『パタヤ日本人殺人事件〜消えた線路の幽霊〜』タイ・トラベルミステリー・シリーズ

第八話 英霊たちの黄金(最終話)



1.黄金の正体と虚飾の最期

 タイ警察の取調室――

 防音壁に囲まれた狭い空間で、酒井浩二はもはやエリート駐在員としての輝きを完全に失っていた。

 無精髭が伸び、充血した目で虚空を睨むその姿は、かつてタイの闇を支配しようとした男の成れの果てとしては、あまりに惨めだった。

「……信じられるか。私がどれだけの私財を組織に注ぎ込んだか!?」  

 酒井は、乾いた笑い声を漏らした。

「私は、このアジアの裏社会を牛耳り、一本の線で繋ぐ『黄金の道』を構築するはずだった……。あの金塊さえ手に入れば、すべての利権を得ることができたのだ!」

 坂本は、机越しに酒井を静かに見据えた。

「酒井さん、あんたは大きな勘違いをしている。あんたの祖父、酒井一蔵中尉が隠したかったのは、黄金の場所じゃない。自分の醜い『罪』そのものだったんだ」

 坂本が突きつけた事実は、酒井にとって死刑宣告よりも残酷なものだった。  

 酒井一蔵中尉が戦時中に横領した軍資金は、終戦直後の混乱期、すでに「工作資金」としてすべて使い果たされていたのだ。

 戦犯追及を逃れるために連合国軍の幹部や国内の官僚を抱き込み、戦後の起業資金として洗浄され、酒井家の富と繁栄へと形を変えていた。

 つまり、酒井が必死に求めていた「黄金」は、自らの欲を満たすために、すでに食い潰された後の「残骸」に過ぎなかったのだ。  

 酒井は絶句した。

「……私は……私は、ただの抜け殻のために、山西を、あの娘を……」  

 酒井は頭を抱え、獣のような哭き声を上げた。

 その声は、どこまでも虚しく、暗い監獄の壁に吸い込まれていった。


2.境界線を越えて

 バンコク、スワンナプーム国際空港の出発ロビー。  

 多国籍な旅行者たちの喧騒と免税店の華やかな照明は、数日前までの出来事がまるで遠い前世のことであるかのように錯覚させる。

 坂本はロビーの隅にある小さなコーヒーショップで、熱い抹茶ラテを啜りながら搭乗の時を待っていた。

 アジア最大の歓楽街パタヤでの失踪事件、藤堂伍長との出会い、そして泰緬鉄道の悪名高き史跡「地獄の切り通し(ヘルファイアー・パス)」で浴びた英霊たちの怒号と硝煙。

 それらすべてが、ロビーを流れる雑踏の音に掻き消されていく。

 坂本は、膝の上に置いたアルミケースの鍵をゆっくりと開けた。  

 無機質な金属の中に収められているのは、八十年の歳月を経てようやく陽の目を見た、重すぎる魂の記録だ。

 泥にまみれて掻き集めた数百枚の認識票。

 藤堂伍長が命と引き換えに守り抜き、酒井が「黄金の地図」と信じ込んでいた戦没者名簿と認識票。

 そして、殺された山西徹がその手に握りしめていた一対の肩章。

「坂本警部、搭乗の時間です」  

 隣に座る小林の声に、坂本は意識を現実へと引き戻した。

 小林の顔には、あの凄絶な奇跡を目の当たりにした者にしか分からない、深い安堵と達成感が滲んでいた。

「ああ……。帰ったら日本で改めて休暇をとって、温泉にでも浸かってくるよ」  

 坂本が少し崩した笑みを見せ、小林の肩を軽く叩いて立ち上がった。

「坂本警部、この度はお疲れさまでした! お元気で!」

 小林は直立不動の姿勢をとり、さっと右手をこめかみに当てて敬礼をした。

「小林さん、礼を言うよ。本当にありがとう」  

 坂本もまた居住まいを正して返礼し、二人は固い握手を交わした。

 小林は坂本が搭乗口の向こうへ消えるまで、ずっと手を振って見送っていた。

 酒井浩二の逮捕劇は、表向きには「大手商社員による遺物密輸および、それに伴う殺人事件」として処理された。

 酒井が武装組織「クロコダイル」へ投じていた資金流用は、リサたちの捜査によって白日の下にさらされ、タイ政財界を揺るがす一大スキャンダルへと発展しつつある。

 だが、あの夜に起きた、重力を無視して岩盤を支えた泥まみれの腕のことや、霧の中に現れたC56蒸気機関車の汽笛については、坂本とリサの報告書には一行も記されていない。  

 それは、公的な書類に書き残すようなことではない。

 あの場所にいた者たちだけが胸に刻んでおくべき、八十年の時を紡いだ本当の意味での「終止符」だったからだ。


3.誇りを取り戻す刻

 成田空港に降り立った坂本警部は、その足で山形県内にある藤堂一馬伍長の生家へと飛んだ。

 つい昨日まで身を置いていたタイの、肌にまとわりつくような熱気とジャングルの湿気が、今は遠い夢のようだ。  

 春先とはいえ、東北の地にはまだ分厚い残雪が至る所に横たわっている。

 山形空港に降り立ち感じた冷気は、酷暑で火照りきっていた坂本の身体に、鋭い痛みにも似た清冽さで染み渡っていった。

 日本の春先の冷たさが、ようやく自分を「地獄の切り通し」から現実へと連れ戻してくれたような気がした。

 奥羽山脈の麓、雪解け水が流れる音だけが響く静かな村。

 そこに、古びているが一本の芯が通ったような佇まいの日本家屋があった。

「……どちらさまでしょうか」  

 呼び鈴を押すと、現れたのは六十代後半と思われる、背筋の伸びた男性だった。

 その眼光の鋭さは、坂本が藤堂伍長と初めて出会った時の面影を強く残していた。

「突然の訪問、失礼いたします。警視庁の坂本と申します。……藤堂一馬伍長のご家族とお見受けし、お伺いしました」

 坂本は仏間に通されると、持参した袱紗(ふくさ)をゆっくりと広げた。

 中から現れたのは、タイの地底で八十年の眠りから覚めた、一対の階級章と認識票だった。

「これは……祖父の?」  

 孫である男性の声が震える。

「はい。タイの泰緬鉄道の史跡、ヘルファイア・パスで見つかりました。藤堂伍長は八十年前、ある重要な書類を命懸けで守り抜き、この認識票と共にその誇りを託されたのです」

 坂本は、伍長の英霊が自分を助けてくれたこと、そして彼が守った「戦没者名簿」と「認識票」が、今まさに多くの遺族を救おうとしていることを伝えた。

「祖父は、逃げずに戦っていたのですね……。軍から届いた通知には『戦病死』としか書かれておらず、私たちは祖父がどのような最期を遂げたのか、ずっと知らずにおりました」  

 男性の目から、一筋の涙が溢れ、畳に落ちた。

「祖母は死ぬまで、タイの方角に向かって手を合わせていました。『あの人は、きっと何かを成し遂げて帰ってくる』と信じて……。これでようやく、祖父を家族の元に迎えることができます。坂本さん、本当に、ありがとうございました」

 坂本が家を去る際、男性は門の前で、かつての伍長がそうしたように、静かに、そして深く頭を下げた。山形の澄んだ空気が、坂本の胸に心地よく染み渡った。


4.潮騒の鎮婚歌(レクイエム)

 山形からの帰り道、坂本は日本海を望む高台に立ち、海を見つめた。  

 冬の午後の太陽が、穏やかな海面に反射して銀色に輝いている。

 坂本は、伍長の認識票の感触を掌に思い出しながら、静かに目を閉じた。  

 肌を刺すような潮風が強く吹き抜け、坂本の頬を掠める。

 その風には、あのタイの湿った土の匂いや硝煙の香りはもうなかった。

 代わりに、故郷の冷たくも清らかな香りが混じり合っている。

 ふと背後に気配を感じて振り返ると、そこには整った軍装に身を包んだ男たちが立っていた。

 先頭には、穏やかな笑みを浮かべた藤堂伍長がいる。

『……坂本、貴様には感謝する。これでようやく、我らも家族の元へ帰れる。工兵小隊、敬礼!』

 その声は、耳で聞いたというより、坂本の魂に直接響くような澄んだ音だった。  

 坂本は背筋を伸ばし、かつての戦友を送り出すように、海に向かって深く敬礼をした。

 目を開けたとき、そこにはただ、穏やかな冬の海が広がっているだけだった。


5.エピローグ

 ―数ヶ月後のタイ。  

 ヘルファイア・パスでは、リサの父による強力な働きかけにより、タイ政府と日本政府共同による本格的な遺骨収集と遺品整理が始まっていた。

 現場からは、坂本が見つけた空洞以外からも多くの遺留品が発見され、その一つひとつが名前を取り戻し、家族の元へと帰り始めていた。

 リサから坂本の元に、一枚の写真が届いた。  

 そこには、再整備された切り通しの入り口で、現地の子供たちと微笑む彼女の姿があった。

 裏面には、彼女らしい簡潔なメッセージが添えられている。

『坂本警部。酒井の夢見た、汚職と不正の「黄金の道」は消え去ったわ。けれどここには今、新しい道ができている。死者たちが守った名簿は、遺族たちを繋ぐ「再会の道」になったの。……またいつか、シンハービールを奢らせて。今度は平和なバンコクの夜にね……』

 坂本は、デスクの引き出しにその写真を大切に収めた。  

 窓の外では、新しい事件の発生を知らせるパトカーのサイレンが鳴り響いている。  

 坂本は重い腰を上げ、愛用のジャケットを羽織った。

「よし、行くか……」

 署の廊下を歩く坂本の背中を、ふと温かい感覚が包んだ。  

 それは、あの崩落のさなか、自分を必死に外へと押し出してくれた、泥まみれの力強い掌の感触。

『……行け、坂本。貴様は、生きて職務を全うしろ!』

 そんな幻聴を微笑みで受け流し、坂本は眩い光の差す警察署の出口へと歩み出した。

 真の黄金とは、地底に埋もれた金塊のことではない。  
 それは、時代が変わっても決して色褪せることのない、人の想いと、誰かのために誇りを守り抜いた魂の輝きなのだ。
 
 春先の澄み渡った空の下、坂本の足取りはどこまでも力強かった……。

(完)
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