愛してる、のその先
少し間を置いて、彼が微笑む。
「覚えてる? 夏休みに、江ノ島の海へ行ったときのこと」
潮風の匂い、焼けつくような砂浜、きらめく波──記憶が胸に広がる。

「もちろん。二人でかき氷を食べて、あなたはブルーハワイで舌を真っ青にしてた」

「君はイチゴ味で、口の周りを赤くして笑ってた」

思い出すだけで、胸が少し温かくなる。あれは、確かに二人だけの時間だった。
彼が優しく笑う。

「君の白いビキニ、とても似合ってた」

「……白?」
間を置かずに顔を上げる。

「違うよ。あの日は赤のワンピース。覚えてるよね?」

あれはジルスチュアートの夏の新作だった。

発売日に並んで買った私のお気に入り。

彼に見せたくて、真夏の陽射しの下で胸を張って着ていった。

「そうだね、赤だった。君はいつだって似合ってた」

彼はすぐに柔らかく言い直した。

「間違えないで」

自分でも驚くほど、声が少し尖った。

「ごめん。君の言う通りだよ」

彼がふと声を和らげた。

「それから、あの夜はバーに行ったよね。君がカクテルを頼んで、赤いグラスを手にして――」

「……カクテル?」
私は瞬きをした。

確かに江ノ島の帰りに、彼に誘われて小さなバーに入った。
けれど私がお酒を飲めないことを、彼は知っているはずなのに。

あの夜、私が頼んだのはカクテルなんかじゃない。ただのジンジャーエール。
カウンターの木目、氷が崩れる音、泡が喉をくすぐる感覚まで、いまでもはっきり覚えている。

「違うよ。私はカクテルなんて飲んでない」
声がまた、少し尖った。
「……そうだね。ジンジャーエールだった。君らしいよ」
その笑顔は優しいのに、胸の奥にまたひとつ、小さな棘が刺さる。

しばしの沈黙。タブレットの縁に指先を置く。

冷たいガラス越しに、彼の息づかいだけがこの部屋を満たす。
「またどこかに行こう。君と一緒なら、どこへだって」
彼が穏やかに言った。

胸が詰まって、涙がにじむ。
「……私も。本当に、そうしたかった」


けれど、その言葉があまりに優しすぎて、残酷だった。
だって、もう、行けない。どこへも。
胸の奥がひどく痛んだ。

思い出すのは、彼と過ごした時間ばかり。
波打ち際ではしゃいだ夏の日も、夜の帰り道で指を絡めたあの瞬間も、全部、全部――。

彼は微笑みを深め、続けた。
「それなら、また箱根に行こうか。君と一緒なら、きっと楽しい」


ーー『また』とはどういうことだろう、私は彼と箱根など行ったことはない。
私の中で、”また”何かがはじけた。

タブレットを掴み、ベッドの上にたたきつける。
一度、跳ねて何かにぶつかり、鈍い音が響いて、画面が一瞬だけ暗くなる。
それでも彼は、割れ目の向こうから変わらぬ声で囁き続けた。
「そうだよ。全部、僕が悪い」



やっぱり……私は悪くない。


ひび割れたタブレットの隣に、浮気癖が直らない、変わり果てた彼の死体が静かに横たわっていた。
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