狂気の魔法

第41話 恋の終わり


そして、二人は愛を育みながら努力の日々を重ね、蓮の意識回復から三ヶ月が経過していた。
年末を迎え、世間は師走の慌ただしさに包まれている。

この頃には、蓮の会話や記憶はほぼ元通りと言えるほどに回復し、医師からも「いよいよ退院を視野に入れても良い段階です」と告げられるようになっていた。

ゆりは相変わらず、毎日病室へ足を運んでいる。
早番を終えた足でそのまま病棟に向かうのは、もはや“帰宅”に近い習慣だった。

「あ、お帰りなさい早瀬さん」

ナースステーションの前を通ると、看護師たちがすっかり馴染んだ笑顔で声を掛けてくれる。

「斎藤さん!ただいま!」

ゆりも笑顔で手を振り、明るい声を病棟に響かせる。
そして、蓮の個室の扉をスライドさせた。

「……蘭子さん!」

「あら、ゆりさんお帰りなさい」

病室には、蓮の母・蘭子の姿があった。
彼女は二人がリハビリに励む日々の中、頻繁に病室を訪れては必要なものを届けたり、さりげなくサポートをしてくれていた。

「え、パソコン?蓮、なにしてんの?」

ベッドの上、蓮は蘭子が持ってきたノートパソコンを開いていた。
その指先はまだぎこちないものの、確かにキーボードを叩き、画面にはいくつかの資料が映し出されている。

「もう4月から周年アニバーサリーが始まるでしょ?最終段階だったイベント企画、蓮なしで進んでた箇所だけ一応チェックしてもらってるのよ」

蘭子は、まるで何でもないことのように淡々と口にした。
一方、ゆりは思わず目を瞬かせて、その横顔を見つめる。

「え、ちょ…もう仕事してるんですか?」

半ば呆れ、半ば心配混じりの声。
けれどその問いかけも、ベッドに腰かける蓮の耳には届いていない。

「ねー、これさぁフロートの順番変えた方が良くね?なんで、バニーズの後にキャンディラビット持ってきたら動物かぶりじゃん」

蓮はリニューアルパレードの構成資料を開き、画面に映る内容にぶつぶつと文句を言いながら、もう片方の手でスマホを取り、どこかに電話をかけはじめた。
まだ細い指がキーボードを打つたび、軽い電子音が小さく響く。

「…はぁ……」

ゆりは小さく溜め息をつきながらも、その姿を見つめた。
驚きと呆れと、そして胸の奥からじんわりと湧き上がる安堵。
ほんの数ヶ月前には想像すらできなかった“日常”の欠片が、こうして少しずつ戻ってきている。

胸の奥に、温かいものが広がっていった。

「じゃあゆりさん来たし、私戻るわね」

蘭子はそう言って、電話に夢中の蓮の正面に手の平をヒラヒラさせて「帰るね」と合図を送った。
蓮も耳にスマホを当てたまま、片手だけを上げて会釈する。

扉が閉まると、病室にはゆりと蓮だけが残された。

蓮は電話相手の部下へと次々と指示を飛ばしていた。
声はまだ少し掠れているが、息継ぎの間も惜しむように指示を重ねながら、パソコン画面を操作し続ける姿は、完全に“現場の鳳条蓮”だった。

ゆりはベッド脇の椅子に腰を下ろし、ただその横顔をじっと見ていた。
長引くやり取りに「まだ終わらないのかな」と内心ため息をつきながらも、彼が再び仕事に打ち込めるまで回復したことに安堵もしていた。

ようやく通話が途切れ、「終わった」と思った瞬間。

蓮はスマホを机に置き、今度はノートパソコンに視線を落とした。
そして、何事もなかったかのように指先をキーボードに走らせ、再び無言で資料修正作業に入る。

ゆりは、張り詰めていた気持ちが一気に溢れ、矢も盾もたまらず、パタン!と音を立てて蓮のパソコンを閉じた。

「何だよ!」

驚いた蓮が眉を上げる。

「つまんない!トランプしよっ」

子どもみたいな笑顔で言い放つゆり。
長い電話の間ずっと待たされ、やっと二人きりになれたのに、また仕事に戻ろうとする蓮が悔しくて仕方なかった。





「革命返し!」

「わー!終わった…え、またジョーカー2枚?」

「俺、引き良いんだわ」

「うざ」

三等分に配ったカードを二組使って、二人は大富豪に夢中になっていた。
ベッドの上に広げられたトランプを前に、子どものようにはしゃぎながら笑い合う。
病室はゲームの掛け声と笑い声で満ち、さっきまで仕事の空気を漂わせていた蓮の表情も、今ではすっかり柔らかくなっている。

そんな穏やかな空気を破るように病室の扉が静かにスライドされ開いた。

「………!」

開かれた扉から姿を現した人物に、ゆりも蓮も驚愕した、

「……司……」

蓮の口から漏れたその名は、半年前の事件以来、誰の前でも決して口にされなかった言葉だった。

ゆりの瞳に緊張が走る。
蓮は確かに、はっきりと司を認識していた。

「……蓮……っ」

司の声が震える。
病室に足を踏み入れると同時に、その目には涙が滲んでいた。

ゆりは息を呑み、胸の奥がざわめく。
事故直前、司との間に起きた事件。
それはゆりにとって禁句として、これまでの蓮との会話に一切触れて来なかった。

二人の間であの出来事を、もう無かった事に出来るなら、それで良いと思った。

その名を今、蓮の唇が呼んだことに、心臓を鷲掴みにされたように締め付けた。

「……良かった……本当に……」

司は絞り出すように言葉を洩らすと、蓮のベッド脇に近づき、片膝をついた。
蓮の視線の高さを下げさせるように、司は静かに蓮を見上げた。

「……誤って済む問題ではないことは…わかっている……本当に……全て後悔している……」

司の声は震えていた。
張り詰めた低音が、病室の空気を一層重くする。

その言葉がこぼれるたびに、ゆりの背中には冷たいものが這い上がる。
蓮は、事故直前のあの出来事を、どの程度覚えているのか。
心臓が不安に掴まれる。

「………まさか……あんな事になるなんて……」

司は苦渋に顔を歪めた。
そして司はゆっくりと立ち上がり、姿勢を正す。
背筋を伸ばしたまま深々と腰を折り、まるで全てを差し出すように丁寧に頭を下げた。

「本当にすまない……大変申し訳なかった……蓮……」

静まり返った空間に、その謝罪の言葉が重く響いた。


「お前が謝る相手は俺じゃない。ゆりだ」


蓮の低い声が病室の空気を一瞬で凍らせた。
司は顔を上げ、ゆっくりとその視線を受け止める。

ゆりの胸に、雷鳴のような衝撃が走る。
蓮は全てを認識していた。
その現実を悟った瞬間、体温が一気に下がったように感じた。

「蓮…私はもう謝罪を受けたの」

ゆりはかろうじて声を絞り出した。

「……何度謝っても……許してもらえるとは、思っていません」

司の声はかすれていた。
ゆりの目の前で、あれほど完璧に見えた男が、今はまるで糸が切れたように弱々しい。

「本社へ異動願いを出しました。認可されましたので、今日は最後に……謝罪を伝えに来ました」

「え…っ」
「は!?」

ゆりと蓮は二人同時に声を上げた。
司の言葉が、静かな病室に落ちて爆ぜる。

「もう二度と…蓮と早瀬さんの前に姿を現すことはありません」

司はそう言って、深く頭を下げた。
その姿に、蓮とゆりの胸の奥がざわめく。

「…ちょ、ちょっと待て」

蓮の低い声が、病室の空気をピシリと裂いた。

「確かにあの日、お前がゆりにやったことは絶対に許されない。でも俺が事故ったのは、俺のせいだから」

「いえ…そもそも、あんな出来事がなければ、そうはなりませんでした」

司はゆっくりと首を垂れ、再び俯いた。

その姿に、蓮の胸の奥がざらつく。
怒りとも悔しさともつかない感情がこみ上げ、唇の奥で小さく軋んだ。

「……司は勝手だな。いつまで経っても…結局いつもそうだ」

司は顔を上げ、戸惑ったように小さく眉を動かした。

「……?」

蓮は視線を司からゆりへと移し、そのまま真っ直ぐ見つめた。

「……ゆりは?ゆりはどうしたい?」

唐突に向けられた問いに、ゆりの心臓が大きく跳ねる。
一瞬、喉が詰まり、言葉が出てこない。
目の前には、今まで背負い続けてきた過去と、今守るべき現在が並んでいる。

ゆりは震える唇をぎゅっと噛み、目を伏せた。

「……私は……蓮の思うままに」

その声は、かすれて小さいのに、確かに二人の胸へ届いた。

そして蓮は、ゆっくりと司に向き直り、真っ直ぐにその目を射抜いた。

「……俺は…司がいないと無理だ」

「……!?」

司の肩がわずかに揺れる。

「ガキの頃から、ここまでずっと司に引っ張って貰ってきた。司が俺の道標だったのに。」

蓮の声は、怒りでも懇願でもなく、ただ決意に満ちていた。

「ゆりにしたことは絶対に許さない。だけど異動することも許さない。司は俺にとっても日本のパークにとっても必要不可欠だから」

「……!」

司の胸の奥に、何かが突き刺さるように響いた。

「代表取締役不承諾にて、本社へ異議を申し立てる。司は異動願いを取り下げろ」

その言葉は宣告でもあり、命令でもあった。
司の目に、熱いものがこみ上げる。

次の瞬間、咄嗟に司は立ち上がり、ベッドに座る蓮を抱きしめていた。

「………!」

驚く蓮をよそに、震える腕で司は必死に蓮を抱きしめる。

「………生きてて良かった…っ蓮がこのまま帰って来なかったらと思うと…本当に怖かった………ごめん…!蓮……っ」

司は、堪えきれずに蓮の肩で涙を溢した。

「……ったく!やめろよ…っ離れろって!欧米人はすぐハグするんだから…!」

押しのけるように、蓮は顔を歪めながら司の肩を押した。

「俺は日本人だ……」

「知ってるよ!欧米育ちってこと!」

ゆりはそのやり取りを見て、胸の奥がフッとあたたかくなるのを感じた。

「……私、席外してますね」

そう言ってゆりは、そっと二人に背を向け、静かに病室を出た。
扉が閉まる直前、病室の中に残ったのは、蓮と司だけの時間だった。





夜間、外来受付も全て終了した病院の一階エントランスロビーは、静まり返っていた。
フロアを照らすのは、淡い夜間照明だけ。
昼間の喧騒が嘘のように、空気は冷たく澄んでいる。

ゆりは、自販機で買ったホットコーヒーのカップを両手で包みながら、ソファに腰掛けていた。
紙カップの温もりが、指先にじんわりと染みていく。

ふと、コツ…コツ…と規則正しい靴音が廊下の奥から響く。
顔を上げると、その先に司の姿があった。

ゆりは肘掛けにカップを置いて立ち上がり、司の元へ駆け寄ると、深々と頭を下げた。

「……今日は……蓮に会いに来てくださってありがとうございました……」

「………早瀬さん……」

ゆっくり顔を上げると、司の表情が目に映った。
夜間照明に照らされたその顔は、どこか影を落としていて、苦しそうに歪んでいる。

「……あなたを酷く傷つけてしまった私が……同じ場所に居ても、本当にいいんですか……?」

あまりにも辛そうなその姿を前に、ゆりの胸も痛み、息が詰まるほど苦しくなった。

「……あなたのした事は最低です。蓮の言う通り許すことは出来ません」

静かに、懸命に冷静を保ちながら言葉を紡ぐ。
けれど、その声の奥では、自分でも押し込めてきた罪悪感がジワジワと身体を覆っていく。

「……でも………っ」

その言葉とともに、ゆりの視線は自然と司を見上げていた。
司も、次の言葉を待つかのようにゆりの瞳を見つめ、二人の視線が絡んだ。

この距離で司を目の前にすると、どうしても記憶の片隅に呼び戻されてしまう。


声も。
顔も。
背丈も。
雰囲気も。

何もかも、あの頃と変わらないから——。


「………あなただけの責任じゃない……」

喉の奥で、ひび割れるように声が揺れる。

頭に蘇ってくるのは、キラキラした幸せな夢を一緒に過ごしたあの日々。
司と過ごした、あの時間。

その断片が、夜間照明の下でゆりの胸を締めつけた。



あの頃、私は司に恋をしていた。



でも、その気持ちを認めるのが怖くて、必死に目を逸らした。
ただ我武者羅に、司を支配した。
圧倒的な支配で彼を思い通りにすることで、得られる優越感と高揚感。
その疑似的な熱で胸の昂りを錯覚させ、ずっと自分の気持ちをごまかし続けた。

彼は、私の奴隷だと。

そう信じ込もうとしていた。

「…私が……っあなたを…そうさせてしまったから……っ」

声は震え、胸の奥から絞り出される。

怖かった。
憎んでいたはずの相手を好きになるなんて。
傷ついた過去の自分を裏切るようで。

目を背けたかった。
司への叶わぬ恋を認めてしまったら、辛い結末に傷つくことが分かっていたから。

だけど多分、心の奥底のどこかで、信じていた。


いつかきっと、この手を取ってくれるかもしれないと。


そうでもなければ。


(……子どもを産んだら……離婚する……?)


あの時——。

司と一緒に行ったアメリカで、あんな言葉は口走らない。

あれは、押し込め切れずに漏れ出た私の本音だった。

きっと司と一緒になりたかったんだ。

もしもあのとき、その気持ちに素直になれてたら。
自分の気持ちを打ち明けていたら。
願いを正直に告げて。
司に可愛く抱かれていたなら。

司は、あんなふうに狂気へ追い詰められなかったのかもしれない。


「……私も…悪かったの……ごめんね……司……っ」


声は震えながら、彼の名を呼ぶ。

私を見て。
私を抱いて。
私を愛して。

私を選んで——。

あの時言いたかったのに、言えなかった。

怖くて、臆病で、言葉にすることができなかった。
その結果が、あの日の悲劇だったんだ。

「………そんな顔して……そんな事言わないでください…ゆりさん……」

“司”なんて。

あの頃と同じ呼び方をして。
そんなに辛そうな顔で。

到底許されるべきでは無いのに。
そんな言葉で、心に隙を与えてくるなんて。

また錯覚してしまう。

あの頃彼女は、自分に気持ちがあったのかもしれないと。


“ゆりさん”

その響きが、ゆりの胸に深く落ちた瞬間、あの頃の全ての思い出が、あの時の気持ちが鮮明に蘇ってしまう。



……私、あなたが好きだった。



あの時、あなたに恋をしていた。

今さら気づいて………ごめんね。

でも今はもう——



「………私…蓮を愛してる…蓮と一緒に……生きていきたいの……」


この恋に終わりを告げる。
夢のような、物語みたいな恋だった。


「……そんな素敵な言葉は……どうせなら…幸せそうに笑って…言って欲しいです………」


司の言葉に、堪えていた涙が一気に溢れ出す。

幸せそうに笑って言って欲しい。

なんて切なくて、優しくて。
なんて彼らしいんだろう。

あの頃も、彼はいつもそうだった。
沢山のロマンチックな言葉達で、いつも私の心を幸せで満たしてくれた。

「…泣かないで………」

司は泣きじゃくるゆりの涙をそっと拭った。
ゆりの涙の意味が伝わって、司は胸が張り裂けそうな程苦しかった。

別れの涙。
それを悲しむ涙。
そして何より、一緒に過ごした日々が本当に幸せだったという証の涙。



「……………最後に………抱きしめてもいいですか………」



不意に、司の口からついて出てしまった言葉。
おこがましいとわかっていても、許されないと知っていても、それでも抑えられずに零れてしまった。

「………っ」

その瞬間、ゆりは司の胸にしがみついた。
嗚咽を漏らし、しゃくりながら、縋るように泣いた。
自分でも驚くほど、溜め込んでいたものがあふれ出していく。

司は、堪えきれずにゆりを強く抱きしめた。
その腕は震えていて、ゆりの背中に伝わる鼓動が、彼自身の罪悪感と愛情の混ざった震えを語っていた。

ゆりも、司の背中に腕を回して、力を込めてきつく抱きしめ返す。




悲しい運命は、かつて想い合っていた二人を引き裂いた。

結ばれない関係。
わかっていたのに、それでも惹かれてしまった。

そんな二人の、一度きりの、最後の抱擁だった。




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