洛陽夜曲

虚無

洗練されたフレンチの門を後にした二人の間には、
埋めようのない温度差が横たわっていた。
梨花は、まるで当然の権利を行使するかのように、
しどけなく京司の腕に自らのそれを絡ませた。


「まあまあの店だったわね」


彼女の言葉は、充足感に甘くふやけ、夜の空気に溶けていく。
弾むような足取り、艶然とした横顔。
そこには、選ばれた者だけが享受できる女の傲慢なまでの上機嫌があった。
しかし、隣を歩く京司の胸中に去来していたのは、
静かな、それでいて逃れがたい拒絶の情であった。

鼻腔を執拗に衝く、重苦しく甘ったるい香水の残香。
そして、衣服越しに伝わってくる梨花の湿り気を帯びた体温と、
絡みつく蔦のような腕の感触。
それらすべてが、今の彼には生理的な嫌悪を呼び起こす毒素でしかなかった。
親密さを演じるためのその接触が深まれば深まるほど、
彼の精神は逆に頑ななまでに透明な壁を築き、
彼女から遠ざかろうと身を固くしていた。

京司の脳裏に、不意に鈴華の残り香が立ち上がった。
それは人工的な香水などではなく、雨上がりの森で若葉が放つ、
新緑の芳香に似ていた。
肺の最奥まで満たしたくなるような、
生命の純粋さを形にしたようなその香りは、
彼の意識を甘やかな追憶へと引きずり込む。

 だが、色鮮やかなネオンが無慈悲に彼を呼び戻す。
思考を支配していた幻影が霧散し、視界が今の景色へと収束していく。
京司は、今なお彼女の気配を追い求めている己の執着を自嘲するように、
乾いた笑みをこぼした。


「ねえ……これから京司さんのお部屋にお邪魔してもいいかしら」


梨花の瞳は、熱を孕んだ湿り気を帯び、
逃れがたい執着を湛えて京司を射すくめていた。
その視線は、まるで彼の輪郭をなぞり、
皮膚の奥へと侵食してゆくような重苦しさを伴っている。
京司は、その粘りつくような熱視線を断ち切るべく、
無造作に煙草を指に挟んだ。

カチリ、と硬質な音を立てて灯された小さな火影が、
二人の間に漂う不穏な沈黙を束の間弾き飛ばす。
彼は深く肺に煙を吸い込み、境界線を引くように紫煙を吐き出した。
揺らめく煙の帳が、梨花の湿った眼差しを遮る薄絹となり、
彼を再び孤独な静寂の中へと引き戻していく。


「すまんが、これから事務所に戻らなあかんのや」


京司は梨花へ視線を向けることすらせず、
まるで事務書類を読み上げるような無機質な声を落とした。
その横顔に、梨花は一瞬だけ不満のさざなみを表情に立てたが、
すぐにそれを柔らかな微笑の裏へと押し隠した。


「それなら、帰り道も同じ方向ですし。
……事務所まで、ご一緒させてくださいな」


その提案に、京司はわずかに眉根を寄せ、沈黙という名の拒絶を滲ませた。
しかし、結局は何も語らぬまま、重い足取りで舗装路を蹴り始めた。
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