狂気の魔法

第35話 真実の愛


その後、司は何事もなかったかのように装い、ゆりとの約束のホテルのレストランへと向かった。

入り口に辿り着いた時、約束の時刻より少し早いにもかかわらず、既に待っていたゆりの姿が視界に飛び込んできた。
華やかに着飾ったその美しさは、周囲の空気すら変えてしまうほどだ。

ゆりも司の姿に気づくと、ぱっと花が咲くような笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。
そのまま迷いなく司の胸へ飛び込み、ぎゅっと両腕を回して抱きしめる。

「会いたかった!司♡」

無邪気で自由奔放な彼女は、先日の応接室での亀裂など微塵も感じさせない。
これまで、どれほど自分がその奔放さに翻弄されてきただろうか。

だが、それも今夜で全てを終わらせてやる。

抱きしめる腕の温もりと甘い言葉に、きゅんと一瞬胸を打たれそうになるも、司は自らを奮い立たせ、平然を装った。
そして静かに腕を回し返し、彼女の髪にそっと指を差し入れて撫でながら、温和な微笑を浮かべる。

「私も……会いたかったですよ。ゆりさん」

ゆりの瞳へ落としたその視線は優しく、口元の笑みも変わらぬ温かさを纏っていた。
だが、その奥底に潜む決意だけは、誰にも悟らせはしなかった。



アーク映画作品「紅色被りのクレア」の題材となっているグリム童話「赤ずきん」。

純粋で無垢な少女は、道すがら出会う狼に疑う余地もなく明るい笑顔を向け、行き先を告げる。

その言葉を受け取った狼が、どんな沈黙の中で、何を決めたのか。

少女はまだ知らない。

その先で待っているものが、もう物語として用意されていることさえも。

この後に、自らの身に訪れる悲劇を、まるで知る由もない。



そして、いつものように料理が運ばれ、テーブルに穏やかな時間が満ちていった。
目の前のゆりは、先日の応接室の騒ぎなどなかったかのように表情をくるくると変え、愛らしい明るさで可愛さを纏い、無邪気に話しかける。

司はその無邪気さに応えるように、紳士の仮面を崩さずゆっくりと笑みを返し、穏やかに会話を続けた。
しかしその微笑の裏側では、別の感情が渦を巻いていた。
これから目の前の彼女をめちゃめちゃに壊して、すべてを奪い、彼女の在り様を塗り替え尽くし、彼女の全てを手に入れるという、冷たく激しい欲望が、胸の奥で静かに、しかし確実に膨らんでいく。

まるで、赤ずきんが森の中で出会う狼のように。

狼は、すでに決めている。
それでも声色は優しく、礼儀正しい。

「途中で木の実を拾っていくといい」

「向こうの方で咲いてる綺麗な花を詰んでいくといい」

笑顔で穏やかに、その内側に渦巻く悍ましさを決して悟らせない。



表の穏やかさと裏の凶気が、同じテーブルの上で共存していることを、ゆりは何も知らないまま夜はゆっくりと更けていった。



平穏な時間のまま食事を終えると、いよいよ二人は部屋へと向かう。
最上階スイートルーム行きのエレベーターに乗り込むと、扉は静かに閉まり、世界から切り離されたかのように二人きりの空間となった。

その途端、ゆりは司の腰に両腕を絡め、甘えるようにその胸へ頬を擦り寄せる。
猫のように身体をくねらせ、香りを纏わせるように擦りつける仕草は、まるで発情期の小さな獣のマーキング。

堪らず司は彼女の頬を掬い上げ、その唇に触れた。
互いの温もりを確かめ合うように、優しく甘い口づけを重ねる。

なんて翻弄されるのだろう。

何が起きようとも、どんな状況にあっても、決して色褪せることのない完璧な可憐さと、抗い難い色香。
この最強とも言える魅力を前に、どうして自ら手を下せるというのか。

彼女に逆らう事など到底出来ない。

骨の髄まで刻まれた盲従と崇拝の念。
自分の中のそれを打ち砕かねばならない。
彼女への支配像を壊し、自らの精神さえも徹底的に崩さなければ、計画は完遂できない。

熱を帯びた唇を重ね合いながら、彼女に抗えない己を痛感する。
それでも司は決意を固め、瞳の奥には狂気にも似た光が鋭く宿っていた。

スイートルームの扉前。
司はキーをかざし、電子音が鳴ると扉を引いた。
いつものレディファーストの所作で手のひらを部屋の内へ差し出し、ゆりを先に促す。
彼の笑みはいつにも増して柔らかく、紳士そのものだった。

だが、ゆりが玄関の敷居を越え、リビングへ一歩踏み出した瞬間──

両側の影から、忽然と黒服の男たちが現れた。
動きは素早く、逃げ道を塞ぐように立たれ、空気が一気に冷える。

「え…っ、ちょっ…なに!?司ーっっ!!!」

驚きと恐怖で声が震う。
ゆりが司へ視線を投げた、その先で──

「連れていけ」

背後から低く冷たい声が落とされる。
その司の一言がゆりの耳へ届いた瞬間、一瞬で思考が引き裂かれたように、頭の中が真っ白になる。
混乱が走り、息が詰まる。
周囲の景色が歪むように見え、瞬間的に手足の動きが止まった。

司が抑えた声で男たちに指示を出すと、彼らは素早くゆりを室内の奥へと連れて行く。
ゆりの叫びと、慌ただしい足音だけが、静かなスイートに不釣り合いな緊張を落とした。

そしてそのままで、ゆりはメインベッドルームへと移動した。
広々とした空間の中央には堂々たるキングサイズのベッドが鎮座している。
シーツは白く整えられ、静謐な光を受けていた。

ゆりの視線がベッドの上を捉えた瞬間、驚愕の叫びが喉から漏れた。

「………蓮…っ!!」

そこに横たわるのは、白いワイシャツの男、蓮だった。
頬は青ざめ、胸元には先刻の溢れたワインが広がった淡いピンクの染みが点在している。
衣服の汚れや、何者かに手を掛けられた形跡が見て取れ、ゆりの胸は締め付けられるように痛んだ。
意識を失っていることは一目瞭然だった。

恐怖と怒りが一気に噴き出す。
ゆりは首をひねって横にいる司へ勢いよく振り返り、その目に真っ直ぐ怒号を投げつけた。

「蓮には手を出すなって!!!お願いしたよね!!??」

取り乱したゆりの声は震え、顔をこわばらせながら司を責める。



辿り着いた目的地。

大好きなおばあさんは既に閉じ込められた腹の中。

先回りしていた狼に手を掛けられた現実を知った少女は、一体どれ程の絶望感に見舞われたのだろう。



ゆりの剣幕が空気を引き裂くように響くと、司の表情にわずかな影が差した。
嫉妬と苛立ちが胸の内で渦巻き、彼はゆっくりと首を上げて天井を仰いだ。
まるで面倒事を振り払うかのように、顎を左右に動かし、首筋をポキリと鳴らす。

そして、ゆっくりと視線を戻すと──嘲笑がその口元に浮かんだ。

この狼狽、 この慌てふためき。
彼女を崩すための鍵が、ここに確かにいる。

司の目には冷たい確信が宿っている。
ゆりの慟哭は、自分の手のうちにあることを示す点滅信号のように感じられた。
だがその確信は慈しみではなく、所有欲と策に満ちた冷笑へと変わるだけだった。

「手出しはしてない。眠らせただけだ」

眉間に深く力を込め、鋭い光を宿した瞳でゆりを見下ろしながらも、口元にはどこか愉しむような笑みを浮かべている。
その狂気めいた司の表情と、普段の優しい声色や紳士的な口調からはあまりにもかけ離れた冷徹な響きに、ゆりの胸は凍りついた。

つい先ほど、エレベーターの中で交わした甘い口づけの余韻など、ここにはもう一片も残っていない。
今漂うのは、恐ろしく冷え切った空気。
背筋を這い上がるような圧倒的な寒気だった。

「そんなに騒がなくても…すぐに目を覚まさせてやる」

司は、蓮の監視役としてベッド脇に立っていた大柄な部下へ顎で小さく合図を送った。
男は無言で部屋を出ていき、やがて水で満たされた重そうなガラスのピッチャーを携えて戻ってくる。
それを受け取った司の手元には、ゆらりと光を反射させる透明な水の輝きが揺れていた。

司は静かにベッドへ歩み寄ると、手にしたピッチャーを蓮の顔へと躊躇なく傾けた。

バシャッ──と冷たい水が一気に浴びせられ、シーツも蓮のワイシャツもたちまちずぶ濡れになる。

「起きろ、蓮。仕事だ」

冷ややかな声が部屋に落ちると同時に、蓮の瞼がゆっくりと薄く開いた。
ふわふわと宙に浮いたような、ぼんやりした意識の中、薄目の先に見えたのは天井の白い面だった。

「蓮…っ!蓮!!しっかりして!蓮!」

ゆりは必死に蓮の意識を呼び戻そうと懸命に声を震わせて呼びかける。

その声が耳に届いた瞬間、霞んだ思考のもやが一瞬で晴れ、ラウンジでの記憶が鮮やかにフラッシュバックした。

「……っゆり…!!」

蓮は目を見開くと、反射のように上体を大きく起こした。

視界に飛び込んできたのは──男たちに囲まれているゆりの姿だった。

「……蓮………」

蓮が目を覚ましたのを見て、ゆりは安堵の色を浮かべ、震える声で名を呼んだ。

その表情を捉えた瞬間、蓮の胸の奥で激しい怒りが爆ぜる。

「……その薄汚ねぇ手を……ゆりから離せっっ!!!」

飛び掛かろうとした刹那、ベッド脇に控えていた大柄な部下が素早く背後から蓮を制する。

「ぐっ……!」

ズキンッと頭を刺すような痛みが走る。
突然激しく動いた為か、同時に視界がグラリと歪む。
司に煽られた酒の残滓が、まだ体の自由を奪っていた。

「……っ司!!悪ふざけも大概にしろよっ!!」

蓮は霞む意識を振り払うように、頭を大きく振って司を睨みつけ、怒りの声を叩きつけた。

司は一瞬だけ蓮に視線を向けるが、その声を無視すると、代わりにゆりを押さえつけている二人の部下へ顎で命じた。

「ほら、持っていけ」

その指示で、男たちはゆりをふわりとベッドの中央へと移動させる。
蓮の正面で男たちに囲まれ、逃げ場を奪われたまま、背後からの圧に抗えず、視線を伏せたその姿勢は、まるで跪かされているかのようだった。

蓮はそれを呆然と見下ろす。
アルコールの作用で完全には動けないが、胸の奥では怒りの火柱が消えていない。

「やめろっ!ゆりを離せ!!」

掠れた声で叫ぶ蓮に、司は冷ややかに微笑を浮かべ、衝撃的な言葉を放った。

「……望み叶えろよ、蓮」

「……っ!!!!」

蓮とゆりの動きが同時に止まる。
目を見開いた二人の表情が、一斉に司へと向けられた。

「お前…未練タラタラだよなぁ?」

司はゆっくりと立ち上がり、獲物を弄ぶ獣のように低く笑う。
言葉の刃が、胸の奥を鋭く抉る。

「喉から手が出るほど…欲しくてたまらないんだろ?」

司の瞳は妖しく光を帯び、口元には冷酷な笑み。
その声は命令、じわじわと蓮の全身を縛り上げていく。

「ほら…頭がおかしくなるほど悲願してきたんだろう?」

ぞっとするほど冷たい声音。
まるで玩具にした二人の反応を愉しむかのように、司は言葉を畳み掛ける。

「それなら今ここで、見せてみろよ!!」

嘲笑と狂気が入り混じる司の言葉は、ゆりと蓮の心を同時に凍り付かせた。

「……お前……正気かよ……」

驚愕と怒りに滲む声が蓮の喉から絞り出された。
だが、司は首をわずかに傾け、まるで心底愉快だと言わんばかりの薄い笑みを浮かべる。

「俺は正気だ。寧ろようやく目が覚めたんだ。これまでの甘ったるい幻想から…現実へな」

冷徹な響き。
それは一見すると理路整然としているが、瞳の奥に燃え立つのは狂気の光だった。
蓮は歯噛みし、声を荒げる。

「いや、わかんねぇよ…!なんでこんなことする必要があるんだよ!」

司はゆっくりと胸を張り、顔を歪めるように笑った。
声にはもはや理性の痕跡はない。

「お前には一生わからないだろうな。俺は…彼女に逆らえないんだよ。どれだけ求めても、俺の前では決して崩れない」

声色は落ち着いているのに、その言葉には執念と悔しさがにじむ。

「……それなのに」

司は唇を歪め、蓮を鋭く射抜いた。

「お前は簡単に……彼女の弱さも、従順さも……暴かせて、さらけ出させて、その全部を掠め取っていく…」

司の顔に歪んだ光が宿り、次の瞬間司の声が爆ぜた。

「許せないんだよっっ!!全部、俺のものにしなきゃ……俺はもう狂いそうなんだ!!」

蓮は息を呑む。
目の前の男の声は叫び、怒りを露にしているのに、どこかもの悲しく聞こえる。

「……狂ってるよ…….お前。」

蓮が鋭い眼差しで睨み返すと、司はゆっくりと唇の端を吊り上げた。

「狂っていて結構だ。彼女の全ては俺のものだ。そうだろう?」

沈黙を切り裂くように、司は冷酷な声で突き放す。

「得意だろ?ゆりを追い詰めて心の奥まで壊すのが…お前にしか出来ないんだよ!!」

その言葉は命令というより呪縛。
嘲笑と嫉妬、そして愛と狂気が入り混じった刃のように、蓮とゆりを切り刻む。

ゆりは声を失ったまま、ただ震え、俯いている。
その姿ひとつが、蓮の胸に痛烈な衝撃を与えた。



「……………………そこまで…言うなら……」



静かな声でそう告げた蓮は、司を睨み据えていた鋭い視線をゆっくりと外し、目の前のゆりへと移した。

ゆりは蓮の口元から漏れたその言葉に驚き、顔を上げた。
驚愕と哀願が入り混じる潤んだ瞳で蓮を見上げ、声を震わせて縋りつく。

「……蓮……やめて……」

弱り切った表情に、必死の懇願。
その姿を目にした瞬間、司の口元にニタリと嘲笑が浮かんだ。

やはり蓮だ。

この女を揺さぶれる唯一の鍵。
蓮が動けば、彼女は抗えない。
そして蓮自身は俺に逆らえない。

完璧な力の構図。
最強の支配の図式が、ここに成立した。

司の瞳は妖しく光り、心の奥底で狂気が熱を帯びて膨れ上がっていく。

蓮は固められている身体を左右に捩じらせながら、司へ顎で合図を送った。
その合図を受けた司は、部下へと視線を流し、静かに首を縦に頷く。

次の瞬間、蓮の脇を固めていた筋肉質な腕からするりと力が抜け、拘束が解かれた。
自由を取り戻した蓮は深く息を吐き、すぐに視線をゆりへと向ける。

震える唇、潤んだ瞳。
その頬へ手を伸ばし、ゆっくりと顔を近づける。

「……やだよ……蓮……」

涙に濡れた瞳は、胸を締めつけるほど愛しい。
ゆりの泣き顔は堪らなく可愛くて、嫌がる仕草は大好きだ。

触れたい。
抱きしめたい。
その唇に重ねたい。




だけど、今は違う。




ガンッ!!

鈍い衝撃音が室内に響いた。
次の瞬間、男たちの動きが一瞬だけ乱れ、ゆりを縛っていた力がわずかに緩む。

蓮は反射的にゆりの腕を引き寄せ、庇うように身体を前へ出した。
だが、その動きはあまりにも一瞬だった。

直後、背後から強い力が加わり、蓮の身体は再び制圧される。
抗う間もなく、腕を封じられ、上体を押さえつけられた。

「っあ"ーーっ!!くっっそ!!」

息を詰めた短い声が吐き捨てられ、蓮の自由は再びあっけなく奪われた。

「くだらない真似はやめろ。無駄な抵抗をしても時間の無駄だ。」

司はフッと鼻で笑いながら余裕の表情で優越感を滲ませる。

「………出来ねーよ…」

蓮は短く吐き捨てるように応えた。
その言葉に司の眉がぴくりと動く。

「…あ?」

司の鋭い視線が突き刺さるが、蓮の顔には怯えはない。
むしろ、掴みかぶさる状況のなかでも、揺るがぬ決意が漲っていた。

「お前が何を言おうと!!俺はもう絶対にゆりを傷つけない!!!」

その声は、抑えられた身体から絞り出された叫びのように響く。
蓮は真っ直ぐにその意思を司へと強く叩きつけた。

空気が一瞬凍りつく。
司の瞳が細まり、低く冷たい声が落ちる。

「……お前、消されたいか?自分が何を言ってるか分かってるのか」

単なる脅しでは無く、これまで実際に数多の人間を消し去ってきた司の口から出るその言葉には、命令でも死刑宣告でもあるような重さがあった。
その威圧感は、誰もが膝を折る重圧だった。
だが蓮の胸には、恐怖と同時に、燃え盛る怒りと守るべきものへの固い決意が残っていた。

「……ゆりは司を選んだんだ…お前といることが、ゆりの幸せなんだと思ってた。だから…俺は諦めようとした!!」

吐き出す声には、怒りと同じくらい、押し殺してきた哀しみが震えて混ざっていた。
ゆりのために、自分の気持ちを呑み込んだ過去。
その決断を、今この瞬間、吐き出すように蓮は言葉を重ねる。

「それなのに……」

視界の端で、拘束されたゆりの頬を伝う涙がきらめく。
その光景に、胸の奥底から沸き上がる感情が、もはや抑えられなかった。

「お前はゆりのことを、何ひとつ大事にしてねぇじゃねーか!!!」

最後の叫びは、怒号となって空気を震わせた。
司を睨みつける蓮の眼差しは、恐怖も打算も一切消え失せ、ただゆりを守ろうとする一心に燃えている。

一方の司は、その言葉の刃に胸の奥を抉られたかのような表情を一瞬浮かべ、その場で静かに固まった。
権力でも、快楽でも、決して従わせられないもの。
蓮の言葉には、確かに「誠実さ」という刃が宿っていた。

「……蓮…っ」

ゆりの声は、張り裂けるように胸の奥からこぼれ落ちる。
胸がぎゅっと締め付けられる、
目の前の男の言葉が、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも自分の心に届いてしまったから。

その空気を、司の冷たい声が無造作に切り裂いた。

「据え膳だぞ?…欲しくないのか、あれほど渇望していた彼女の身体が」

まるで試すように、挑発するように。
その瞳には、狂気と執着が絡み合い、底知れぬ暗さが宿っている。

だが蓮は、微塵も揺らがなかった。
ただ静かに、力強く、真っ直ぐに司を見据え、低く響く声で言い放つ。


「俺が欲しいのは……ゆりの心だよ、司。」


その一言が落ちた瞬間、空気が一変した。
熱気でも冷気でもない、ただ圧倒的。

“真実の愛”

その響きが、重く静かに部屋を満たしていく。
挑発や支配では決して壊せないものを、真正面から突きつけられた衝撃。

ゆりの胸はドクンと大きく跳ね、熱い涙が込み上げる。

全てを壊された恐怖と屈辱のあの日以来、過去のトラウマに縛られてきた心に、初めて差し込む光のような言葉だった。

身体ではなく、自分の「心」を欲しいと言われたのは初めてで。
その言葉の温かさに、ゆりはどうしようもなく心を揺さぶられる。

蓮の表情は真剣そのものだった。
軽薄さも冗談も一切ない。
ただ一途に、ひたすらに目の前の彼女を守ろうとしている男の顔。
ゆりには、その真実の愛が痛いほど見えてしまった。

ブチィッッ──!!

空気を裂くような音とともに、司の中で何かがちぎれた。

「……くっ!」

蓮の、真実の愛を突きつけられた司は、悔しさと嫉妬に燃え、ついに暴走する。
頬がひくりと痙攣し、奥歯がギリギリと軋む。

「……もういいっっっ!!利用価値の無いお前は、この社会から抹消してやる!!!!」

怒号を響かせると同時に、司は鋭い視線でゆりの両サイドを押さえつける部下を指し示した。
その指先は怒りに震え、命令の刃を振り下ろす。

「お前とお前、代われ」

顎で指示を飛ばす司。
短い沈黙が落ち、部下たちは互いに一瞬だけ視線を交わす。

「……え、私ですか」

戸惑う声に、司の冷たい叱咤が重なる。

「さっさとやれ!!!お前らで、この女の心を叩き折れ!」

その一言で、部屋の空気が氷のように凍りついた。
部下は拒否権など無い事を悟り、顔を伏せて低く答える。

「……かしこまりました」

「ふざけんな!!やめろ司!!」

蓮が暴れながら叫ぶ。
部下の手がその背中をがっしりと抑え込み、床へと押し付けた。

「引きずり降ろせ!!!!」

司は人差し指を横へ大きく振り、蓮をベッドから降ろすよう命じる。
その動作はまるで見えない縄を振り下ろすように冷酷だった。

「……嫌あぁ……!やめて……っ!」

ゆりの悲鳴が部屋の空気を裂く。
二人の男が立ち位置を変え、空間そのものから逃げ道を消した。

一方、もう一人の部下は、ベッドから降ろされた蓮を部屋の隅へと引きずり、後ろから羽交い締めにしてガッシリ離さない。
蓮の全身の筋肉が抵抗で震えるが、その巨体はびくともしない。

その瞬間、ゆりの脳裏をよぎったのは、
「ここで何かが起きれば、もう二度と戻れない」という確信だった。



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