パリ、あるいは、市場への一歩
Sketch 7
朝の光が窓を通して柔らかく差し込み、コーヒーの香りと、微かに漂う焼き立てパンの匂いが、店全体を満たしている。店内は静かで、普段よりも空気が澄んでいるように感じられた。
「いつもので」と青井が声をかけると、白洲は少し微笑みながらうなずき、手際よくコーヒーとサンドイッチを準備し始めた。
「明日パリへ行ってきます」
青井は席につくと、少し緊張した声で尋ねた。
「白洲さんは、海外に行ったことありますか」
「ええ」
白洲はコーヒーカップを手に取り、少し考えるように目を細めてから答えた。
「中国、台湾、グアム、それにドイツにも行きましたね。会社の旅行でも、プライベートでも」
青井は驚いたように目を見開く。
「それで、生活は何か変わりましたか」
白洲はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、変わりませんでした。ただ考え方は少し変わった。海外に出てみると、物事の見方や人の考え方、文化の違いがはっきり分かる。それで、自分の日常を少しずつ見直してみようと思いました」
店内の壁に掛かるモネの絵葉書が、ふと目に入った。
「海外に行く意味って、何か新しいことを学ぶためですか」と青井は尋ねる。
「それとも、日常を変えるためですか」
白洲は少し考え、窓の外の海を見つめた。
「どちらもありますね。見知らぬ景色や人々に触れると、自分の感覚や価値観が揺さぶられる。そこで何かを受け止めるかどうかは、自分次第です。変化はすぐには起きませんが、少しずつ日常に影響を与える。それが、生活に深みを与えてくれると思います」
青井は静かにうなずく。自分が明日パリに行く理由も、まさにその感覚を得るためだと改めて思った。マルモッタン・モネ美術館で《印象・日の出》を見て、ただ絵を鑑賞するだけではなく、自分の感覚を揺さぶされ、日常に持ち帰るため。絵を通して、心を少し変えてみたい。
窓の外では、海風が白い光を揺らしている。彼女はゆっくりと息を吸い込み、そして言った。
「フライトを含めると、旅は九日間の予定なんです」
白洲は、カウンター越しにうなずいた。言葉よりも、頷きの方がよく馴染む人だった。青井は続ける。
「私、日本に帰ったら、真っ先にここに来るので」
その声には、決意とも、願いともつかない響きがあった。白洲は驚かなかった。ただ、その言葉を丁寧に受け取るように、少し目を細めた。
青井は、一息置いて、言葉を探すように視線を落とした。
「あの、変なお願いなんですけど、白洲さんにもこの九日の間に、何かしてほしいんです」
その言葉は、自分の中から零れ落ちたようだった。白洲は一瞬だけ戸惑ったように目を瞬いた。
「私に、ですか」
「ええ」
店内の空気が、静かに揺れた。皿の触れ合う小さな音すら聞こえそうな沈黙だった。
白洲は、しばらく考えるように棚に手を置き、それからぽつりと呟いた。
「……牧野さんと、市場に行ってみようか、と思います」
青井は思わず顔を上げた。
「牧野さん? 市場?」
その組み合わせの意味するところが、いまいち掴めなかった。けれど青井は深く聞き返さなかった。聞けば壊れてしまいそうな、ささやかな約束だと感じたからだった。
「それでいいわ」
青井は静かに言った。
「私はパリで、モネの絵を見る。白洲さんは、牧野さんと市場へ行く」
白洲は、青井の言葉をしっかりと受け止めるように、ゆっくりと頷いた。
「ええ」
その頷きは、契約書よりも確かで、声に出された言葉よりも深かった。
青井は席を立ち、バッグを肩にかけた。立ち上がった瞬間、店全体が少しだけ遠ざかったように感じられた。今日という日が、何かの区切りのように思えた。
「行ってきます」
青井は振り返らずに言った。白洲の「行ってらっしゃい」という声が、静かに店内に広がった。外に出ると、海の匂いが風と一緒に頬に触れた。秋の終わりの光は、どこか遠くで揺れていた。
額の奥で、モネの水色が揺れていた。その揺らぎに導かれるように、青井はまっすぐ前を向いて歩いた。
白洲は、青井が去ったあとの静かな店内をゆっくりと見渡した。薄曇りの午後だった。カウンターに置かれたグラスは、青い光を含んだままひっそりと佇んでいる。「灯台」は年中無休で営業しているが、明日は客が来るかどうかも分からない。それでも仕込みだけはしておかなければならなかった。
キッチンに立ち、白洲はトマトを切った。瑞々しい切り口から種がこぼれ、まな板の上に小さな湖のように溜まった。包丁の動きは自然と一定のリズムを刻み、それが店の静けさをいっそう際立たせた。次にマッシュルームに取りかかる。白い柄の部分が、年を重ねた指にひんやりと馴染んだ。
「牧野さんと、市場に行ってみようか、と思います」
自分の口から出た言葉を、白洲は心の中で再生した。あれは本当に自分の声だったのかと思うほど、どこか違和感があった。
なぜ、あんなことを言ったのだろう。
牧野は店の常連で、それ以上でも以下でもない。彼女はときどきストールの色を変え、時々違う種類の紅茶を注文する。犬の散歩の途中で寄ることもあるし、買い物帰りにふらりと立ち寄ることもある。白洲は牧野に対して特別な感情を抱いた覚えはなかった。そう信じている。ただ、妻がいなくなってしまったこの世界で、もっとも近い距離を歩いている人間が牧野だった、というだけの話だ。
市場に一緒に行くというのは、特別なことではない。買い物に付き合ってもらう。ただそれだけのはずだった。けれど、その小さな行為の意味を考えると、胸の内側がわずかにざわついた。牧野はどう思うだろう。驚くだろうか。眉を少しだけ上げ、あの人懐こいような、それでいてどこか達観した目で白洲を見るのだろうか。そしておそらく、彼女はイエスと言う。白洲はそれを知っていた。
豊かな白髪。海外の小さな雑貨店にしか売っていないような柄の傘。散歩の途中で会うと、いつも静かに寄り添ってくる大きなゴールデンレトリバー。そういう生活の積み重ねが、牧野という人間を形作っていた。
青井の旅に比べると、自分の行動はひどく小さく、まるで地面に落ちた欠片を拾い上げるようなものだった。パリへ向かう飛行機。異国の美術館。そこで見る《印象・日の出》。世界へ向かう青井の歩幅に比べると、白洲の歩幅はあまりに狭く、老いた筋肉の伸びる範囲の中だけに収まっていた。
しかしそれでも——白洲にとって、それはたしかな一歩だった。
妻を失ってから、白洲はずっと立ち止まっていた。時間だけが前へ進み、自分は取り残されたまま、地球の自転にただ身体を預けていた。誰にも踏まれない砂浜に置かれた漂流物のように。
包丁をまな板に置く。白洲は軽く息を吐いた。老いた心臓が、小さな、しかし確かな鼓動を打っていた。
ガラス張りの廊下の向こうに、夜明け前の滑走路がひろがっている。外はまだ薄暗く、空港の照明だけが白く地面を照らしていた。人影はまばらで、みんな自分の内側だけに集中しているように見えた。これから飛び立つ場所と、置いてきた場所のあいだに浮かんでいる時間だった。
飛行機に乗るのは久しぶりだった。修学旅行で沖縄に行ったとき以来だ。
あのときは、別の人生を送っていたような気がする。制服を着た自分。友達の笑い声。揃いの旅行バッグ。思い返すと青井は、仲間内で自分だけが少し浮いていたような気がした。それは今も変わらない。ただ、その浮き方は以前とは違う。いまの自分は、誰かの隣に合わせられなかった、ではなく、ひとりで立っているのだと感じていた。
チェックインのときのことを思い出す。係員の言うことがうまく聞き取れず、手荷物と預け荷物の区別も分かっていないような状態で、落ち着かない手つきでパスポートを差し出した。自分でも、ひどく不格好だったと思う。それでも、胸の奥は小さく、確かに高揚していた。自分がここにいて、これから空へ上がっていくという事実が、何かを変えようとしているように思われた。
機内に入ると、空気が少し乾いていた。細長い通路の両側に、等間隔に並ぶ座席。座席の布地はくすんだ青で、頭上には読書灯の小さなボタン。すでに何人かが着席していて、みんな自分の世界に閉じこもっている。イヤホンをしている人、膝に本を置いている人、眠ろうとしている人。青井は、自分の席番号を確かめながら上着を腕にかけ、気をつけるようにそこへ腰をおろした。
座席は、少し硬かった。それでも、そこに座るという行為の意味が、いまの青井には大きかった。この席に座ったことで、もう戻れないのだという感覚——。
機内アナウンスが流れる。聞き慣れない英語と、そのあとにかぶさる日本語。フライト時間は十数時間。目的地はパリ、シャルル・ド・ゴール空港。
パリという名前を聞くだけで、胸がざわついた。遠すぎて、近づける気がしなかった場所。海辺の町から、徒歩でも自転車でも、電車でも行けない場所。飛行機に乗るしかない場所。
機体がゆっくりと動き出す。滑走路へ向かう振動が、体の芯に響いた。エンジン音が大きくなり、座席全体が低く唸った。
青井はシートベルトを確かめ、両手を膝に置いた。飛行機が地面を蹴って、加速した。体が後ろへ押しつけられる。風景が窓の外で流れる速度を増していく。海と町と畑と、あらゆるものがひとつの面となって離れていく。
夜明け前の雲の上で、少しずつ空が白んでいった。
「いつもので」と青井が声をかけると、白洲は少し微笑みながらうなずき、手際よくコーヒーとサンドイッチを準備し始めた。
「明日パリへ行ってきます」
青井は席につくと、少し緊張した声で尋ねた。
「白洲さんは、海外に行ったことありますか」
「ええ」
白洲はコーヒーカップを手に取り、少し考えるように目を細めてから答えた。
「中国、台湾、グアム、それにドイツにも行きましたね。会社の旅行でも、プライベートでも」
青井は驚いたように目を見開く。
「それで、生活は何か変わりましたか」
白洲はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、変わりませんでした。ただ考え方は少し変わった。海外に出てみると、物事の見方や人の考え方、文化の違いがはっきり分かる。それで、自分の日常を少しずつ見直してみようと思いました」
店内の壁に掛かるモネの絵葉書が、ふと目に入った。
「海外に行く意味って、何か新しいことを学ぶためですか」と青井は尋ねる。
「それとも、日常を変えるためですか」
白洲は少し考え、窓の外の海を見つめた。
「どちらもありますね。見知らぬ景色や人々に触れると、自分の感覚や価値観が揺さぶられる。そこで何かを受け止めるかどうかは、自分次第です。変化はすぐには起きませんが、少しずつ日常に影響を与える。それが、生活に深みを与えてくれると思います」
青井は静かにうなずく。自分が明日パリに行く理由も、まさにその感覚を得るためだと改めて思った。マルモッタン・モネ美術館で《印象・日の出》を見て、ただ絵を鑑賞するだけではなく、自分の感覚を揺さぶされ、日常に持ち帰るため。絵を通して、心を少し変えてみたい。
窓の外では、海風が白い光を揺らしている。彼女はゆっくりと息を吸い込み、そして言った。
「フライトを含めると、旅は九日間の予定なんです」
白洲は、カウンター越しにうなずいた。言葉よりも、頷きの方がよく馴染む人だった。青井は続ける。
「私、日本に帰ったら、真っ先にここに来るので」
その声には、決意とも、願いともつかない響きがあった。白洲は驚かなかった。ただ、その言葉を丁寧に受け取るように、少し目を細めた。
青井は、一息置いて、言葉を探すように視線を落とした。
「あの、変なお願いなんですけど、白洲さんにもこの九日の間に、何かしてほしいんです」
その言葉は、自分の中から零れ落ちたようだった。白洲は一瞬だけ戸惑ったように目を瞬いた。
「私に、ですか」
「ええ」
店内の空気が、静かに揺れた。皿の触れ合う小さな音すら聞こえそうな沈黙だった。
白洲は、しばらく考えるように棚に手を置き、それからぽつりと呟いた。
「……牧野さんと、市場に行ってみようか、と思います」
青井は思わず顔を上げた。
「牧野さん? 市場?」
その組み合わせの意味するところが、いまいち掴めなかった。けれど青井は深く聞き返さなかった。聞けば壊れてしまいそうな、ささやかな約束だと感じたからだった。
「それでいいわ」
青井は静かに言った。
「私はパリで、モネの絵を見る。白洲さんは、牧野さんと市場へ行く」
白洲は、青井の言葉をしっかりと受け止めるように、ゆっくりと頷いた。
「ええ」
その頷きは、契約書よりも確かで、声に出された言葉よりも深かった。
青井は席を立ち、バッグを肩にかけた。立ち上がった瞬間、店全体が少しだけ遠ざかったように感じられた。今日という日が、何かの区切りのように思えた。
「行ってきます」
青井は振り返らずに言った。白洲の「行ってらっしゃい」という声が、静かに店内に広がった。外に出ると、海の匂いが風と一緒に頬に触れた。秋の終わりの光は、どこか遠くで揺れていた。
額の奥で、モネの水色が揺れていた。その揺らぎに導かれるように、青井はまっすぐ前を向いて歩いた。
白洲は、青井が去ったあとの静かな店内をゆっくりと見渡した。薄曇りの午後だった。カウンターに置かれたグラスは、青い光を含んだままひっそりと佇んでいる。「灯台」は年中無休で営業しているが、明日は客が来るかどうかも分からない。それでも仕込みだけはしておかなければならなかった。
キッチンに立ち、白洲はトマトを切った。瑞々しい切り口から種がこぼれ、まな板の上に小さな湖のように溜まった。包丁の動きは自然と一定のリズムを刻み、それが店の静けさをいっそう際立たせた。次にマッシュルームに取りかかる。白い柄の部分が、年を重ねた指にひんやりと馴染んだ。
「牧野さんと、市場に行ってみようか、と思います」
自分の口から出た言葉を、白洲は心の中で再生した。あれは本当に自分の声だったのかと思うほど、どこか違和感があった。
なぜ、あんなことを言ったのだろう。
牧野は店の常連で、それ以上でも以下でもない。彼女はときどきストールの色を変え、時々違う種類の紅茶を注文する。犬の散歩の途中で寄ることもあるし、買い物帰りにふらりと立ち寄ることもある。白洲は牧野に対して特別な感情を抱いた覚えはなかった。そう信じている。ただ、妻がいなくなってしまったこの世界で、もっとも近い距離を歩いている人間が牧野だった、というだけの話だ。
市場に一緒に行くというのは、特別なことではない。買い物に付き合ってもらう。ただそれだけのはずだった。けれど、その小さな行為の意味を考えると、胸の内側がわずかにざわついた。牧野はどう思うだろう。驚くだろうか。眉を少しだけ上げ、あの人懐こいような、それでいてどこか達観した目で白洲を見るのだろうか。そしておそらく、彼女はイエスと言う。白洲はそれを知っていた。
豊かな白髪。海外の小さな雑貨店にしか売っていないような柄の傘。散歩の途中で会うと、いつも静かに寄り添ってくる大きなゴールデンレトリバー。そういう生活の積み重ねが、牧野という人間を形作っていた。
青井の旅に比べると、自分の行動はひどく小さく、まるで地面に落ちた欠片を拾い上げるようなものだった。パリへ向かう飛行機。異国の美術館。そこで見る《印象・日の出》。世界へ向かう青井の歩幅に比べると、白洲の歩幅はあまりに狭く、老いた筋肉の伸びる範囲の中だけに収まっていた。
しかしそれでも——白洲にとって、それはたしかな一歩だった。
妻を失ってから、白洲はずっと立ち止まっていた。時間だけが前へ進み、自分は取り残されたまま、地球の自転にただ身体を預けていた。誰にも踏まれない砂浜に置かれた漂流物のように。
包丁をまな板に置く。白洲は軽く息を吐いた。老いた心臓が、小さな、しかし確かな鼓動を打っていた。
ガラス張りの廊下の向こうに、夜明け前の滑走路がひろがっている。外はまだ薄暗く、空港の照明だけが白く地面を照らしていた。人影はまばらで、みんな自分の内側だけに集中しているように見えた。これから飛び立つ場所と、置いてきた場所のあいだに浮かんでいる時間だった。
飛行機に乗るのは久しぶりだった。修学旅行で沖縄に行ったとき以来だ。
あのときは、別の人生を送っていたような気がする。制服を着た自分。友達の笑い声。揃いの旅行バッグ。思い返すと青井は、仲間内で自分だけが少し浮いていたような気がした。それは今も変わらない。ただ、その浮き方は以前とは違う。いまの自分は、誰かの隣に合わせられなかった、ではなく、ひとりで立っているのだと感じていた。
チェックインのときのことを思い出す。係員の言うことがうまく聞き取れず、手荷物と預け荷物の区別も分かっていないような状態で、落ち着かない手つきでパスポートを差し出した。自分でも、ひどく不格好だったと思う。それでも、胸の奥は小さく、確かに高揚していた。自分がここにいて、これから空へ上がっていくという事実が、何かを変えようとしているように思われた。
機内に入ると、空気が少し乾いていた。細長い通路の両側に、等間隔に並ぶ座席。座席の布地はくすんだ青で、頭上には読書灯の小さなボタン。すでに何人かが着席していて、みんな自分の世界に閉じこもっている。イヤホンをしている人、膝に本を置いている人、眠ろうとしている人。青井は、自分の席番号を確かめながら上着を腕にかけ、気をつけるようにそこへ腰をおろした。
座席は、少し硬かった。それでも、そこに座るという行為の意味が、いまの青井には大きかった。この席に座ったことで、もう戻れないのだという感覚——。
機内アナウンスが流れる。聞き慣れない英語と、そのあとにかぶさる日本語。フライト時間は十数時間。目的地はパリ、シャルル・ド・ゴール空港。
パリという名前を聞くだけで、胸がざわついた。遠すぎて、近づける気がしなかった場所。海辺の町から、徒歩でも自転車でも、電車でも行けない場所。飛行機に乗るしかない場所。
機体がゆっくりと動き出す。滑走路へ向かう振動が、体の芯に響いた。エンジン音が大きくなり、座席全体が低く唸った。
青井はシートベルトを確かめ、両手を膝に置いた。飛行機が地面を蹴って、加速した。体が後ろへ押しつけられる。風景が窓の外で流れる速度を増していく。海と町と畑と、あらゆるものがひとつの面となって離れていく。
夜明け前の雲の上で、少しずつ空が白んでいった。