清く正しく美しく
大切にする
消毒の匂いが鼻をついた。ゆっくり目を開けると、真っ白な天井が飛び込んでくる。
「・・・・・・気がついた?」
声のした方へ顔を向けると、ジャージ姿のままパイプ椅子に腰をかけて前屈みに琴葉を覗き込む理玖と目が合う。
琴葉は咄嗟に起き上がって、辺りを確認した。
「天童さん、倒れたんだよ。身体は平気?」
「・・・・・・はい。すみません、迷惑をかけて」
ボールが当たって倒れたこと、理玖が保健室まで運んでくれたことを琴葉は思い出した。チームのみんなにも、月島くんにも迷惑をかけてしまった。
「戻らないと」
試合ではもう使い物にならないかもしれないけれど、せめて最後まで試合を見届けなければ。そう思って足を動かすと、鋭い痛みが走った。
「いっ・・・・・・」
「ダメだよ、動かしたら。痛めてるんでしょ」
理玖に優しく制され、琴葉は止まった。よく見ると、痛めた箇所には湿布が貼られていて、包帯まで巻いてある。
「・・・・・・これ、月島くんが?」
「うん。保健の先生がいなかったから」
「何から何まですみません」
「・・・・・・そんなに俺に頼るの嫌?」
申し訳なさと居た堪れなさで琴葉が縮こまっていると、理玖の暗い声が聞こえた。思わず顔をあげると、理玖の瞳はいつもの穏やかな色じゃなくて、何かを必死に押さえ込んでいるみたいに揺れていた。
「月島くん?」
理玖が琴葉の手を優しく、でも解けないように強く握ってきた。理玖の手のひらの体温を感じた琴葉の心臓が、一度大きく飛び跳ねた。
いつもの月島くんとは少し違う。でも、手を振り払いたいとは思わなかった。
「ねえ、天童さん。さっき豆原と楽しそうに話してたね。俺には謝ってばかりなのに」
「・・・・・・え?」
理玖は、何か言おうとして言葉を探すみたいに一瞬だけ視線を彷徨わせてから、琴葉を見据えた。端正な顔が近づいてきて、琴葉は反射的に目を瞑った。肩にも力が入ったけれど、予想に反して何も起きないので目を開けると、少し顔を傾けたら唇が触れてしまいそうな距離に理玖がいる。
――キスされるのかと思った
切羽詰まったように揺れる瞳と視線がぶつかる。恥ずかしいから目を逸らしたいのに、逸らせない。
「豆原のこと、好きなの?」
理玖の瞳が切なげに揺れている。その瞳に吸い寄せられて、上手く言葉が出てこない。
「・・・・・・ごめん、そうだよね。豆原と楽しそうだったし」
「えっ?」
どう答えればいいのか思案していると、理玖が離れていってしまった。誤解されてしまったのか、傷ついた顔をしているような気がする。
「変なこと聞いてごめんね」
理玖が身体を背けて立ち上がろうとしているのが見えた。
え、待って。違う、そうじゃない。月島くんには誤解されたくない。
琴葉は、理玖の腕を両手で掴んで引き留めた。顔だけ振り返った理玖は、目を見開いている。
「ま、待ってください!」
驚いた表情の理玖と目が合い、琴葉は慌てて手を離した。自分の方へ戻そうとした手を、今度は理玖が強く握ってきた。
大きな手の温もりを感じて、琴葉の鼓動が激しくなった。月島くんに伝えなきゃいけないことがあるのに、心臓の音がうるさすぎて考えがまとまらない。
「・・・・・・天童さん」
「・・・・・・っ違うんです。私、豆原さんのこと、好きじゃないです」
言ってから豆原さんに失礼だと気づいて、あ、いや、人としては好ましい部類に入るとは思います、なんて言葉も順番もめちゃくちゃな説明をしてしまった。
そうではなくて。月島くんに伝えたいことはもっと、こう――
「私が好きなのは・・・・・・好きなのは」
ああ、もう、意気地なし。肝心の言葉がのどに支えて全然出てきてくれない。
「好きなのは・・・・・・」
意を決して顔をあげると、理玖と目が合った。顔がだんだん近づいてきて、琴葉は息を止めた。思わず目を瞑ると、肩のあたりに重みを感じて、ゆっくり目を開くと、理玖が琴葉の肩に顔を埋めていた。
「もうダメだ。俺、全然余裕ない。天童さんといると、どんどん知らない自分が出てくる」
理玖が何か話すたびに首に息がかかって、心臓が止まりそうになった。多分、顔だけでなく、首まで真っ赤になっている。
「ねえ。天童さんは、俺のことどう思ってるの?」
視界が理玖でいっぱいになって、限界を迎えた琴葉は後ろに倒れ込んだ。ベッドに頭をぶつけそうだった所を、理玖が後頭部に手を添えて受け止めてくれた。半ば放心している琴葉の顔の横に理玖が手をついた。
――え?
押し倒されているような状況に、琴葉は目を白黒させる。
「答えて」
理玖の切実な声が聞こえた。目の前には、不安と期待の入り混じった表情をする理玖がいる。
琴葉は真っ赤になっている顔を両手で隠した。
「・・・・・・好きです」
理玖の反応はなかった。急に怖くなって唇を噛みそうになった時、琴葉の両手が顔から外された。
真っ赤な顔で嬉しそうに笑う理玖と目が合って、琴葉の胸が一際大きく高鳴る。理玖は琴葉の背中に腕を回して優しく抱き起こすと、そのままぎゅっと抱きしめてくれた。
「俺も好き」
その言葉を聞いて、琴葉は理玖の背中に手を回した。すると、理玖が琴葉を抱きしめる力がもっと強くなった。
強く抱きしめられて、理玖の心臓の音がよく聞こえた。琴葉と同じくらい早い音に、琴葉の頬が緩む。
心臓が痛いくらいドキドキしていて、少し苦しい。でも、すごく嬉しい。
理玖が少だけ腕の力を緩めて、琴葉の顔を覗き込んできた。真剣な顔をした理玖と目が合い、琴葉は息を呑んだ。
「天童さん。大事にするから、俺と付き合ってください」
「――はい」
琴葉が返事をすると、理玖は「ありがとう」と言って再び強く抱きしめてくれた。琴葉も手を背中に回して、理玖の身体に顔をくっつける。
「天童さんさ、豆原と何話してたの?」
琴葉を抱きしめたまま、理玖は尋ねてきた。
「えっ、それは・・・・・・」
豆原さんの気持ちを勝手に伝えてもいいものなのかと逡巡していると、「じゃあ、何で豆原のこと怖がってたの?」と質問を変えられた。
図書室での一件は、理玖には知られたくない。琴葉がこんな邪なことを考えているなんて、知られたらどう思われるんだろう。
「俺には言えないこと?」
理玖が琴葉の顔を覗き込んできた。悲しそうな顔をする理玖と目が合い、琴葉は一度だけ深呼吸をした。
「それは・・・・・・何と言うか、その・・・・・・私の邪というか、見られたくないところを見られてしまったというか・・・・・・」
「見られたくないところって?」
「それは・・・・・・その」
えええ、どうしよう。遠回しの表現をしたら、深く突っ込まれてしまった。
琴葉が「あの」とか「その」としか言えないでいると、理玖が軽く吹き出した。表情は安心したような顔に変わっていて、琴葉は首を傾げた。
「ごめん、いいや」
「えっ?」
「今日のところは勘弁してあげるけど、いつか俺にも教えてね」
そう言って理玖は優しく笑ったけれど、目は本気だった。
「分かりました。いつか・・・・・・覚悟ができたら」
「うん。楽しみにしてるね」
その時はくるのかな。そんなことを思っていると、月島くんが耳元に顔を寄せて囁いた。
「どんな天童さんでも俺は受け止めるから。それだけは覚えてて」
理玖の息が耳にかかって、琴葉の胸が強く飛び跳ねる。返事の代わりに強く抱きつくと、理玖も力強く抱きしめ返してくれた。
この時、月島くんは「大事にする」と言ってくれた。すごく嬉しくて、今にも天に昇りそうだったのに。
この言葉が、のちのち苦しくなるなんて、この時は思っていなかった。