『京都嵯峨野・ダイヤの殺意』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ

第三章 タイからの風



1.激辛の再会

「坂本さん、せっかくの湯豆腐が冷めてしまいますよ!」

 京都の雰囲気を醸し出す、巷の有名な湯豆腐料理屋の座敷。
 
 白木の卓に湯気が立ちのぼり、昆布出汁の香りが静かに満ちていた。
 
 その静寂を破るように、リサは革ジャンのポケットから小さなガラス瓶を取り出した。
 
 赤黒い油に満たされたそれ――タイの家庭ではおなじみのナームプリックパオ(⋆)である。

「ちょっとだけです、うふふ」

 リサはいたずらに笑って、瓶の蓋を開け箸で器用に掬ったペーストを、ためらいなく椀へ落とした。

「それ、まさか…」

 坂本の嫌な予感は、たいてい外れない。

 甘辛く焦がした唐辛子と油の香りが、繊細な出汁の上で一気に花開く。

「待て、リサ。ここはそういう店じゃ……」

 坂本の制止も虚しく、黄金色だった湯豆腐の表情は、赤銅色へと変貌した。

 鼻腔を刺す刺激の奥に、どこか甘く、香ばしい旅先の屋台の香りが混じる。

 隣の席の観光客が、理由も分からずくしゃみをする。

 京の静謐は、リサが取り出した小瓶一つによって侵食され、座敷の空気は、いつの間にか東南アジアの夜市の熱を帯びていた。

 障子の向こうで、店主が一つ咳払いをした。

 坂本は箸を持ったまま、その光景を呆然と見つめるしかなかった。

 坂本は悟る――。  

 異文化の衝突とは、往々にして食卓から始まるものだ。

 今後、最も警戒すべきは、リサの革ジャンのポケットの中身だろう。

 あの中にあと何種類の「爆弾」が隠されているのか、坂本には知る由もなかった。 

(⋆)ナームプリックパオ:乾燥唐辛子を主材に、にんにくや香味野菜を油で炒めて作られるタイの調味用ペーストである。小瓶に詰めて市販され、辛味に加え甘味と酸味を併せ持つ点に特徴がある。
 
 坂本は気を取り直してリサに訊いた。

「……リサ。君がここに来た理由を教えてくれ。タイ公安警察(DSI)の人間が、なぜこのタイミングで、しかも俺の前に現れるんだ?」    

 坂本の問いに、リサは真っ赤に染まった豆腐を平然と口に運び、事もなげに言ってのけた。

「京都の料理は、水のように味が薄いと聞いていましたから。私は、唐辛子の刺激がないと頭が働かないんですよ」    

 彼女はいたずらっぽく目を細めた後、表情を少し引き締めた。

「私がここに来たのは、正式な『捜査協力要請』があったからなんです。それも、あなたの組織の、もっとも京都らしい方から……」

 坂本は熱い湯豆腐を頬ばって天を仰いだ。

「京都らしい方……? まさか」
   
 坂本の脳裏に、あの食えない白髪混じりの顔が浮かんだ。

「ええ、そう。大河原警部ですよ。彼は一昨日、大阪のタイ総領事を通じて内密に私に連絡をしてきました。『本庁の刑事は真面目すぎて、古都の裏側に潜むものが見えん。タイで坂本刑事とコンビを組んだリサさんを呼んでくれ』……とね」

 大河原は、表向きは組織の論理に従い「無理心中」で幕を引こうとしながら、裏では坂本も知らないルートで独自の布石を打っていたのだ。

「それで、一人で来たのか?」

「いいえ。大使館の参事官と私の部下が二人とね、今回の日タイ首脳会談に理由付けて、ふふふ。でも、坂本さんに会うのは私の独断ですけどね……」  
 
 リサは唐辛子の小瓶を握りしめ、坂本をまっすぐに見据え感情的に続けた。

「メイは、私たちタイ人の憧れだった。彼女の死を『無理心中』なんて安っぽい言葉で片付けないでほしいわ。私が来たからには激辛の真実をぶちまけてあげますよ!」  


 
 翌朝、坂本はリサを伴い、再び嵐山へと向かった。  
 
 大河原の指示は『リサさんに京都の案内でもして差し上げたってください。現場までの道すがら、ゆっくりとですよ……ゆっくりね』というもの。
 
 それはお役所幹部の監視の目を盗んで、二人に情報のすり合わせをさせるための大河原なりの演出だった。

 車はゆっくりと冬枯れの渡月橋を渡っていく。
  
 橋の上は自撮り棒を掲げる外国人観光客で埋め尽くされていた。
 
 車窓越しに嵐山の斜面を埋め尽くす紅葉が広がり、その山肌の一角には、十三詣りで知られる法輪寺の伽藍が静かに姿を見せていた。

 麓を流れる桂川の水面に映る色彩とともに、古都の時間がゆるやかに流れていた。

「綺麗な街ですね、京都は……。でも、坂本さん……」    
 
 リサは観光客のように景色を眺めながらも、その瞳は刑事のものに変わっていた。

「あなたがジェイについて抱いている違和感は、私も同じですよ」  

 二人はリサとジェイが亡くなった現場で、厳かに花を手向けた後、近くの愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)へ足を踏み入れた。

 奈良時代に創建された天台宗の寺は、賑やかな観光地の喧騒から切り離されたように静かに佇むんでいた。

 千二百体もの羅漢像が、それぞれ異なる表情で二人を迎える。
 
 笑み、憂い、怒り――人の一生そのものを凝縮したような石像の群れ。

 リサは本尊(千手観音)の前で跪いて熱心に祈りを捧げ、財布からタイの紙幣を数枚出して賽銭箱へ落とした。

 タイ式の彼女なりの「喜捨(タンブン)」だ。
 
 坂本も線香の煙が立ちのぼる前で深く頭を垂れ、小銭入れから五円玉を探し投げ入れた。

 横で手を合わせているリサがぽつりと言った。

「私には“五円(ご縁)”が無いの…」と独り言のような声を漏らした。
 
 リサの呟きが聞こえなかったのか、坂本は合掌した両手をそっと解くと、指先で自分の髪をなでつけるように頭に当てた。
 
 タイでの捜査の日々、リサの隣で繰り返したタイ式の礼拝の無意識の所作が出た。
 
 ふと顔を上げると、隣で立ち上がったリサが、いたずらっぽく、それでいて慈しむような笑みを浮かべて坂本を見ていた。

「な、なんだよ、なんか可笑しいか?」  

 坂本が少しきまり悪そうに尋ねると、リサは何も答えず、ただもう一度、優しく微笑み返した。

 遠くでトロッコ列車の汽笛が、保津川峡谷に低く響き渡った……


2.鉄壁と動揺

「坂本さん、これは一体どういうおつもりか?」  

 京都府警の一室。

 プロダクション社長の久保寺は、座るなり不快感を隠そうともせずに吐き捨てた。  

 久保寺は高級なスーツの皺一つ乱さず、冷ややかな視線でリサを見据えた。

「メイの遺体は既にタイ本国へ戻る準備が進んでるそうじゃないか。日本の警察も『無理心中』と断定したはずだ。今さら異国の刑事がしゃしゃり出てきて、何を疑う必要があるんだ?」

 リサは動じない。

 彼女は机の上に数枚の写真を並べた。

 生前のメイがタイでファンに囲まれて笑っている写真だ。

「久保寺さん。私たちは、メイという一人の人間を失っただけではない、タイの誇りも失ったんです。納得のいく説明がなければ、外交問題に発展しかねませんよ」

 リサの言葉には抜き身のナイフのような鋭利さがあった。  

 久保寺は鼻で笑った。

「外交問題? 結構なことだ。だが事実は変わらん。彼女はジェイに呼び出され心中を図った。私はその日、午前中にメイと打ち合わせをしたのち、京都を出て午後五時半には大阪にいましたよ。……これ以上、何を話せと?」

 リサは視線を、久保寺の背後で終始うつむいているマネジャーの森下へと移した。

「森下さん、あなたはどう思いますか? マネジャーとしてメイの一番近くにいたあなたなら、あの晩の彼女に『心中』の気配があったかどうか、肌で感じていたはずでしょう?」

 森下はビクンと肩を震わせた。

「私、は……。社長が仰る通りだと、思っています……」

 声はかすれ、視線は泳いでいる。

「そうですか。でも、不思議ですね……」  

 リサが椅子を立ち、窓から京都の街並みを眺めながらゆっくりと問いかけた。

「ジェイ……ジラワットは、あのダイヤの指輪を渡すために展望台へ向かった。けれど、メイさんはそれを受け取ることなく、冷たくなっていた。驚いたジェイは指輪を握りしめたまま逃走したのです。そして坂本さんの追跡の最中、こう叫んだんです。『俺じゃない!』とね」

 リサは冷徹な視線を森下に固定したまま、一歩、踏み込んだ。

「ジェイが展望台に着いた時、メイさんは既に亡くなっていた。では、ジェイが到着するより前に、彼女のそばには誰がいたのでしょう? 愛し合って心中するはずの二人の間に割り込んだ人間がいたのではないですか?」

 森下は眼鏡の奥の瞳を激しく泳がせた。

「森下さん、ずばり訊きます。あの日の午後、メイと一緒に展望台にいたのはあなたですか?」

 その時、久保寺が苛立ちを露わにしてテーブルを激しく叩いた。

「無茶苦茶な憶測だ! リサ警部補、根拠のない妄想で私の社員を侮辱するのはやめていただきたい。行くぞ、森下君。こんな話に付き合う必要はない」

 久保寺は森下を促し、逃げるように部屋を去った。

 だが、その背中には隠しきれない焦燥が滲んでいた。

 リサは、彼らが去った後のドアをじっと見つめ、確信に満ちた声で呟いた。
 
「坂本さん。森下さんのあの動揺は、とても気になりますね……」
 
 リサは立ち上がり、部屋の窓を開けて冷たい京都の空気を吸い込んだ……


3.ピンクの嘘とブルーの真実

 リサは不機嫌そうにパイプ椅子に腰を下ろしていた。

 坂本が声を掛けようとしたその時、廊下から大河原のわざとらしい咳払いが聞こえた。

「リサはん、そのへんにしときよし。あんまり突っ込んで、わしの首が飛んでしもたら難儀ですがな……」

 大河原がドアを開け、透明な証拠品袋を手に提げて入ってきた。

「坂本さん、リサはん。そらそうと、えらい面白いもんが、出てきましてな……」

 二人は大河原が差し出した透明な証拠品袋に注目した。

「鑑識から報告がありましたんや。犯人は、この派手なピンクの携帯が彼女のすべてやと思い込んで工作したんでしょう。……そやけど、メイさんは表に出さへん心の奥で、ジェイさんとしっかり繋がっとったわけですわ。……これ、このブルーの携帯ですわ」

 大河原が二つの端末を机に並べ、一通の鑑識資料を坂本に手渡した。

「《()()()()()()()()()》』《()()()()()()()()()》……。犯人は、メイさんを”悲劇のヒロイン”に仕立てて、ジェイを呼び出して、二人で心中という筋書きを完成させたかったんやろうな」

 リサが袋越しにピンクの端末をスワイプし、原文のタイ語をなぞるように睨みつけた。

 やがて、彼女は弾かれたように顔を上げた。

「……おかしいわ。このメッセージ、メイが打ったものじゃないでしょう。タイ人なら絶対にあり得ない不自然な言い回しよ。まるで精度の悪い翻訳アプリに、日本語をそのまま突っ込んだような、変なフレーズだわ」

「ほう、なるほど。本物のタイ人がそう言わはるなら、間違いおへんな……」

 大河原は感心したように唸り、資料の束をトントンと机で揃えた。

「やとすると、犯人は『心中』のアリバイ作りに気が取られ、慌てて現場を離れた……ちゅうことですわな」

 坂本が、資料の角でポンと机を叩いた。

「だから、メイが死の間際にブーツの隙間へねじ込んだ、この本命の携帯には気づきもしなかった。……命懸けで守り抜いた、メイの本当の声だ」

 リサがもう一方の、ブルーの端末を手に取った。

 画面の中には、ジェイとの新婚旅行の計画や、愛の言葉が溢れている。

「それだけやおまへん。このブルーの携帯に一つだけ動画が残ってましたんや」

 三人は身を寄せ合い、小さな画面を見つめた。  

 再生されたのは、夕暮れに染まる冬枯れの紅葉。

 レンズがゆっくりと動き、嵯峨野トロッコ列車の鉄橋を捉えたその瞬間。

 動画の右上には午後6時22分と表示されている。

 すると《プォオオオオ》という野太い咆哮が静寂を切り裂いた。

 ―トロッコ嵯峨野駅へ向かう回送列車の汽笛だ。
 
 映像の中、メイが確かな愛を込めて囁く。

「……美しい場所。ジェイ、早くあなたに会いたい……」

 しかし、その直後だった。  

 壁の向こうから、低く冷酷な日本語が紛れ込む。

 『森下……展望台へ戻れ』
 
 紛れもなく、その時刻には大阪にいたはずの久保寺の声だった。
 
 動画はそこで途切れている。

「……坂本さん、聞こえましたか?」  

 大河原の声から、先ほどまでの飄々とした響きが消えた。

 それは、静かな怒りをたたえた老練な刑事の眼差しだった。

「久保寺がこの場所にいた疑いが濃厚ですな。六時二十二分に嵐山の展望台にいて、どうやって同時刻の大阪に『存在』してみせたのか……愛宕の天狗にでも化かされん限り、あり得ん話ですわ」

 室内を刺すような静寂が支配した。

 坂本がゆっくりと腰を上げ、暗闇に沈む京都の街を見つめた。

「リサ、タイ語の工作に、このトロッコ列車の汽笛。……狐の尻尾を掴む糸口が見えたな」

 坂本は、メイの最期の視線が映し出した紅葉を、目に焼き付けるように見つめ返した。  

 久保寺が掲げた《鉄壁のアリバイ》……

 その緻密な歯車を粉砕するための戦いが、今、静かに幕を開けた……

(第四章へ続く)
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