パリ、あるいは、市場への一歩
Sketch 4
 御前崎に来てから、何ひとつ収穫と呼べるものがなかったと思っていた。
 けれど、あのサンドイッチは違った。
 飾り立てて、うまく見せて、形だけ整えることはできる。絵でも、生活でも。だけどそれでは本当のところには届かない。向き合うべきなのは、削ぎ落としたあとに残るものだ。寂しさも、弱さも、未熟さも、すべて。
 青井が再び「灯台」を訪れるのに、ほとんど迷いはなかった。むしろ、身体がその場所を覚えてしまったように感じた。散歩の足が自然と同じ道筋をたどり、気がつけばあの色あせた看板の前に立っていた。「灯台」は今日も相変わらず目立たなかった。海風にさらされた看板は色が褪せ、文字の輪郭もどこかぼやけている。町を歩く人でさえ、そこに店があることに気づかないかもしれない。
 だから今日も、他の客の姿はなかった。屋根裏に巣をつくったイソヒヨドリだけが、外の世界との橋渡しのようだった。青井はガラスのドアを押した。乾いたからん、という音が、店内の空気に馴染んで消えた。
「いらっしゃい」
 白洲の声は、前回と変わらず柔らかかった。
「また来ました」
「嬉しいですよ」
 青井は前回と同じ席に座った。窓から差す日差しは強く、店内の光にかすかな波紋をつくっていた。海の反射が店の中にも届いているようだった。
「ホットコーヒーと、サンドイッチをお願いします」
「はい。少しお待ちくださいね」
 パンの香りが、ほとんど前回と同じ順序で空気に滲んでいった。小麦と少しの塩と水だけで、こんなに世界が満たされるのだろうかと思うほどだった。青井は、ふと目を閉じた。前回と同じ香りだった。何一つ変わらないように思えた。
 ふと、匂いに引き寄せられたのか、店の外で犬の足音がした。大きな体でありながら、控えめに地面を踏む音。続いてガラス戸が開き、からんと小さな音を立てた。
「あら、珍しいのね」
 牧野が立っていた。白い髪を後ろにまとめ、手には文庫本。横には今日も大人しいゴールデンレトリバーがいる。青井を見るまなざしは驚きというより、薄く微笑んだ気配だけを浮かべていた。
「お客さん、いたのね」と牧野は白洲に言った。
「たまには、ね」と白洲は静かに笑った。
 牧野は青井の方へ顔を向けた。
「大学生?」
「あ、いや、大学生になり損ねたもので」
「あらそうなの? でもこのカフェは、数式を解くのには良いと思うわよ。とにかく静かだから」と牧野は肩をすくめて笑った。
 白洲はコーヒーポットを持ったまま、苦笑していた。
「いえ。私は美大志望で」と青井。
「あら、絵を描くのね。素敵じゃない」と牧野は、まるで青井がすでに何かを成し遂げた者であるかのような声で言った。
「描けているかどうかは、わからないんですが。でも、描いていないと落ち着かなくて」
「それでいいのよ。落ち着かないから描くの。描かずにはいられないってことだもの」
 牧野は席に着き、文庫本を広げる前に、ゆっくりと犬の頭を撫でた。犬はそのまま店の外の日陰に落ち着き、静かに伏せた。
「ここはね、いろんな意味でいい場所よ」
「いろんな意味で?」
「何も起こらないという意味で」
 青井は少し笑った。
 笑うというよりも、自分の中の硬い部分がわずかにほどける感覚だった。
「でも、何も起こらない場所って、案外大事なのよ。ひとの心が、やっと追いつける場所だから。世の中はほとんど、心が置いてけぼりになる場所ばかりでしょう」
 白洲は静かにサンドイッチを皿に置き、青井の前へ運んだ。その手つきは、欠けたものを補うような慎重さだった。
「人って、逃げ場がないと生きられないのよ」
 そう言ってから、牧野はいつもの席へ向かった。窓際の海がよく見える席。そこだけ、時間がゆっくり沈んでいるような場所だった。
「私はここでよく本を読んで過ごすの」と牧野。
「静かだから。邪魔されないしね」
「いつものを?」と白洲がカウンターから声をかけた。
「いつものをお願い」
 白洲はコーヒー豆をゆっくりと挽きはじめた。店の中には、挽きたての豆の深い香りがふわりと満ちてゆく。潮の匂いと少し混ざり合って、独特のやわらかさが生まれる。
 御前崎の風は、そのときも窓の隙間をやさしく鳴らしていた。白い砂浜は午後の光を受けて淡く輝き、光の粒のようなものが視界の奥に瞬いていた。海は穏やかで、遠くの風車がゆっくりと回っていた。
「今度ね、娘と旅行に行くの」と牧野は言った。
「フィリピンに。海がとても綺麗なんですって」
「いいですね」と白洲。
「娘が行こうと言うのよ。あの子は自由に生きすぎて、わたしには少し眩しいくらい」
 牧野は小さく笑った。
「だから今は少しだけ言葉を勉強しているの。挨拶くらいはね」
「フィリピン語、ですか」と青井。
「そう。タガログ語」牧野は指先で文庫本の上を軽く叩いた。
「言葉って、覚えようとすると、自分の中の引き出しがどれだけ少ないかに気づくわ。歳をとるほどね」
 白洲がコーヒーを運んできた。湯気の白が、午後の光にすっと溶けた。
「ところで」と牧野は青井へ顔を向けた。
「よかったら今度、あなたの絵を見せて頂戴ね」
「……はい。機会があれば」
「機会は作るものよ。とくに、海の近くで生きる人間はね」
 その言葉は、潮の満ち引きのように、静かに胸に触れて消えた。それきり牧野はもう話をせず、文庫本を開いた。ページがめくられる音だけが、ゆっくりと店内に溶けていった。
 白洲はカウンターに戻り、コーヒーのカップを拭いていた。
 青井は、今度は本を持ってこようと思った。ここで読み切れるくらいの、中編小説を。海と、コーヒーと、静けさに溶かしながら読むための本を。

 古いアパートの三階の部屋は、夜になると廊下に風が通る。青井は机に肘をつきながら、開いたままのスマホの画面を眺めていた。通話ボタンを押す前に、いつも少しだけ迷う。
 呼び出し音が三度鳴ったあとで、岩田が出た。
「もしもし」
 その声は、少し遠くなったように聞こえた。雑音に混じって、誰かの笑い声が微かにする。
「いま、平気?」
「うん。サークルの集まりが終わったところ」
「サークル、入ったんだね」
「写真サークル。一眼レフで撮るんだよ」
 岩田は昔から、興味の対象に正直だった。好きなものは好きだと言い、お金が無くてもどうにかして手に入れてくるような人だった。
「楽しそうだね」
「楽しい。仲いいやつもできてさ、夜中に川沿い歩いて写真撮ったりするんだ」
 青井は、ふっと笑った。
「わたしの知らない、岩田君だね」
「そうかな。そんなに変わってないよ」
 変わっている、と青井は思った。けれど、それが悪いことだとは思わなかった。むしろ、そうであってほしいとさえ思う。世界が広がることは、良いことだ。
「青井は、どう?」
「うん。バイトして、アトリエ行って、帰って。あんまり変わらないよ」
「そっか」
 会話が、短く途切れる。昔はもっと、話すことが途切れなかった。ずっと、話せていた。沈黙さえ、柔らかかった。電波越しの沈黙は、透明な仕切りのようにふたりの間にすっと入り込み、呼吸をわずかに浅くした。
 青井は、「灯台」のことを話さなかった。隠したかったわけではない。ただ、口にしてしまえば、何かが変質してしまうような気がしたのだ。大切なものほど、説明をすると少しだけ弱くなる。輪郭が滲み、手に持っていたはずのものが、するりとこぼれていくことがある。
 それに岩田のいない土地で、いつものように息をして、歩いて、食べて、眠っているということをわざわざ口にするのは、どこか残酷な気がした。ふたりの距離がどれくらい離れてしまったのか。それを知りたくはなかった。
「今度、また会いに帰るよ」
 岩田が言った声は、どこか優しくて、それが余計に胸に触れた。
「うん。いつでも」
「元気で」
「岩田君も」
 通話が終わると、部屋はすぐに静かに戻った。さっきまで誰かと繋がっていたはずのその空気は、何事もなかったように静まりかえっている。海鳴りのような、低い寂しさが胸に残る。
 青井は、スマホを伏せて、両手で顔を覆った。
 岩田は、自分から別れを切り出すような人ではない。他に目移りすることもなく、まっすぐで、ひとりの相手を大事にする人だ。だからこそ、いつかは自分の方が手を離さなければならないのだと、ぼんやり思っている。
 それは今日ではない。けれど、いつか必ず来ると分かっている「その時」を、青井は心のどこかでそっと見つめていた。
< 4 / 8 >

この作品をシェア

pagetop