。
(あれ?)
なんでも器用に出来るイメージだったのに。
「……意外です」
想像しなかった不器用な一面に、クスッと小さな笑みが溢れてしまった。
「笑うな……料理は苦手やねん」
「卵の殻が入ってへんだけマシやろ」
ちょっとバツが悪そうに視線を逸らした横顔。
まるで子どもが拗ねたみたいで、ちょっと可愛い。
完璧な上司の、あまりにも人間味のある弱点を見つけた気がして、胸の奥がくすぐったくなった。
朝食のお礼に洗い物をしていると、鷹宮先輩がスーツに着替えてきた。
出勤する準備に、のんびり過ごしてる場合じゃないのを思い出す。
すると鷹宮先輩がキッチンにやって来た。
「今日は有給使って休んどき」
「大丈夫です…出勤します」
「あと、ホテル探すとかもナシ」
「え?」
鷹宮先輩は、腕組みしながら壁に寄りかかっている。
有無も言わさない――そして通せんぼしているみたいな雰囲気だ。
あたしは言葉を選びながら、続ける。
「でもやっぱり探しますっ、手続きもあるし……ずっとお世話になるのは……」
「無理やろ」
即答だった。
「罹災証明、役所、保険。平日に全部一人で回れるなんて思てる?」
「それに慣れへん仕事抱えて、ホテルで過ごすとかキツいで」
まるで、業務確認みたいな口調。
でも、その一言一言が、確実に退路を塞いでくる。
「……でも」
反論しようと顔を上げた瞬間、低い声に遮られた。
「……葵」
低く、けれど逃げ場を塞ぐような響き。
名字でもない。
ちゃん付けでもない。
ただ、あたしの名前だけが、低く落ちてきた。
(こんな呼び方、しなかったはずなのに)
その響きだけで、呼吸が浅くなる。
鼓膜を揺らすその声は、甘い呪文のようにあたしの思考を停止させる。
「生活が落ち着くまでは、ここに住め……他、行くとこないやろ」
それは、決定事項みたいに落ちてきた。
彼の瞳の奥に宿った、仕事の時とは違う──獲物を捕らえたような、静かで熱い光。
「そんで今日は体を休めること」
そういう言い方されると、断りづらくて困る。
でも今の状況では、実家も遠方で友人にも頼りにくいから、正直有り難い。
すぐに返事をしないあたしに、止めの一撃。
「あと、さっきの目玉焼き笑った罰として、今日の晩飯を作ること」
夕食も一緒に食べるのは当たり前みたいな顔。
「買い出しもあるやろうし、鍵渡しとくな」
その一言が、やけに優しい。
差し出した手のひらに、
彼の指が、少しだけ触れてから
鍵が落とされた。
小さな重みと彼の体温が、じんわりと広がる。
それは、ただ泊まるための鍵じゃなくて。
ここにいていいと、居場所ごと渡された気がした。
湯気の向こうで、朝の光が揺れている。
この部屋で、
この人と、
朝を迎えている現実。
「……よろしく、お願いします」
絞り出すような声に、鷹宮先輩は満足げに目を細めるので、あたしは慌てて視線を逸らす。
「こちらこそ、よろしくお願いします。葵」
彼の体温が残る小さな銀色。
自由を許してくれる鍵のようで、
本当は彼という檻に閉じ込める鎖みたいだった。
(……逃げられない約束を、結ばされた気がする)
でも、不思議と怖くなかった。
むしろ、その鎖に縛られることに安らぎを感じている自分に、気づきたくなかった。
――気づいてしまったら、戻れなくなりそうで。