恋は静かに焼きあがる。〜やさしい日常と、まだ知らない夜の顔〜
1.閉店後の厨房で
温かな木漏れ日がさしこみ、静かなBGMが流れる昼下がりのカフェ。
馴染みのお客様から注文を受けた私は厨房へと足を向けた。
今日も変わらずゆったりとした時間が流れる店内は、思わず眠ってしまいそうなほど心地の良い空間だった。
――それなのに、厨房に立つ彼の表情が、いつもと違っていた。
私は一瞬、息を飲んだ。
見たことのない陰りを含んだ彼の顔。注文を伝えようとした言葉が喉で止まった。
胸の奥がざわざわする……なんだろう、この感じ。
「……黎斗さん?」
ようやく絞り出した声で彼の名前を呼ぶ。
彼は少しだけ驚いたように目を瞬かせてから、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ん? どうした?」
厨房の入口に立ったままでいる私を不思議に思った彼が、微笑みながら首を傾げてきた。私は慌てて注文内容を伝える。
「了解」と短く言って、ケーキを取り出した彼。ナイフを片手に作業する彼の様子はいつもとまったく同じで、大好きなお菓子と向き合っている楽しげな表情だ。
私の見間違いだったのかな……。
「陽菜」
名前を呼ばれて胸がドクンと跳ねた。
顔を上げると私を見る黎斗さんと目が合った。
「そんなに見つめられると穴が開くぞ」
「ええっ……!?」
いじわるな笑みを浮かべて彼がそう言った。慌てて視線をそらす私。
そんな私の様子を見て、クツクツと喉の奥で笑う彼。それを受けてさらに恥ずかしがる私の姿さえも面白いのかもしれない。
どう見てもいつもの彼じゃないか!
私はぷくり、と小さく頬を膨らませた。
彼は取り分けたケーキが乗ったお皿を持ってこちらへ歩み寄ってきた。私よりはるか上に位置する黎斗さんの顔を見上げる。
やはり少しだけいじわるを含んだ笑みを浮かべていた。
「先にこっちを見つめていたのはお前だぞ?」
「それはそうですけど……黎斗さん、目の下にクマが……」
彼がまた、先ほどと同じように目を瞬かせた。そしてすぐにその目を伏せた。
まるで、見られてしまったか、といったような反応だ。
私の頭上から小さく短いため息が聞こえた。
「……じつは新作スイーツのアイデア出しであまり寝れてない」
なるほど。通りで。
たしかにここ数日、夜中に小さな物音がしていたわけだ。
――あれ。でもあのときの黎斗さんはたしか……。
いやいや、それよりもちょっと待って。
引っ掛かる言葉が聞こえた気がする。
「寝れて、ない……?」
黎斗さんを見上げて目をぱちくりする私。はっ、として顎に手を当てて明後日を見る彼。
このスイーツ大好き男はいつもこうだ。
スイーツのためなら睡眠を削るほどのめり込んでしまう。誰かに止められないとブレーキが効かないタイプ。
「おばあちゃんに言いつけてやります」
「待て。待て待て、待て」
厨房をすっと出て行こうとする私を止めようと前に立ち塞がった彼。
おばあちゃんとは、このお店の主で、黎斗さんの祖母だ。
彼の目は、それはとても泳いでいる。
コホン、と彼が小さく咳払いをした。
「あとで試作のスイーツを味見させてやる」
これでどうだ? と言わんばかりの表情を見せる彼。どうやら交換条件ということらしい。
無類のスイーツ好きなのは私も同じだ。彼の作るスイーツは私のお腹を幸せいっぱいにする。
私が断らないのを見越して先手を打ってきた。
この人、私の扱いをよく理解している。
私に耳と尻尾があればピコピコと嬉しそうに振っていることだろう。
……新作スイーツの試作、とても楽しみだ。
おかげで閉店までの時間はあっという間だった。
テキパキと片付けをこなして厨房へ向かうと、そこにはすでに黎斗さんとおばあちゃんが居た。
並べられた数個のスイーツを前に説明している黎斗さんと、ゆっくり頷いて聞いているおばあちゃん。
「お、来たな」
私に気づいた黎斗さんが穏やかに微笑みながらこちらを向いた。
組んでいた両腕を片方だけ崩して、人差し指をクイクイと曲げて呼ぶ動作をしている。
じわっと体温が上がる。私は小走りで黎斗さんの向かい側に駆け寄った。
「うわあ……!」
並べられた試作スイーツの艷やかで美味しそうな見た目に、口からよだれが垂れてしまった。
慌てて口を手で押さえる、が時すでに遅く。
向かいに居る彼が、小さく吹き出した音が聞こえた。
「……ううっ」
「ふふっ……、そう膨れるな。思う存分味見させてやるから」
クツクツと喉で笑うのを隠せない黎斗さんが私を宥める。
お客様たちの前で見せる笑顔とはまた違った、とても砕けた表情だ。
……いつだったかおばあちゃんから聞いたことがある。
黎斗さんは、小さい頃はあまり笑わない子だったって。
お店に出てお客様と話しているときの彼は、穏やかで物静かな人当たりの良い好青年といった印象で。
いま私の前で笑みを浮かべている楽しげな彼は、私より少し歳上の気さくな年相応の青年といった感じだ。
それが今はこんなに砕けた等身大の笑顔を見せるようになった。
それがなんだか嬉しくて、彼が笑顔になると私も嬉しかった。
「じゃあ、いただきます」
いまかいまかと食べられるのを待っているケーキにフォークを刺し、一口分を口へ放り込んだ。
ふわっと口の中いっぱいに広がるクリームの甘味に、またよだれが溢れてくる。
自然と二口目、三口目、と手が動いていた。
「なるほど。ハムスターみたいだな」
「んぐっ……!」
突然の黎斗さんの一言に、咀嚼しかけのものをごくりと飲み込んだ。
驚いて前を向くと、テーブルに両肘を置いた彼がこちらをまじまじと眺めていた。
「あ、あんまり見ないでください……」
「無理だ。ハムスターが一生懸命食べてるのは見ていて楽しい」
「わっ、私はハムスターじゃないっ!」
向かいからは砕けたように笑う声が聞こえるだけ。
心臓がばくばくと、うるさく鳴っているのが分かる。
黎斗さんに強い言い方をしてしまったことに気づいて、慌てておばあちゃんのほうを見た。
「いいのよぉ。陽菜ちゃんはもう家族みたいなものだからね」
遠慮しないで、と穏やかに微笑むおばあちゃん。
突然の言葉に「か、家族……!?」と驚いて固まる私。
向かい側から大きく咳き込む音が聞こえた。彼も驚いたようだった。
私の身体が内側から熱くなっていく感じがする。
耳まで赤くなっていたらどうしよう、と焦りのあまり両手をうろうろさせてしまう。
黎斗さんのほうを見上げると、黙ったままおばあちゃんから視線をそらしているようだった。
腕を組んだ体制で片手は口元にやり、伏し目がちにしている。
なぜだろう。困っている様子なのに黎斗さんの耳はほんのり紅潮している。
「ばあちゃん……」
彼の口から細く長いため息が吐かれ、やっと黎斗さんから声が聞こえた。
おばあちゃんは相変わらず微笑んだまま。
黎斗さんはそれ以上なにも言わず無言のまま。視線も私を見ていない。
そして話の流れを変えるように、おばあちゃんと味や見た目について話し合いを始めたようだった。
おばあちゃんにあんなことを言われて、やっぱり嫌だったのかな。
わたしが咄嗟にちゃんと否定できていたら違っていたのだろうか。
……あれ。でも、黎斗さんも否定はしていなかった気がする。
あんな反応はしていたけど、否定はしてなかった。
嫌だったならきちんと否定するはず。
私も残りのケーキを黙々と食べ進めた。
最後のひとくちを食べ終えて、彼のところへお皿を持っていく。
少し時間が経ったからか、黎斗さんはいつもの穏やかな表情に戻っていた。
「美味しかったか?」
「はい。とっても美味しかったです」
やっと視線が交わった。
とくん、と私の心臓が跳ねた。
その夜、陽菜はベッドの上で昼間の出来事を思い出していた。
家族みたい、という言葉がまだ、彼女の胸の奥で熱を持っている。
じんわりと染み込んでいくような心地の良い温かさを感じながら、陽菜はベッドサイドに置かれたライトの明かりを消した。
各々の部屋から明かりが消えたのを確かめて、黎斗は静かに息を吐いた。
――夜は、まだ終わっていない。
その瞬間、陽菜は布団へもぐりこむ動きを止めた。
けれど何もなく、首を傾げただけだった。
馴染みのお客様から注文を受けた私は厨房へと足を向けた。
今日も変わらずゆったりとした時間が流れる店内は、思わず眠ってしまいそうなほど心地の良い空間だった。
――それなのに、厨房に立つ彼の表情が、いつもと違っていた。
私は一瞬、息を飲んだ。
見たことのない陰りを含んだ彼の顔。注文を伝えようとした言葉が喉で止まった。
胸の奥がざわざわする……なんだろう、この感じ。
「……黎斗さん?」
ようやく絞り出した声で彼の名前を呼ぶ。
彼は少しだけ驚いたように目を瞬かせてから、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ん? どうした?」
厨房の入口に立ったままでいる私を不思議に思った彼が、微笑みながら首を傾げてきた。私は慌てて注文内容を伝える。
「了解」と短く言って、ケーキを取り出した彼。ナイフを片手に作業する彼の様子はいつもとまったく同じで、大好きなお菓子と向き合っている楽しげな表情だ。
私の見間違いだったのかな……。
「陽菜」
名前を呼ばれて胸がドクンと跳ねた。
顔を上げると私を見る黎斗さんと目が合った。
「そんなに見つめられると穴が開くぞ」
「ええっ……!?」
いじわるな笑みを浮かべて彼がそう言った。慌てて視線をそらす私。
そんな私の様子を見て、クツクツと喉の奥で笑う彼。それを受けてさらに恥ずかしがる私の姿さえも面白いのかもしれない。
どう見てもいつもの彼じゃないか!
私はぷくり、と小さく頬を膨らませた。
彼は取り分けたケーキが乗ったお皿を持ってこちらへ歩み寄ってきた。私よりはるか上に位置する黎斗さんの顔を見上げる。
やはり少しだけいじわるを含んだ笑みを浮かべていた。
「先にこっちを見つめていたのはお前だぞ?」
「それはそうですけど……黎斗さん、目の下にクマが……」
彼がまた、先ほどと同じように目を瞬かせた。そしてすぐにその目を伏せた。
まるで、見られてしまったか、といったような反応だ。
私の頭上から小さく短いため息が聞こえた。
「……じつは新作スイーツのアイデア出しであまり寝れてない」
なるほど。通りで。
たしかにここ数日、夜中に小さな物音がしていたわけだ。
――あれ。でもあのときの黎斗さんはたしか……。
いやいや、それよりもちょっと待って。
引っ掛かる言葉が聞こえた気がする。
「寝れて、ない……?」
黎斗さんを見上げて目をぱちくりする私。はっ、として顎に手を当てて明後日を見る彼。
このスイーツ大好き男はいつもこうだ。
スイーツのためなら睡眠を削るほどのめり込んでしまう。誰かに止められないとブレーキが効かないタイプ。
「おばあちゃんに言いつけてやります」
「待て。待て待て、待て」
厨房をすっと出て行こうとする私を止めようと前に立ち塞がった彼。
おばあちゃんとは、このお店の主で、黎斗さんの祖母だ。
彼の目は、それはとても泳いでいる。
コホン、と彼が小さく咳払いをした。
「あとで試作のスイーツを味見させてやる」
これでどうだ? と言わんばかりの表情を見せる彼。どうやら交換条件ということらしい。
無類のスイーツ好きなのは私も同じだ。彼の作るスイーツは私のお腹を幸せいっぱいにする。
私が断らないのを見越して先手を打ってきた。
この人、私の扱いをよく理解している。
私に耳と尻尾があればピコピコと嬉しそうに振っていることだろう。
……新作スイーツの試作、とても楽しみだ。
おかげで閉店までの時間はあっという間だった。
テキパキと片付けをこなして厨房へ向かうと、そこにはすでに黎斗さんとおばあちゃんが居た。
並べられた数個のスイーツを前に説明している黎斗さんと、ゆっくり頷いて聞いているおばあちゃん。
「お、来たな」
私に気づいた黎斗さんが穏やかに微笑みながらこちらを向いた。
組んでいた両腕を片方だけ崩して、人差し指をクイクイと曲げて呼ぶ動作をしている。
じわっと体温が上がる。私は小走りで黎斗さんの向かい側に駆け寄った。
「うわあ……!」
並べられた試作スイーツの艷やかで美味しそうな見た目に、口からよだれが垂れてしまった。
慌てて口を手で押さえる、が時すでに遅く。
向かいに居る彼が、小さく吹き出した音が聞こえた。
「……ううっ」
「ふふっ……、そう膨れるな。思う存分味見させてやるから」
クツクツと喉で笑うのを隠せない黎斗さんが私を宥める。
お客様たちの前で見せる笑顔とはまた違った、とても砕けた表情だ。
……いつだったかおばあちゃんから聞いたことがある。
黎斗さんは、小さい頃はあまり笑わない子だったって。
お店に出てお客様と話しているときの彼は、穏やかで物静かな人当たりの良い好青年といった印象で。
いま私の前で笑みを浮かべている楽しげな彼は、私より少し歳上の気さくな年相応の青年といった感じだ。
それが今はこんなに砕けた等身大の笑顔を見せるようになった。
それがなんだか嬉しくて、彼が笑顔になると私も嬉しかった。
「じゃあ、いただきます」
いまかいまかと食べられるのを待っているケーキにフォークを刺し、一口分を口へ放り込んだ。
ふわっと口の中いっぱいに広がるクリームの甘味に、またよだれが溢れてくる。
自然と二口目、三口目、と手が動いていた。
「なるほど。ハムスターみたいだな」
「んぐっ……!」
突然の黎斗さんの一言に、咀嚼しかけのものをごくりと飲み込んだ。
驚いて前を向くと、テーブルに両肘を置いた彼がこちらをまじまじと眺めていた。
「あ、あんまり見ないでください……」
「無理だ。ハムスターが一生懸命食べてるのは見ていて楽しい」
「わっ、私はハムスターじゃないっ!」
向かいからは砕けたように笑う声が聞こえるだけ。
心臓がばくばくと、うるさく鳴っているのが分かる。
黎斗さんに強い言い方をしてしまったことに気づいて、慌てておばあちゃんのほうを見た。
「いいのよぉ。陽菜ちゃんはもう家族みたいなものだからね」
遠慮しないで、と穏やかに微笑むおばあちゃん。
突然の言葉に「か、家族……!?」と驚いて固まる私。
向かい側から大きく咳き込む音が聞こえた。彼も驚いたようだった。
私の身体が内側から熱くなっていく感じがする。
耳まで赤くなっていたらどうしよう、と焦りのあまり両手をうろうろさせてしまう。
黎斗さんのほうを見上げると、黙ったままおばあちゃんから視線をそらしているようだった。
腕を組んだ体制で片手は口元にやり、伏し目がちにしている。
なぜだろう。困っている様子なのに黎斗さんの耳はほんのり紅潮している。
「ばあちゃん……」
彼の口から細く長いため息が吐かれ、やっと黎斗さんから声が聞こえた。
おばあちゃんは相変わらず微笑んだまま。
黎斗さんはそれ以上なにも言わず無言のまま。視線も私を見ていない。
そして話の流れを変えるように、おばあちゃんと味や見た目について話し合いを始めたようだった。
おばあちゃんにあんなことを言われて、やっぱり嫌だったのかな。
わたしが咄嗟にちゃんと否定できていたら違っていたのだろうか。
……あれ。でも、黎斗さんも否定はしていなかった気がする。
あんな反応はしていたけど、否定はしてなかった。
嫌だったならきちんと否定するはず。
私も残りのケーキを黙々と食べ進めた。
最後のひとくちを食べ終えて、彼のところへお皿を持っていく。
少し時間が経ったからか、黎斗さんはいつもの穏やかな表情に戻っていた。
「美味しかったか?」
「はい。とっても美味しかったです」
やっと視線が交わった。
とくん、と私の心臓が跳ねた。
その夜、陽菜はベッドの上で昼間の出来事を思い出していた。
家族みたい、という言葉がまだ、彼女の胸の奥で熱を持っている。
じんわりと染み込んでいくような心地の良い温かさを感じながら、陽菜はベッドサイドに置かれたライトの明かりを消した。
各々の部屋から明かりが消えたのを確かめて、黎斗は静かに息を吐いた。
――夜は、まだ終わっていない。
その瞬間、陽菜は布団へもぐりこむ動きを止めた。
けれど何もなく、首を傾げただけだった。