狂気の魔法

第24話 作戦を立てよう。


ゆりは先日のホテルでの司との出来事を思い返していた。

本当に危なかった。
あのまま危うく司のペースに呑み込まれていたら、全てを失っていたかもしれない。

パニックの最中ほんの一瞬、蓮を悩殺し続けてきた「ドMの顔」を武器に、渇望する司をコントロールしようかと揺らいだ瞬間があったくらいだ。

だが、それは決して許される選択ではない。

完璧な支配者の仮面が捲られた。
これは致命的な“死活問題”だ。

司がこのまま只で諦めるはずがない。
あの男はむしろ、執着を燃やし、さらに深く踏み込んでくるに決まっている。

もっと強く、もっと鮮烈に。
支配者としての地位を確固たるものにし、司を完全なる奴隷に叩き落とすしかない。

もう二度と、この私に逆らえないように。
二度と、この私を揺らがせないように。
二度とこの私にあんな真似出来ないように。

よし。作戦を立てよう。






数日後。

ゆりはアメリカ本社幹部専用の応接室の前に立っていた。

髪は低めの位置でぴたりとまとめた一つ結び。
シワひとつない白いワイシャツ、膝丈の赤いスカート。
清廉で端正なその姿は、どこからどう見ても“気品ある貞淑な女性”そのものだった。

けれど、肩から下げた鞄の中身は、まるで別世界のもの。
彼女の清楚な外見とは裏腹に、支配の象徴のような品々が潜んでいる。

「よしっ頑張るぞ!エイエイオー⭐︎」

小声でそう呟き、拳を胸の前で軽く握る。
その仕草はまるで無邪気な少女のようで、これから挑もうとしている事柄の覚悟など、誰も想像すらできない程だった。

コンコン──。

「はい」

応接室の中から響いたのは、聞き慣れた落ち着いた声。

「早瀬です」

ガタッ。
次の瞬間、室内で椅子が乱暴に引かれる音がして、バタバタと急いで近づく足音。

ガチャ!

勢いよく扉が開かれ、姿を現したのは司だった。
普段の冷静沈着な佇まいとはかけ離れた、どこか慌てふためいた顔。

「…っどうしたんですか、突然」

声は動揺を隠しきれない。

「すみません…急にアポなしで」

ゆりが小さく会釈をすると、司はわずかに安堵の吐息を漏らし、震える笑みを浮かべた。

「一瞬、空耳かと思いきや…本当に早瀬さんがいました」

「何言ってるんですか」

「あまりに恋しくて、幻聴が聞こえたのかと思ったってことです」

さらりと告げられた言葉に、ゆりは思わず吹き出しそうになり、咄嗟に周囲に誰も居ないか辺りを見回す。

また。
司はいつもナチュラルにこんな素敵な台詞を言う。
胸の奥をくすぐられるような心地に、唇がふっと緩み、笑みがこぼれる。
その自然体の甘さが、かえってゆりの心を掴んで離さなかった。

やがて二人は応接室へと入る。
ソファに腰掛け、テーブルを挟んで向き合った瞬間、甘い雰囲気が二人の間に漂った。

「今お時間少し大丈夫ですか?」

「もちろん。早瀬さんに使う時間は最優先ですから」

ぱっと顔を明るくした司。
もし尻尾があれば、今にもブンブンと振っているだろう。

「…………動画は消していただけましたか?」

次の瞬間、ゆりの鋭い眼差しが突き刺さる。

「……………」

スンッと、司の表情から笑みが消えた。
さっきまで嬉しさを隠しきれなかった姿が一転し、氷のように無機質な無表情へと変わる。

「………なーんだ。初めて早瀬さんから、わざわざ業務中に会いに来てくれたと思ったのに…その話ですか」

先ほどまで前のめりだった姿勢を崩し、背もたれに全身を投げ出す。
両腕をソファの上に広げ、足を組み、ふてくされた態度を隠そうともしない。

その姿を見れば、答えは一目瞭然だった。
思った通り、まだあの動画を手放していない。

「…………」

ゆりはスッと無言でソファから立ち上がる。
ヒールの音を響かせながら窓際へ歩み寄り、勢いよくブラインドを下ろした。
外の光が断ち切られ、室内は薄暗い密室に変わる。
そのまま早歩きで入口へ向かうと、ガチャッと扉の鍵が閉まる音が重く響いた。

「…早瀬さん?」

突然の行動に、司の胸はざわめいた。
動揺と同時に、得体の知れぬ期待と不安で鼓動が高鳴る。

ゆりは振り返り、低い声で囁く。

「…司。私の言うことが聞けないの?」

ゆっくりと鞄を開け、指先でそれを取り出した。
ロッドの先のパドルが光を帯びて揺れる。



そう、動画を消させることが真の目的ではない。



「ぎょ、業務中ですよ…!ゆりさんっ!」

司は信じられないといった顔で声を上げた。
普段なら誰よりも真面目に、毅然と業務に徹する彼女。
その仕事中は完璧な“絶対的業務中モード”のはずの姿が。

まさか?
今?
突然?
ここで?
一体何が起きているんだ?

ビシィッ──ッ!!

乾いた音が響いた。
重厚なソファの革が揺れ、空気が震え、司の鼓動が跳ね上がった。

「……ちゃ・ん・と、お願い聞いてもらうから♡」



真の目的は、理由をつけて司を虐めること。



「一体どうしたんですか…っ!?ゆりさんらしくないですよ…お仕事中にそんな物を持ち出すなんて…!」

ロッドを握りしめ、ジリジリと距離を詰めてくるゆり。
その姿に、司の胸は焦りと恐怖と、そして説明できない昂ぶりでかき乱されていく。

動画を消したくないという意思。
抗えないかもしれないという恐怖。
従わせてみて欲しいという好奇心。

矛盾する感情が、嵐のように胸の奥をかき乱す。

「お仕事中…だからだよっ」

私には作戦がある。

ビシィッ!!

ゆりの声は鋭く、それでいて艶めいていた。
司の理性を貫き、奥底の欲望を暴き立てる。
同時に背筋を走るぞくりとした感覚に、司は息を呑む。

ピシッ。

「…ゆ、ゆりさんっ!」

ピシッ。

「…ちょ、ここでは…っ」

ビシィッ──!

室内に響く鋭い音が、緊張感をさらに高めていく。

「…ここでは…外に聞こえてしまいます!」

その一言を聞いた瞬間、ニタァッとゆりの唇が勝ち誇るように吊り上がった。

「音が?声が?外に聞かれたら困るのは、私じゃなくて……」

ゆりは一気に間合いを詰めた。
視界いっぱいに彼女の影が落ちる。


「司だよっ!!」

ピシィッ!!


司の思考は一気に白く染まり、理性が後退していく。
声を上げてはいけない。
抵抗してはいけない。

そう分かっているのに、身体は言うことを聞かない。

「ほら、司大好きでしょ…」

甘く囁きながら、理性の底へ沈めていく。

思い返せば、アメリカから帰国後最初に会った時は途中で帰られてしまい、それ以降デートはお預け。
司はクリスマスデートのホテル以来ゆりとは長らくご無沙汰している。
正直、ゆりへの気持ちは我慢の限界状態。

だが、ここは業務中の応接室。
声を上げるわけにはいかないし、もしパドルを強く打ち鳴らされれば、その音すら外に漏れてしまう。
理性が必死に警鐘を鳴らす。

だけど…っ

「ねぇ…どうしたの?いつもみたいにお願いしないの…?」

耳元で囁きながら甘い焦らしが、羞恥と昂りを同時に煽り立てる。

司は必死で声を噛み殺しながら、抗うように全身へ力を込めて震えた。
だが、その抵抗すら愉しむように、ゆりの煽りはさらに激しさを増していく。

昂り。羞恥。背徳感。
三つ巴の熱が、容赦なく司を追い詰めていった。

「ほらっ!いつもみたいに言いなよ!」

ビシィィッ──!!

瞬間、張り詰めていた何かが音を立てて崩れ落ちた。
耐え続けていた緊張が限界を越え、司の意識は一気に揺らぐ。

司はもう抗えなかった。
押し殺すこともできず、ただ全身を震わせるばかり。
潤んだ瞳から涙がにじみ、普段の冷徹さとはかけ離れた、弱々しい表情へと崩れていく。
そんな司の顔を見下ろしたゆりは、司の主導権を握った事を確信する。

うん。作戦は順調だ。

司の身体から一度離れると、ゆりはさりげなく鞄を手に取り、そのまま司の頭上へと置いた。
視界を塞ぐように近づき、逃げ場を奪う距離で、静かに囁く。

長く続いた緊張の中で、司の意識は次第に曖昧になっていく。

その最中──

ガチャガチャッ。

「よっしゃ!成功!」

金属の冷たい音にハッと意識が覚醒する。
次の瞬間、司の両手首には手錠がはめられ、カチャリと閉まる音が確かに響いた。
目を見開いた司の前で、ゆりは悪戯っぽく笑い、ひらりと小さな鍵を掲げてみせる。

「…っゆりさん…っ冗談はやめて…外して下さい!」

必死に声を張り上げ、司は両腕を左右に強く引いた。
しかし、手錠は軋むだけでびくともしない。
自由を奪われた不安と焦燥が胸を締め付け、背中に嫌な汗が滲む。

「司がちゃんと…お願い聞いてくれたらねっ!」

優しく告げられたその言葉が、逆に絶望的な重みを持って司の胸に落ちていった。

挑発的に笑い、ゆりは鞄を探って次なる何かを取り出した。
それは重々しい金属の光を放つ。

「…や、やめて下さいっ!それだけは!」

狼狽えた声が、応接室に虚しく響く。
だが、ゆりは構わず司の足元へ手を伸ばした。

司は必死に抵抗し、身体を起こそうとする。

「暴れんなっつーの!」

視界は逆さまに映る彼女の背中と腰。
逃げ場のない位置取りに、司の胸は苦しく波打った。
冷たい金属音がして逃げ場のない感覚が深まり、カチリと重い音を響かせた瞬間、完全に自由を奪われたという実感が、司の全身を駆け巡った。
羞恥と恐怖、そして制御できない感情の高まりに心臓は今にも破裂しそう。

司の足元は自由を奪われた。
両手は手錠に繋がれ、支配者であるはずの男が、今は完全に主導権を奪われていた。

「最っ高だよ♡ 司っあははっ! あはははははっ!」

笑い声は甘く澄んでいるのに、内容は残酷そのもの。
司の視界いっぱいに広がるのは、無邪気に嗤うゆりの顔。

羞恥。背徳。不安。焦り。苦痛。屈辱。
それら全てが権力者の顔を歪めていく。
その表情は、ゆりにとって究極のご褒美だった。
最高権威の男が、自分の手の中で壊れていく。

その滑稽で哀れな姿は。
なんて歪で、最上級の抗いがたい愉悦感なのだろう。

頬を紅潮させたゆりは、更に司を追い詰める。

「よしっ…じゃあ次はぁ、これ!いってみよっ」

楽しげな声とともに、ゆりは更に鞄へと手を伸ばした。

司の瞳が大きく見開かれる。
こんなに幼く無垢な外見の少女から、次から次へと取り出されるその数々。
普段は公の場で冷徹に采配を振るう自分を、こうして拘束し、弄ぶためだけに準備されたのか。
その事実があまりに現実離れしていて、目を疑わずにはいられなかった。

無邪気な声色と、妖艶な笑み。
ギャップに心臓が大きく跳ねる。

その瞬間、司の中で何かが決定的に崩れ落ちた。

──もう、駄目だ。

何をされているのか、どうなっていくのか。
そんな具体的な想像すら、もはや意味を成さない。
恐怖も、羞恥も、抵抗も、すべてが混ざり合い、境界を失っていく。

ただひとつ確かなのは、自分は完全に、彼女の掌の上にいるという事実だった。

理性はとうに限界を越え、「拒む」という選択肢そのものが、意識から剥がれ落ちていく。
残っているのは、従うしかないという感覚と、それをどこかで受け入れてしまっている自分自身への嫌悪。

しかし嫌悪だけではない。

胸の奥で、静かに、しかし確かに芽生えていくものがあった。
それは敗北感であり、安堵であり、そして、抗うことを放棄した先に訪れる、甘い空白。

ただひたすらに無邪気。
可愛らしく、表情豊かで、気まぐれに感情を零していく。
そのすべてが、拘束されて屈辱に震える司の目の前で繰り広げられる。

「うんっ、いい感じかも」

──可愛い。
あまりにも愛らしい。
けれど、その無邪気さと、今の自分が置かれている惨めな境遇との差は、残酷なまでに大きかった。

そのギャップが司の精神を、粉々に砕いていった。



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