狂気の魔法

第39話 姫と怪物


それから月日は静かに流れた。

病院へ向かう道すがら、初期は梅雨の湿気にまとわりつくような空気を感じていたのに、いつの間にか蝉の声が響き渡り、汗ばむ日差しに眩しさを覚えるようになった。
そして今は、朝晩に吹く風が少しだけ冷たくなり、空の色に秋の深みを帯びている。

「蓮ーっ!おはよー!」

個室の扉を開けるなり、ゆりはいつものように明るい声を響かせ、迷いなくベッド脇へ駆け寄った。

「…………」

返事は、いつもと同じく、ない。
それでも彼女は笑顔のまま、少しだけ弾む声で続けた。

「今日からね、ストーリーテイルハロウィンの初日なんだ!だから今日は来園者の数、半端ないだろうなぁ〜」

荷物を置き、タオルや衣類を手慣れた様子でベッド脇の棚へとしまっていく。
まるで毎朝のルーティンのように、決まった動作。

「現場が立て込んでると思うから、今日は遅番だけど、少し早めに行こうかと思うの…蓮はどう思う?」

その声は冗談めかしているのに、どこか寂しさを隠し切れていない。
ゆりはいつものようにベッド脇の椅子へ腰をかけると、蓮の手をそっと握り、ゆっくりと身体をもたれかけさせた。

「…ねぇ……私がいつもより少し早くここを出たら、寂しい?」

「…………」

返事はない。
けれど、ゆりは決して話し掛けることをやめなかった。
早番の日も、遅番の日も、非番の日は朝から夜まで一日中、蓮の側にいて、手を握り、声を掛け、祈り続けた。

ふと視線が窓際へと移る。
白い光に照らされた胡蝶蘭の花弁が一つ、静かに床へと落ちていた

──また……落ちてる。

ゆりの胸の奥に小さな痛みが走った。
その小さな変化が、時の流れと残された猶予をひそやかに告げていた。

あの事故から間も無く、三ヶ月が経過しようとしている。

タイムリミットの鐘が近づくたびに、ゆりは日々、焦る気持ちと共に、縋りつくような気持ちに駆られる。

それでも絶対に諦めたくない。

ゆりは立ち上がり、窓際の胡蝶蘭へ歩み寄った。

花が落ちるタイミングは急速で、まるで示し合わせたかのように、ここ数日で劇的に花の数は減っていく。
ひとつ落ちるたびに、胸の奥で“蓮に会いたい”という思いが強く、痛く膨らんでいった。

ゆりは霧吹きを手に取ると、祈る気持ちで根元のミズゴケに、優しくそっと水を吹きかけた。

「お願い…まだもう少し………あなたも頑張ってね………」

胡蝶蘭へ向けて、ゆりは瞳を潤ませ、苦しい表情を浮かべながら切なげに声を掛けた。






その日は、同僚から急にシフトを代わってほしいと頼まれ、思いがけず非番となった。
ゆりは迷わず蓮の病院へと向かった。

いつものように特別病棟の廊下を歩き、蓮の個室の扉に手をかけた、そのときだった。
扉は完全に閉まっておらず、中途半端に隙間が空いている。

(……あれ……誰かいる?)

ふと胸騒ぎがして、ゆりは足を止める。
部屋の中から確かに人の気配が漂っていた。
そして次の瞬間、ゆりの耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある声だった。

「……死ぬなよ………蓮………」

その声の響きに、ゆりの心臓はドクンと大きく跳ねた。
忘れられるはずもない、あの優しい声。
息を呑んだまま、ゆりの身体は扉の前で硬直した。

(なんで……司が…………)

瞬時に脳裏にフラッシュバックする、あの恐怖の記憶。
ドクンドクンと心臓が喉元まで競り上がり、口から飛び出しそうになる。

司は蓮を憎んでいたはず。
さっきの呟きは司の真意なのか。
それを…確かめたい。

ゆりは拳を握りしめ、瞳に強い光を宿すと、意を決して個室の扉をスライドさせた。

「……っ!!!」

開いた瞬間、司は振り返り、ゆりの突き刺すような鋭い視線と交錯した。

「……どうして…っ今日は勤務のはずじゃ……」

司の声は驚きと動揺が混じっていた。
ゆりは何も言わず、静かに部屋へ足を踏み入れる。

「…………もしかして……時々来ていましたか」

声は震えながらも真っすぐに司へ向けられた。
病室の空気は、今にも破裂しそうなほど緊張に満ちていた。

「………っ」

ゆりの問いに、司は顔を歪めて俯き、押し黙った。
その沈黙が、かえって何より雄弁に見えた。

「……どういうつもりですか」

ゆりは声を震わせながらも、畳み掛けるように問い詰める。
病室の空気は重く沈み、時間が止まったかのようだった。

しばしの沈黙のあと、司は力が抜けたように膝から崩れ落ち、床へと手をついた。

「……大変……っ申し訳ありませんでした…………」

その声は、これまでの司からは想像もできないほどか細く、ひび割れていた。
突然の光景に、ゆりは言葉を失う。

「……あなたにも………っ取り返しのつかない事を……してしまいました…っ」

床に額をつけ、両肩を震わせる司。
その姿は、威圧と支配の象徴だったあの夜の姿とはまるで別人で、目の前の現実が信じられない。

パニックのように思考が空回りし、今はただこの空間を終わらせることしか頭に浮かばなかった。

ゆりは息を詰め、扉の方へ身を翻すと勢いよく個室の扉をスライドさせて、咄嗟に言葉を吐き出した。

「……出て行って貰えますか」

扉の隙間から、冷たい空気が流れ込み、二人の間に線を引くようだった。

顔を上げた司の瞳からは、大粒の涙があふれていた。
強張っていた表情は崩れ、深い苦悩がその面差しに刻まれている。
その姿を見た瞬間、ゆりの胸は鋭く締め付けられた。

司は力なく立ち上がり、足元を確かめるようにゆっくりと個室の出口へ向かう。
その背中はかつての威圧感を失い、今にも崩れ落ちそうなほど弱々しかった。

廊下に一歩出たその時、ゆりが扉を閉めようとした瞬間、低く押し殺した声が落ちた。

「……なぜ……警察に言わなかったんですか……」

その問いかけは、責める響きではなく、むしろ自らを裁く響きだった。
どれほどの後悔と罪責を抱えているか、その一言で伝わってくる。
司は、裁かれてしかるべきだと、自分自身を告発しているのだと、ゆりは悟った。

「……事故の直接の原因は…あなたには関係なかったので、伝える必要がありませんでした」

ゆりの口から出たその言葉は、気がつけば司を擁護する響きになっていた。
なぜそんな風に返してしまったのか、自分でもわからない。
ただ、胸の奥に溜まった複雑な感情が、ゆりを動かしていた。

司はその言葉に肩が小さく震え、何かを言いかけたように見えたが結局、口を開くことはなかった。

そして司は、ゆりに背を向けたまま、ゆっくりと廊下を進んでいった。
その歩幅は重く、まるで罪悪感という鎖を引きずっているようだった。
背中が小さくなり、やがて病棟の角へと消えていく。

ゆりは扉の縁に手を置いたまま、その背を見送っていた。
胸の奥で何かが軋む音がして、喉の奥に熱いものがせり上がってくる。

(…司……。)

名前を呼ぶことは出来なかった。
ただ、静まり返った個室に、ゆりの鼓動だけが早鐘のように響いていた。







その後、ゆりの祈りも虚しく、無情にも現実は刻一刻と迫っていた。

事故からちょうど三か月目を迎えるタイムリミットまでの最後の夜が、いま目の前にあった。

病室の静寂に、二人の声だけが響き続ける。
ゆりと蘭子は一晩中、眠る蓮に話しかけ続けた。

「なんで…っ目を覚まさないのよ!!このバカ息子!!!」

蘭子の声は、泣き叫ぶように震え、母親の強さと脆さが入り混じっていた。

「蓮…っいつまでも寝てないでよ!!!お願い!!起きてよ、蓮!!」

ゆりの声も嗚咽に変わり、かすれてもなお、その名を呼び続けた。

二人の必死の呼びかけは、深夜の病室に反響し、時計の針が刻む音と混じって、どこか遠い世界に吸い込まれていくようだった。

やがて、ゆっくりと夜が明けていく。

薄明かりがカーテンの隙間から差し込み、白い壁を淡く照らし出したそのとき。

ついに迎えた、三か月目の朝。




蓮は、目を覚まさなかった。




午前九時。
病室の扉が控えめにノックされ、担当医が静かな足取りで入ってきた。
その表情には、過酷な通達を告げる者だけが持つ重い影が宿っていた。

「……意識の回復は……ありませんでしたか…………」

落とされた医師の声は、冷たくはないのに、凍りつくように重く響き、病室の空気をさらに沈ませていった。

医師は、いつもの回診のように蓮の全身状態を丁寧に確認していった。
モニターの波形、点滴のライン、ひとつひとつを確かめるその仕草は淡々としているのに、そこに宿る緊張感だけが異質だった。

やがて診察を終えると、医師は二人へ目線を移し、ゆっくりと個室内のソファへ促した。
母親とゆりは言われるままに腰掛け、張り詰めた空気の中、医師の言葉を待った。

「……それでは、今後についてお話しいたします。」

深呼吸をひとつ置いてから、医師は静かに切り出した。

「3か月を超えて植物状態が続いておりますので、残念ながら、ここから蓮さんの意識の回復は著しく困難と考えられます。」

その声は決して冷たくはない。
むしろ深い誠意を帯びているのに、言葉そのものが刃のように二人の胸を突き刺していく。

「その後は医療的なケアで命を繋ぎながら生活が続くか、あるいは感染症や心臓のトラブルなど合併症によって命を落とされる方も少なくありません。
植物状態だから必ず心肺停止するわけではありませんが……全身の衰弱から心停止に至るリスクは高いです。」

その一言一言は、蓮の“死”をじわじわと現実のものとして突きつけてくるかのようだった。

「そして今後についてですが、延命治療をどこまで続けるかという判断は、最終的にはご家族のご意向に委ねられます。私たち医療側から『やめましょう』と中止を提案することはありません。人工呼吸器や経管栄養を続ければ命をつなぐことは可能ですが、それが本人にとって望ましい選択なのか、またご家族がどのように考えるか……その点を、今後ゆっくりとご相談いただくことになると思います。」

淡々とした説明の声が、ゆりの耳の奥で遠くにこだまする。
意味は理解できるのに、頭の中が真っ白で、何一つ掴めない。
夢も希望も、すべてが剥ぎ取られていく、そんな感覚だけが、胸の奥に重く沈んでいった。

「あの……」

重苦しい沈黙の中、ゆりがか細い声で口を開いた。
その声は震え、胸の奥に押し込んでいた想いが滲み出ている。

「可能性が……限りなくゼロだとしても……」

息を詰まらせ、両手を膝の上で握りしめたまま続ける。

「これから先、どんな些細なことでも、それでもまだ、私が蓮のために何かできることはありますか……」

医師は一瞬だけ目を伏せ、静かに頷いた。

「……医学的に確かな根拠があるわけではありませんが、声を掛けることは良いといわれています。これまで通り、沢山話し掛けて…それに、音楽なんかも効果的だと……まぁジンクスのようなものかもしれませんが。」

「…音楽……ですか……」

ゆりの小さな呟きは、小さな希望のような色を帯びて病室に溶けていった。

担当医が病室を去った直後、ゆりの視界の端で、窓際の胡蝶蘭の花がハラリと音もなく床へ舞い落ちた。

蘭子は小さく息を呑み、静かに歩み寄る。
そして、今落ちたばかりの花弁をそっと拾い上げた。

これで、残されたのは、いよいよ最後の一輪だけとなった。

「……この子だけは……まだ頑張って咲いているのね……」

蘭子の視線の先には、最後の胡蝶蘭が窓辺でかろうじて茎に繋がっていた。
花弁の輪郭は波打ち、色はピンクから透けるように白く色褪せて、命の光が少しずつ抜け落ちていく。
それでも、中央のリップ部分だけはまだ鮮やかで、そこに最後の力を宿しているかのようだった。

俯くように首を垂れ、今にも落ちそうなその姿は、まるで、辛うじて命の糸に繋がれて眠り続ける蓮と重なって見えた。

「あのヤブ医者……蓮の延命をどこまで続けるか…私達に……委ねるなんて……」

胡蝶蘭へ視線を置いたまま、蘭子の声は涙にかすれて震えていた。
窓辺に残された最後の一輪を見つめながら、指先が微かに震えている。

「………そんなの………私達には………無理に決まってるじゃない………っ」

かすれた声の奥に、母親としての怒りと恐怖、そして深い無力感が滲む。

ゆりの視界に見えるのは、蘭子の後ろ姿だけだった。
しかし、背中に伝わる震えと、押し殺しきれず漏れる啜り泣きの音で、蘭子がどれほど泣いているかが分かった。

ゆりの頬からも、静かに涙が一筋伝い落ちる。
言葉をかけようにも、胸が詰まって声にならなかった。

やがて、長い沈黙の後、蘭子は深く息を吸い込み、涙を拭ってゆりの方へ振り返った。
その瞳にはまだ赤みが残っている。

「じゃあ私は家に戻って、色々なところへ連絡しなきゃいけないから、一旦戻るわね。何かあったらすぐに連絡してね」

努めて平静を装ったその声も、かすかに震えている。
そして蘭子は、最後にもう一度胡蝶蘭を見つめ、静かに病室を後にした。

蘭子が去った病室は、蓮とゆりの二人きりとなり、静まり返っていた。
わずかに聞こえるのは、機械の電子音と、酸素が流れる規則正しい音だけ。

ゆりはそっと、蓮のベッド脇に腰を下ろし、その顔をのぞき込む。
細くなった手の甲に、自分の指先を重ねると、ほんのり冷たさが伝わってきた。

(……音楽………)

さきほどの医師の言葉が、ふと胸の奥で蘇る。

「なにがいいかな…」

小さく呟きながらスマホを開き、アーク作品のソングリストをスクロールする。
タイトルの文字列をなぞる指がふと止まった。

(……映画みたいに…身体が…光に包まれて…王子様に…変身…できたら…な…)

意識を失う直前、蓮が吐き出したあの最後の言葉が、胸の奥を貫く。
あのときの声、あのときの笑みが、鮮明に甦る。

「……〜♪」

そして再生したのは──



映画『姫と怪物』



おとぎ話「美女と野獣」からアークグローバルエンターテイメントが作品にした映画の主題歌。

蓮と一緒に、ゆりが幼い頃から好きだったアニメの実写版を映画館で観た、思い出のメロディだった。

澄んだ音色が病室いっぱいに広がり、白い壁に柔らかく反射し、まるで空気ごとやさしい光に変えていくようだった。


丁度、一年前くらいだった。


蓮と映画を見に行ったあの時も、今と同じようにルミナリアはハロウィンの装飾でいっぱいで、どこもかしこもオレンジと紫の光がきらめいていた。
二人は子どもみたいにあちこちで写真を撮って、手を繋いで、笑いながら映画が始まる時間までお店を巡った。
あのときの温もり、あのときの光景が、今のゆりの胸に鮮やかに甦る。

「……また行きたいな………蓮と…ルミナリア……」

小さくこぼれたその言葉は、誰に届くでもなく病室の空気に溶けていく。

「〜〜♪」

ゆりは蓮の手を握りながら、いつものようにその身体にもたれかかり、流れる音楽に耳を澄ませた。
静かなメロディが、ゆりの記憶と今を優しく繋ぎ合わせるように、そっと病室に響いていた。



ねぇ、蓮。

思い返せば、私はいつも蓮に助けてもらってばかりだったよね。



(ヤッホー!ぼくノア!私リラよ!どうして泣いているんだい?このままじゃ、今日が悲しい物語になっちゃう。だから僕がハッピーエンドのページに書き換えてあげるよ!)

(馬鹿かお前。これでもパークの経営責任者だぞ?どんな時でも、常に来園者がどうしたら喜ぶのか、何をすれば笑顔になるのか知ってて当たり前だろうが)

(ピンチの時こそ、新しい道を切り開くぞ!雷は物語を壊すためにあるんじゃない。新しいページを照らすためにあるんだ!!」

(こういう時は落ち着いてお客をよく見ろ、お客をよく観察しながら、来園者達が今何を求めているか、俺たちは来園者達の為に何が出来るか、それをよく考えろ。俺も一緒に考えるから)

(……ゆりは司を選んだんだ…お前といることが、ゆりの幸せなんだと思ってた。だから…俺は諦めようとした!!それなのに!お前はゆりのことを、何ひとつ大事にしてねぇじゃねぇか!!!)

(必ず助けるって言っただろ。何があっても俺が絶対に守るからって)


音楽に乗せて、蓮に助けてもらった一つひとつの沢山の思い出が、走馬灯のように胸の奥に押し寄せてくる。
ゆりは堪えきれず、蓮の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らして泣いた。

(さぁ、そろそろ君の願いを叶える時間が来たようだね)

(ほんとに?ほんとに叶うの?)

(もちろんだよ。キヨトくんが物語を信じていればね)


「…蓮……私……っ物語を信じるよ……信じていれば……願いは叶うよね……?」


本当に、身体が魔法の光に包まれたらいいのにな──。


「〜〜♪」

ゆりは、蓮の胸に頭を預けながら「姫と怪物」の音楽に耳を澄ませ、心の底から強く願いを込める。

おとぎ話の中で、呪いが解けるときに描かれる、そんな場面を思い出すように。

ゆりは、物語の姫に自身を重ねるように、かすれた声で呟いた。

「“そんな…いやよ……”」

涙が次から次へと溢れ、声は震え、言葉の端が嗚咽にかき消される。

「“……いかないでくだ…さい…どうか…死なないで……”」

何もかもを壊された、一年前半前のあの日。
トラウマによって凍てついた心は、復讐心に駆り立てられた。

「“私をひとりにしないで…お願い…”」

いつの間にか、凍ったままの心の表面に、細い亀裂が走っていた。
その心を、蓮が少しずつ溶かしてくれた。



蓮の温もりによって溶かされ、凍てついた心は真実の愛を知った。





「……あなたを愛してます…………」





──窓際の胡蝶蘭の最後の一輪が、ふわりと揺れ、落ちる花弁がスローモーションのように床に落ちた。


花言葉は、「あなたを愛してます」のピンクの胡蝶蘭。

ゆりが初めて口にした告白が、静かに蓮の全身に落ちていくように。

その瞬間、まるで何かの終わりを告げるかのように、花の命の灯火は音もなく床へと落ちていき、静かに消えた。


それは、魔法のように蓮の胸へと染み込んでいく。
音楽と涙と祈りが重なって、部屋の空気が微かに震えた。

──そのとき。





「…………ゆ……………り…………………」





掠れた、けれど確かに耳に届く声。

長い眠りに閉ざされていた蓮の唇が、ほんのわずかに動き、息が混じった声が小さく漏れた。

ゆりの心臓がドクン、と大きく跳ね、涙で濡れた瞳が瞬時に見開かれる。
バッと反射的に顔を上げ、蓮の顔を覗き込み、声を張り上げた。
胸の奥から熱いものがせり上がってきて、呼吸が浅くなる。

「蓮っ!?蓮!!……蓮っっ!!」

返事は…ない。

でも確かに聞こえた。
小さくて掠れた声だけど、確かに蓮の声だった。

「蓮……!!お願い!!起きて蓮っっっ!!!!」

このチャンスを逃したら、全てがお終いな気がして、ゆりは必死で蓮の身体を揺さぶり、泣きながら叫んだ。
喉が焼けつくようで、涙が頬を滑り落ち、声が嗚咽に変わる。

空耳だったの……?
夢だったの……?




「戻ってきてよ!!!!蓮!!!!」




その瞬間。

静止した世界が、ゆっくりとほどけるように動き出す。

蓮のまぶたがわずかに震え、呼吸がかすかに深くなる。

そして——

ゆっくりと、薄く、蓮の目が開いた。


「っっっ!!!!!!」


胸の奥で破裂するように叫びがこみ上げた。

空耳じゃなかった。
夢じゃなかった。

確かに蓮の身体が反応を示した。

その瞬間、ゆりの全身に一気に鳥肌が立ち、頭の奥が真っ白になった。

「…っ蓮……っ!!」

信じられないというより、信じたい一心で、ゆりは震える両手を伸ばし、彼の頬に触れた。

だが、すぐに蓮の瞳は再び静かに閉じられてしまう。

「っ……やだ…いやだいやだ……!!」

希望の光が指の隙間からすり抜けていくような恐怖に、全身が震えた。
胸の鼓動が早鐘を打ち、血が逆流するような感覚のまま、ゆりは反射的に動いた。

震える手ですぐさま、タッチパネルのナースコールを何度も何度も連打した。
ピピピッ、ピピピッ、と乾いた電子音が病室に響き、静まり返っていた空気が一変した。


< 39 / 61 >

この作品をシェア

pagetop