洛陽夜曲

壁の中の世界②

「なら行こか」


男は、今まさに車中へと身を沈めようとする背中に向かって、絞り出すような声を投げた。


「おやめください。あそこは…カシラのようなえらい方が、
行かれるようなところじゃあらしません!」


「ほう…お前このお嬢はん一人で行かすちゅうんか?」


彼の冷徹な声と、突き刺さる視線の鋭さに、男の思考は瞬時に凍りつき、
わずかな身じろぎさえも忘れたかのように硬直した。
それでも、男は震える喉の奥から、絞り出すようにその言葉を解き放った。


「じ、自分がこのお嬢さん衣笠開キ町まで連れて行きます!」


その言葉は、男にとって抗いようのない「理」であった。

若頭という「看板」に傷がつく。その代償として、己の指や命が如何に無力であるか。

男はその残酷なまでの非対称さを、誰よりも深く、噛み締めていた。


彼は男の提案を咀嚼するように、細められた瞳の奥で視線を彷徨わせた。
短くなった吸い殻を指先から放ると、

乾いた土の上に落ちた火種を靴の先で無造作に踏み砕く。
薄い煙が靴底から這い出し、空気の中に霧散した。

彼は首を回し、少し離れた場所に立つ鈴華を視界に捉えた。


「君、先に車に乗りや」


鈴華は一言も発さずに従った。

車内の薄闇へと身を滑らせるその動きは、まるで絹糸が解けるように
滑らかで、洗練された静寂そのものであった。


切なる訴えが通じたという確信が、男の胸に一筋の灯火をともした。

しかし、その温もりはあまりに儚い理想でしかなかった。

それは「誤解」という名の冷たい一吹きによって、
一瞬にしてかき消された儚い幻想だった。


「お前ここまででええわ。後は俺が彼女を連れて行くさかい」


「…へっ?」


言葉を交わす余地など、はじめから存在しなかったのだ。

困惑に染まる男の顔を置き去りにし、彼は機械的な冷徹さでアクセルを踏む。

車は滑らかに地面を噛み、修復不能なほど遠ざかっていった。

男の喉からは言葉にならない慟哭が溢れ、必死にその影を追った。

しかし、彼を嘲笑うかのように車輪の音は遠のいていき、
彼の眼前に広がるのはもう誰もいない一本の道だけとなった。


「…よろしいのですか?」


「かまへん。あそこからなら組事務所は歩いて帰れる場所やさかい」


自らステアリングを握り、愛車を駆る彼の横顔には、
言いようのない充足が滲んでいた。
内ポケットから探り当てた煙草を唇に挟み、手慣れた所作で火を灯す。
オイルライターが放つ鈍色の光と、小さく弾ける金属音。立ち上る紫煙は、
彼の静かな愉悦をなぞるように、車内に淡く溶けていった。


(あいつと二人きりになんかさせられへんわ)
彼はその思考を、喉の奥にそっと閉じ込めた。
< 13 / 44 >

この作品をシェア

pagetop