狂気の魔法

第51話 欲求


それからゆりは、その手腕を惜しみなく発揮した。
現場の最前線に立ちながら、裏方としても、これまで以上に精力的に動いた。

朝の現場ラウンドに、スタッフブリーフィング。
「今日の天候」「混雑予想」「前日のクレーム対応」「VIP来園情報」などを確認し、各セクションのSVとミーティングを重ねる。
ゆりは、現場の声を経営層へ届ける“生きたパイプ”役となった。

トラブル対応や、メディア・芸能人・スポンサー関係者といったVIPへの直接対応も行う。
サービスデスクやスタッフの接客を視察し、声をかけ、フォローし、時には現場スタッフと一緒に案内に立ち、人手の足りない場所は、どこへでも迷わずヘルプに入った。
クレーム対応にも自ら足を運び、誠意ある対応で場を収めていく。

各部署から集まる“お客様の声”を分析し、翌日のオペレーションに反映。
改善提案書を作成し、現場で拾った“スタッフの声”を本部の会議資料にまとめて報告する。

閉園後には、スタッフが残した“感想ボード”や“改善メモ”を確認し、翌朝のブリーフィングで褒めるスタッフを選出。
教育部門と連携し、「ホスピタリティ研修」を提案することもあった。

彼女は、ただ現場に立つお飾りの代表夫人ではなかった。
現場の誰よりもお客様を理解し、現場を“動かす”ディレクターだった。

蓮は経営の太陽。
ゆりは現場の光。

二人は互いに照らし合いながら、パーク全体の空気をつくり出す、確かな二人三脚の関係を築き上げていった。

もちろん、代表夫人“鳳条ゆり”としての顔も大切にしていた。
外部対応や式典、公的行事への出席も見事に両立させ、そのすべてを完璧にこなしてみせた。

これまでフード部門という狭い枠の中でしか発揮されなかったゆりの本領は、今やパーク全体を支える力として輝きを増していた。

その姿は、鳳条家も経営陣も、誰もが認めざるを得なかった。
あの時、蓮が揺るぎなく主張し、訴え続けて、最後まで信じ抜いた“ゆりの力”は、その全てを皆に納得させ、確かにこの場所で花開いていた。






「はぁ〜っ…今日、忙しかったな〜!」

就寝前の寝室。
ボスンッとベッドに飛び込みながら、ゆりは大きな溜息を漏らした。

「ディレクターになってから初の夏休みシーズン突入は、さすがに堪える?」

蓮が笑いながら尋ねると、ゆりは枕に埋めた顔をバッと上げて笑顔で即答した。

「いや?全然っ!毎日充実してて、めっちゃ楽しいよ!」

少し心配そうだった蓮も、その声に安堵して微笑む。

そしてゆりは、いつもの就寝前の習慣、ベッドで横になりながら、スマホで天気予報をチェックし始めた。

「蓮っ、大変!予想最高気温35度まで上がってんじゃん!明日今シーズン最高気温になるってよ」

「まじ?あ、そー言えばクールストーリーズサマーのミストシャワー、水量追加は間に合ったの?」

「そんなのとっくに完了してるよ。あ、ねぇねぇ明日さー救護ステーション前に日傘貸出を仮設で出す予定なんだけど、SNSで拡散される前に現場整えておきたいんだよね」

「あーじゃあ運営広報にも共有しとくか。因みに午後のピークは?」

「13時〜16時。パレードとステージショーが重なるから、動線誘導増やす。あと冷却タオルの在庫、発注してもらえる?」

「OK、在庫チームに通す。」

そんな会話を交わしているうちに、ゆりが小さく“ふぁ…”とあくびを漏らした。

蓮はクスッと笑い、腕を伸ばした。

「…ほら、寝よ。おいで。」

ゆりはスマホを枕元に置き、蓮の胸にすっぽりと身体を預けた。

明日の段取りも、今日の疲れも、すべてを包み込むように、二人の間には、静かであたたかい夜の呼吸だけが流れていた。


もう一緒に暮らし始めて一年半以上。


蓮は絶対毎晩かかさずに、こうして自分の事を抱きかかえながら眠りについている。




それでも私達夫婦は、一度もセックスに成功していない。




ゆりは、蓮の胸に埋めていた顔をふと上げた。
二人の目が合う。
ほんの一瞬、何かを確かめるように見つめ合う。

「……蓮、ちゅ。」

「ん。」

ちゅ。

唇が触れ合う。
ただそれだけ。
でも、その一瞬の温もりが胸の奥まで沁みていく。

蓮はすぐに、ゆりをもう一度そっと抱き寄せた。
言葉はなくても、その腕の力加減がすべてを語っているようだった。


それでも、心のどこかで願ってしまう。


あぁ…
蓮としたいな。


ゆりは、軽く触れるだけのキスに、寂しさと同じくらいの物足りなさを感じた。

ゆりはそっと蓮の頬に手を添えると、自分へと蓮の顔を引き寄せる。
そしてゆりの方から、もう一度ゆっくりと唇を重ねた。
今度は、さっきより長く。


ちゅ…っちゅ……


何度も角度を変えて、ゆりは蓮の唇にキスをくり返した。

蓮は短く息をのむと、そっとゆりの唇から離れ、もう一度、ゆりを胸に抱き寄せた。

「……おやすみ。」

静かな声とともに、蓮の手がゆりの頭をポンポンとやさしく撫でる。
その仕草に、ゆりの胸の奥がかすかに疼いた。


蓮に触れて貰いたいのに。
もっと蓮と触れ合いたいのに。


けれど、蓮はただ静かに抱きしめてくれるだけだった。

抑えきれない熱だけが、ゆりの中に残る。
ゆりは、蓮の背中に回した腕に力がこもり、その身体にしがみついた。
唇を寄せ、首元に顔を埋めると、彼の体温が一気に胸に広がる。
蓮の香りも、体温も、すべてを深く確かめるように。

この距離、この温もり。
こんなにも近くにいるのに、心はどうしてもその先を欲しがってしまう。
胸の奥に、言葉にならない渇きが広がっていく。

ゆりは蓮のシャツの裾を掴み上げていた。

引き留めるように。
離したくないと訴えるように。

胸元へ顔を寄せると、彼の体温がじんわりと伝わってきて、その近さに、心臓の音が急に大きくなる。

「…….っゆり…!」

蓮の声が響く。
けれど、ゆりは答えられなかった。

言葉にすれば、きっと止まれなくなる。
だからただ、彼の胸に額を押し当て、熱を分け合うように、そっと身を寄せる。
触れているだけなのに、胸の奥では、抑えきれない衝動が波打っていた。


こんなに欲しいのに。


そんな気持ちが、呼吸に混じって溢れそうになる。
心も、身体も、ただひとつの願いに支配されていく。

「……〜〜〜っっっ…!!」

蓮は、ゆりの行動に困惑を見せる。
何かを堪えるように息を呑み、一瞬迷うように視線を揺らしたあと、ゆりの身体をそっと受け止めるように抱き寄せた。

「…ったく!しょーがねぇなぁっ…」

そして上体を起こすと、蓮はゆりの身体の間にそっと身を滑り込ませた。
片手で彼女を包み込むように引き寄せ、静かな仕草で衣服に触れる。
間接照明の柔らかな光が、二人の距離を曖昧に溶かしていった。

「…早く寝ねーで、明日現場でバテても知らねぇぞ」

真剣な表情で、熱い眼差しを注ぐ蓮の視線に、ゆりは胸を高鳴らせた。

蓮を見上げるその瞳の奥には恋しさが溶け出して、まるでハートマークが潜んでいるかのように艶めき、うっとりとした潤いに満ちていた。

「……好きなの….蓮、来て…♡」

ゆりは両手を蓮へ伸ばす。
それに導かれるように、蓮はその肩口へとそっと額を預け、それと同時にゆりの腕は蓮の首に回った。



────── 。



言葉にならない息が、ゆりの喉から零れ落ちる。
意識が遠のくほどの感覚に包まれながら、思考は次々と溶けていく。

ただ、蓮の存在だけが、はっきりと胸の奥に残っていた。

身体の輪郭が曖昧になり、どこまでが自分で、どこからが彼なのか分からなくなる。
波のように押し寄せる高まりに、ゆりはただ身を委ねた。

張りつめていた心が、音を立ててほどけていく。

やがて、その余韻が静かに引いていくと、残ったのは、深く息をすることさえ忘れていた自分と、すぐそばで見守る蓮の気配だった。

ゆりは、涙を含んだ瞳を瞬かせながら、天井を見つめる。
胸の奥がじん、と熱を残したまま、ゆっくりと落ち着いていく。

蓮は、その髪を指先で愛おしそうに撫で、そっと唇を寄せた。
吐息を漏らし続けるその唇に、ちゅ、と軽く触れるような優しいキスを落とす。
そしてそのままゆりの隣に横たわり、包み込むように抱き寄せた。

「……?」

ゆりは、ほんの少し迷うように問いかける。

「……私、しようか……?」

その声には、欲よりも、気遣いが滲んでいた。
終わりの姿勢を見せる蓮に、ゆりは問う。

「いや….いいよ。多分無理っぽいから…」

優しい声だった。
けれどその響きに、ゆりの胸の奥に小さな痛みが生まれる。

最近の蓮は、症状が改善するどころか悪化の一途を辿る一方だった。
射精障害どころか勃起すらままならない程で、回復への道はどんどん遠ざかっているように感じた。

薬も、治療も、リハビリも、出来る限りのことはすべて手を尽くした。
それでも、どれも決定的な効果は得られず、二人の間には焦りと静かな諦めのような空気が漂っていた。

それでもゆりは、諦めたくなかった。

「…蓮…大丈夫だよ。きっと良くなるから…諦めずに次の健診で、他に出来る事がないかお医者さんに聞いてみよ?」

「………うん。……もう寝よ」

蓮は短く答えると、ゆりをそっと抱き寄せた。
温もりがあるのに、どこか満たされない静寂が、
ふたりのあいだにゆっくりと広がっていく。

ただ寄り添うだけの夜。
その静けさの中で、ゆりは蓮の胸の鼓動に耳を澄ませていた。



そして、定期検診の受診日が訪れた。

「……勃起不全の原因ですが、蓮さんの場合は“心因性”の可能性が高いと思われます。」

医師はカルテをめくりながら、穏やかな声で続けた。

「心因性……ですか?」

ゆりが確認するように問い返すと、
医師は小さく頷いた

「はい。身体的な検査結果では特に異常は見られません。血流、ホルモン、神経系も数値上は正常です。そして…以前は勃起自体の反応に問題なく、途中から勃起がうまくいかなくなっているとなると、この場合、事故の後遺症による神経障害とは考えにくいです。もし神経的な要因であれば、最初から反応が出にくい状態になりますので。」

医師はペン先を指で回しながら、少し声のトーンを落とした。

「となると、考えられるのは精神的な要因…過度の疲労や、何らかのストレス、プレッシャー、あるいは“また失敗したら”という不安など…」

「はっ!?ねぇよ…!!そんなもん!!」

蓮の声が診察室に響いた。
立ち上がるその勢いに、空気がわずかに揺れる。

「…………」

ゆりは驚愕で一点を見つめたまま、硬直して言葉を失った。

「これは珍しいことではありません……むしろ真面目な方ほど、ご自身を追い込みすぎてしまう傾向があります……心身を少し休ませることが、治療の一歩になる場合も多いんです。」

“治療の一歩が、休むこと。”

その言葉が耳に落ちた瞬間、蓮は胸の奥で何かがほどけるような感覚を覚えた。

「……………」

自分の気持ちとは裏腹に、意識の奥底でじんわりと広がる安堵のようなものに、肩の重みがフッーと抜ける。

静かに息を吐きながら、蓮はもう一度、椅子へと腰を下ろした。

診察室から出た二人の間には、重たい空気が纏わりついていた。

「 ゆ…ゆり、ほら、最近ずっと忙しかったから、一時的に…多分その疲れが…」

蓮がぎこちなく笑いながら言葉を探す。

「パーンチッ!!」

唐突に、ゆりの小さな拳が蓮の頬に押し当てられた。
その力は強くない。
けれど、不思議と温かかった。

「気にせず、また諦めないで頑張ろ!絶対大丈夫だから!」

ゆりはそう言って、満面の笑みを見せる。
そして、ためらいなく蓮の手を取り、ぎゅっと握った。

「信じていれば、願いは叶うからね」

どんな時でも明るく笑い、どんな困難な状況でも、決して諦めなかった人。
植物状態だったあの頃からずっと、ゆりは蓮を支え続けてきた。
その強さと明るさに、幾度となく救われてきた。


それなのにどうしてだろう。

何故か………


蓮の胸の奥で、何かが小さく疼いた。
説明のつかない痛みが、静かに広がっていった。







そしてゆりは、その後も変わらず蓮を気遣い、いつも笑顔で、ただ元気に、明るく毎日を過ごしていた。

医師の診断を気にする素振りも見せず、めげることもなく、まるで何事もなかったかのように、いつも通りの日常を積み重ねていった。

そしてその日も、静かに一日が終わろうとしていた。

「蓮ーっ♡」

寝室の扉が開くと同時に、ゆりはベッドに腰掛けていた蓮に勢いよく飛び込んだ。
ゆりは両腕を回してぎゅっと抱きつき、頬、唇、耳、首筋へ、まるで止まらない雨のように、キスの嵐を次々と降らせていった。

「ちょ…っゆり…どうしたんだよっ」

「んー?今日の運営会議で、蓮の発言があんまりにもカッコよくてキュンってしちゃった♡」

ゆりは蓮の身体に抱きついたまま、その胸に頬をすり寄せ、うっとりとした表情で蓮の顔を見上げた。

「私の旦那さん、なんて素敵なんだろ〜♡って。あ〜チューしたいなぁって思いながらずっと見てた♡」

ゆりは蓮にメロメロの様子で、愛しさを溢れさせた上目遣いで見つめながら言った。

「会議中に…なんつー目で俺を見てるんだよ!お前の頭ん中どーなってんだっ」

「もー大好きすぎるのっ♡」

ゆりはすかさず蓮の両頬に手を添えて、正面からブチューッと唇を押し付けた。

その勢いのまま、蓮をベッドへと押し倒す。
気づけば、ゆりは蓮の身体に跨り、両手を蓮の顔の両側について、じっと見下ろしていた。

「ねぇ…蓮………ちょっとだけ……しよ?」

声のトーンがふっと変わった。
さっきまで弾んでいた明るさが少しだけ静まり、その瞳にはまっすぐな想いが宿っていた。

「…えー…いや、医者に少し休んだ方がいいって…っ言われただろ」

「もう1週間も休んだ!」

「1週間ってお前…休んだうち入るかよ…っ」

口では冗談めかしているのに、声が微妙に上ずっていた。
真っ直ぐに見つめてくるゆりの瞳から逃げるように、蓮は視線を泳がせる。

ゆりは蓮に跨ったまま、そっと背筋を伸ばした。

逃がさない距離で視線を落とし、確かめるように、ゆっくりと息を整える。
その近さに、蓮の鼓動がはっきりと伝わり、ゆりは迷いを含んだまま身を寄せた。

触れているだけで、心が追いついてしまいそうな距離だった。

「…でも…お願い………ちょっとだけ……」

途切れ途切れの吐息まじりの声。
冗談でも甘えでもない、まっすぐな願いが、その瞳に宿っている。
その表情を見た瞬間、蓮の胸の奥が強く締めつけられ、鼓動だけが先走った。


女盛りの二十七歳。


出会った頃とは比べものにならない程に色気を増して、最高に綺麗で、可愛くて、悩殺される程に魅力的だ。
むせ返る程にブワッと醸し出すこの強いフェロモンに、意識は気絶しそうなのに、何の反応も示さない自分の身体は、まるで壊れてしまった機械のように思えた。


完全にバグってる。

男として……完全に終わってる。


そう思った瞬間、蓮の中でスゥーッと何かが冷えていくかのように胸の高鳴りは静かに沈んでいった。

はぁ──。

蓮は天井を見つめて溜め息を漏らすと、そっと起き上がり、ベッドボードの引き出しから、何かへ手を伸ばした。

ゆりは嬉しそうに微笑んで、両手で撫で回していた蓮の身体へ顔を寄せ、そのまま吐息を漏らしながら蓮の胸元へ顔を寄せた。



──── 。



「…蓮…っきて……抱っこ…して…っ」

「……………。」

蓮は言われるがまま、必死で腕を伸ばして求めてくるゆりに、上体を倒した。
蓮に両腕でしがみつきながら、ゆりはその唇にすがるように顔を寄せ、息が触れ合うように重ねた。

そして。
ゆりはそのまま、いつものように蓮の腕の中で、感情が溢れ出すように大きく息を乱した。

「……蓮…大好き……蓮……….蓮…」

暫く身体を震わせた後、ゆりは何度も名前を囁いた。
離れたくないと訴えるように身体を寄せ、潤んだ瞳で彼を見つめながら、その温もりに縋っていた。

「……………。」



胸が……苦しい。



張り裂けそうな胸の痛みを抱えながら、蓮はただ何も言葉を発する事も出来ず、必死に重ねられた唇に応えていた。

そしてゆりは、突然身体を起き上がせると、そのまま衝動に突き動かされるように、蓮へと手を伸ばした。

「…ゆり…っやらなくていいよ」

顔を寄せてきたゆりの肩を押して、蓮は慌てて静止した。

「私が…っしたいの……」

感情が溶けきったような表情で、ゆりは不安げに蓮を見上げていた。

「…いいでしょ……?」

懇願するような上目遣いで、力の無い自分へ唇を寄せてくるゆり。


堪らなく可愛くて、愛しくて、抗う事なんて……

とても出来ない。



「…………。」


蓮は静かに、ゆりの肩から手を離した。




ゆりは蓮へ顔を埋め、その存在を確かめるように包み込んだ。

蓮はベッドへゆっくりと腰を沈め、それに従うように彼女を受け止めた。

ゆりは愛おしそうに目尻を垂れ下げて、蓮を大切に包み込みながら熱い視線で見つめる。

どうすればこの距離を埋められるのか、答えも分からないまま、ただ近くにいようとした。
それでも、どれほど想いを注いでも、返ってくる反応がない現実だけが、二人の間に重く横たわっていた。

こんなに欲しがっている。

こんなに求めている。

それなのに、その想いを満たしてあげる事が叶わない。

情けなくて。
悔しくて。
苦しくて。
悲しくて。

ゆりを心から愛してる。

その笑顔も、声も、仕草も、何もかも愛おしくて、どうしようもないほど惹かれている。

ゆりの全てに心を奪われている。

ゆりに求められれば求められる程、まるで心と身体が切り離されてしまっているかような矛盾が、この胸をズタズタに切り裂いていく。





もう………耐えられない。





「……?」

ゆりの視界に、ポタ、ポタ、と蓮の下腹部に落ちる透明の雫が映った。
思わず蓮の顔を見上げた。

「……っっっ!!」

一点を見つめ、ボーッとした無表情のまま、蓮の頬には涙の雫が両目から溢れ出ていた。
ゆりの驚いた表情に、蓮もようやく自分の涙に気づく。

「あ…れ…なんだ…?」

蓮は、両手のひらで涙を拭い、掌に残った雫を見つめながら静かに呟いた。

「……ご…ごめん……」

ゆりは、零れ出るように言葉を漏らすと、その瞬間に全てを悟った。

胸の奥で何かが弾けて、蓮の首に腕を回して思い切り抱きしめた。

「ごめんっ!!蓮!もうしないから…っごめんね!蓮…っ」



蓮は傷ついていた。


私はいつも、自分の欲求のままに蓮を求めてきた。
自分だけが満たされて、蓮は私の為に、ただ耐えてくれていた。

私の想いを受け止めるだけで、蓮自身が報われることはなかったのに、それでも何度も何度も私は求めてしまった。

愛しているから。
その温もりが、欲しくて仕方がなかったから。

そんなの、辛過ぎるに決まってる。

私が蓮を、求めれば求める程、蓮がどんどん傷ついていく。

このままでは、蓮を壊してしまう。




…もう………やめよう。


これ以上、蓮が欲しいだなんて……とても言えない。




「………っ」


蓮は、ゆりに包み込まれる腕の中で、その温もりに、今まで押し込めていた感情が一気に溢れ出した。

「…っゆり…ごめん……俺……うっ……ふぅ…っうぅ…っ」

掠れた声が、ゆりの肩口に震えるように漏れる。

もう堪えきれなかった。

長い間、心の奥で積もり続けていた痛みと悔しさと愛しさが、一度に崩れ落ちていく。

蓮は泣いた。
声を殺そうとしても嗚咽は零れ出て、涙が止まらなかった。
次から次へと溢れ出る雫が、ゆりの肩を濡らしていった。

ゆりは、その痛みに胸を締めつけられた。
蓮の震える背中を感じながら、自分の頬にも涙が伝う。
何も言わず、ただその背を、そっと撫で続けた。

二人はお互いを抱きしめ合いながら、声を漏らして一緒に泣いた。


< 51 / 61 >

この作品をシェア

pagetop