狂気の魔法

第53話 声


「まったくもう……普段こっちがどんだけ我慢してやってると思ってんだ……」

ゆりはリビングへ戻ると、ブツブツ文句を言いながら、床に散らばった蓮の衣服を拾い集めていた。
ネクタイ、シャツ、ジャケット。
ひとつひとつ拾い上げるたびに、胸の奥で小さなため息がこぼれる。

「……本当に…人の気もしらないで……っあーもう!しんどっ!」

身体の奥にまだ残る熱が、悶々としたまま消えない。
ゆりはその言葉に、自分の抑え込んだ思いを乗せて、欲求を発散させるように呟いた。
声にしていないと、胸の内の衝動がこぼれ出してしまいそうだった。

ブーッブーッブーッ。

突然、蓮のジャケットのポケットからスマホの振動音が響いた。

「……は?なに?」

ゆりは思わず時計に目を向ける。
夜はすっかり更け込んで針はとっくに深夜をまわっている。

この時間にアラームなんてあり得ない。
一瞬、息をのむ。

まさか、こんな時間に誰から?

ゆりは、ジャケットのポケットから、振動し続ける蓮のスマホを取り出した。
画面に浮かんだ文字を見た瞬間──心臓が跳ねる。


桐生司。


なにか、あったのかな。

「…はい。」

《もしもし…あれ、早瀬さん?》

「あ…そうです。」

電話口から聞こえる声は、どこか柔らかく、そして少し酔いの残る響きだった。

《あの…蓮って、もう寝ちゃいましたか?》

「そうですね…先ほど。なにかありました?」

《今、私の鞄を開けたら、蓮の財布が入っていたんです。酔っていたので、蓮が誤って入れてしまったんだと思います。》

「あ……それは……大変申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました。」

《いえ。蓮に、私が預かっていることを明日の朝にでも伝えておいてもらえますか?》

電話越しに、優しく落ちる司の声。
ゆりはその温かい響きに、思わず瞳を閉じて耳を澄ませていた。
すると、つい先ほどリムジンで交わした、あの熱を孕んだ司の視線が瞼の裏に蘇る。

「……かしこまりました…そのように伝えます。」

《ありがとうございます。それでは──》

「…あの……」

司が話を締めようとした雰囲気を事を感じ取った瞬間、ゆりの口が勝手に動いた。
自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれ落ちていた。

「……本日は……主人がお世話になり……ありがとうございました。」

“主人”というゆりの声で発せられた響きは、司の胸を微かに軋ませた。

《そんな…とんでもないです。》

司は、そんな素振りは微塵も感じさせないような笑みを含んだ声色で返事をした。

「すみません…色々とご迷惑を……」

わずかに息を詰めたような沈黙のあと、柔らかな声が落ちる。

《……全然ですよ。蓮は若い頃、もっとやんちゃでしたから。慣れてます》

穏やかな声色。
それを聞いた途端、司の綺麗で優しい笑顔がゆりの脳裏に浮かぶ。
その笑みを思い出した瞬間、先ほどから悶々としていた熱が、ゆりの身体を内側から焦がしていった。

「…桐生さんは…蓮より少し上なだけなのに…本当に大人ですよねぇ……」

競り上がる鼓動に押されるように、ゆりの声は自然とうっとりとした響きを帯びていく。
そのままスマホを耳に当てたまま、司の声に吸い取られ、身体の力が抜けていくようにソファへと深く身を沈めた。

《……蓮は子供過ぎます。早瀬さんの方が……お若いのに、よほどしっかりされていますよ》

耳の奥に届く司の声が、ゆりの神経をくすぐる。
胸の奥で何かが揺れた。
理性が「聞いてはいけない」と告げるのに、感情は、もっとこの声を聞きたがっている。

司の声。
息づかい。
あの夜に幾度となく耳元で落ちた囁きと同じ響き。

全身に小さな震えが走り、ゆりは思わずソファの上で膝を抱え込む。
込み上げる熱を押しとどめるように、腕に力を込めた。

「……そーやって……さらりと人を褒められるところが…桐生さんは………素敵だと思います。」

ゆりの声は、どんどん艶を帯びていく。
その僅かな声色の変化と、先程からのゆりの言動に少し違和感を覚える司は、一瞬だけ言葉を探した。

《…………ありがとうございます》

短い間の後に静かに落ちたその声が、耳元から脳内を刺激する。
次々と溢れ出るかのように、司と何度も過ごした熱い夜の記憶が脳内から全身へと伝っていく。

リムジンの車内で交わした視線。
密着された蓮の裸体。
そして、司との電話。
それらすべてが、封印してきた記憶の蓋を静かに開けていった。

ずっと押し込めてきたのに。
考えないように、考えないようにと、性的な思考をシャットアウトし続けてきたのに。

全身が疼く。
どうしようもない程に燃え盛る。

理性が「やめなさい」と警戒を鳴らすのに、感情が悲鳴を上げている。

もうこれ以上は抑えきれない。

「……………」

ゆりは、思考が追いつかなくなる感覚の中で、抱え込んでいた膝をそっと緩めた。
身体の内側に溜まった熱が、行き場を探すように静かに脈打っていた。

《………早瀬さん?》

電話越しの司の声が、耳の奥を震わせる。
現実と記憶とが曖昧に溶け合う。
その声が心の奥を撫でるたび、理性が少しずつ削がれていく。

抑え込んできた衝動が、内側から溢れ出しそうになる。
呼吸が浅くなり、身体が勝手に反応してしまうことに、ゆりは小さく唇を噛んだ。

「……はい………」

抗いたいのに、抗えない。
頭では止めようとしても、身体はもう別の意思で動いていた。

熱く、痛いほどに。

《…大丈夫ですか?》

司の声が、電話越しに柔らかく降り注いだ。
その瞬間、ゆりの身体がびくりと反応する。
呼吸が止まり、心臓の鼓動だけが耳の奥で響く。
ほんのわずかな刺激に全身が震え、ゆりは思わずスマホを耳から離し、抑えきれない吐息を零した。

「…あ……すみません……っ大丈夫です…」

そして再びすぐにスマホを耳に当て、平然を装い返事した。
司に気づかれぬよう、ゆりは込み上げる感覚に必死で耐えながら、ただ呼吸を整えようとしていた。

《………ではまた、職場でお会いしましょう》

「…あ………」

天井を仰ぎ、感情の波に翻弄されていたその瞬間、通話の終わりを告げる気配が耳を掠め、ゆりの喉から抑えきれない声が漏れた。

《……はい》

司の静かな返事が返ってくる。
その穏やかな声に、ゆりの胸の奥で何かが爆せた。

《………どうかされましたか?》

司は、ゆりの引き止めに対して素直に次の言葉を待った。

「………あの……」

呼吸を止めながら司の声を耳に押し当てて、すぐにスマホを離して大きく吐息を吐いたあとに、またスマホを耳に当てて返事をする。

身体の奥で渦巻く熱が限界に近づき、ゆりはソファに身を沈めた。
もう抑え込めない感覚が、波のように押し寄せてくる。

そしてその熱に浮かされながら、ゆりは理性の堤防が決壊するように、衝撃の言葉を囁いた。



「……もう少し………話しをしていても………いいですか………」



その瞬間、司の心臓がドクンと跳ねた。

あまりにも不意打ちで、あまりにも真っ直ぐな声音。
酔いの残る頭の奥を、鋭い衝撃が駆け抜けた。

《………………。》

思わず絶対する。

一瞬、司の脳が理解を拒む。

予想だにしなかったゆりからの驚きの言葉に、その瞳は揺れて、目を丸くして硬直した。
次に来たのは、困惑でも警戒でもない。
説明のつかない動揺だった。

《…………………どうしたんですか……?》

長い沈黙の後、司は現実を確かめるかように聞いた。
それは、冷静さを保とうとする意思の残響のようでもあった。

「…………」

ゆりは息を殺し、耳を澄ませた。
司の優しい声が電話越しに響くたび、胸の奥で何かが爆ぜるように震えた。
理性はとっくに限界を超え、身体の奥で熱だけが膨らみ続けていた。
ゆりはその波に抗うこともできず、ただ小さく震えていた。



彼女の様子がおかしい。

その異変を、司は確かに感じ取っていた。
しかし、何故おかしいのかがわからなかった。
でも、ただの電話越しのやり取りとは、明らかに違っていた。

《……………………何か……あったんですか……?》

静寂を切り裂くような司の声。
その問いには、確信と戸惑い、そして、抑えきれない何かが滲んでいた。
立て続けに耳を撫でられる声の刺激と、数ヶ月振りに長く押し殺してきた感覚が一気に浮かび上がり、ゆりは限界が近いことを悟った。

「…ぃ………いえ……っ……………はぁぁ…………」

スマホ越しに聞こえた震えるような声と、その後に聞こえたゆりの溜め息は司の胸を締め付けた。
彼女の感情がわからない。
泣いているのか、苦しんでいるのか、それとも別の感情なのか。

沈黙は続いた。

そして司は、耐えきれない程の衝動に、とうとう心の声を言葉にしてしまった。



《……………………これから……会いますか……?》



「………!!」


張り詰めていた感覚が、一瞬で凍りついた。
心臓が爆ぜるように鳴り、全身の血が一気に沸き立つ。
額から、背中から、じわりと汗が滲み出す。

《……………》

「……………」

息が詰まるような沈黙。
電話越しの二人の間にはただならぬ緊張感が張り詰めていた。
司は、口に出した瞬間に後悔した。
言ってはいけない一線に踏み込んでしまった。

なぜなら、彼女の声が、あまりにも震えていたから。

けれど、もう遅かった。

“いつもの彼女なら、すぐに否定するはずだ。”
そう思って待つのに、返ってこない。
何故、即答しないのか。
何故押し黙っているのか。



まさか………拒絶ではなく、逡巡なのか……?

悩む余地が…あるとでも……?



司は固唾を呑み、呼吸を止めたまま、電話の向こうから届く彼女の声を待った。



「………………………いや………それは………」



ゆりの静かな声が零れた。
そう言うや否や、喉の奥が詰まり、熱いものが込み上げて、瞳の縁ににジワッと涙が滲んだ。

《…………冗談ですよ。》

少しの沈黙の後、司はゆりの言葉の続きは待たなかった。
言いかけて、言葉を飲み込む彼女の様子に何かを悟り、フッと微笑むような優しい声で、穏やかに続けた。

《本日は酔ってしまったので……酔っ払いの戯言だと思ってください。今の会話もどうか忘れて。》

静かな声。
まるで傷口にそっと手を添えるようなその暖かい響きが、ゆりの胸にじんと染み渡っていった。

ゆりはようやく我に返る。
司の声を聞きながら、自分で自分を慰めるとは、なんて不埒なことか。

そしてなんて、虚しいんだろう。

突如包まれる寂しさと悲しさが胸を満たし、ゆりの頬を、熱い涙が静かに伝った。
そして空気を読んで、一瞬で自分の事を気遣ってくれた司の優しい言葉が驚くほど胸に沁みた。

「……わかりました…」

溢れる涙を気付かれないように、呼吸を止めて静かに答えた。

《………おやすみなさい…》

「…おやすみなさい」

三度目の終わりの言葉。
今度こそ、ゆりはそれを受け入れた。
通話が切れた瞬間、耳に残る余熱だけが、いつまでも消えなかった。

「……ふっ……うぅ……っひっく…」

通話が途切れた瞬間、世界が音を失った。
静まり返ったリビングに、ゆりの嗚咽だけが小さく響く。

胸の奥が、どうしようもなく痛い。
自分の中にこんな醜い衝動があったなんて、信じたくなかった。

蓮を愛している。
心の底から、誰よりも愛しているのに。

その“愛している”が、どうしてこんなにも苦しいのだろう。

司の声を聞いた瞬間に、身体の奥で疼いた。
蓮を想っているはずなのに、違う誰かの声で満たされようとした。

最低だ。
そんな自分が、心底嫌になった。

「……っぐす……うぅ……はぁ……っ」

呼吸のたびに、喉の奥が焼ける。
涙が次から次へと頬を伝い、止めようとしても止まらない。

蓮は苦しんでいる。
誰よりも、もがきながら前を向いているのに。
その隣で、私は何をしているんだろう。
私は蓮に何もしてあげられない。
支えたいのに、癒したいのに、どうして届かないんだろう。

蓮が欲しい。
触れたい。
あの温もりが恋しい。
でも、その願いが叶わない現実が、こんなにも残酷だなんて。

溢れる想いの行き場をなくした熱が、胸の奥で渦を巻く。
理性で押さえつけようとしても、感情がそれを裏切る。

愛しているのに、苦しい。
愛しているから、苦しい。

どうすればいいのか分からない。
この想いを、どこにしまえばいいのか。
どうすれば蓮も、自分も、壊さずにいられるのか。

ゆりは、両手で顔を覆い、震える肩を抱きしめるように小さく丸まった。
もう誰にも見せられない涙を、一人きりのリビングで、ただ、こぼし続けるしかなかった。






その後もゆりは、自分の中に渦巻く苦しみを押し殺しながら、何事もなかったように笑顔で、いつも通りの生活を続けていた。
蓮を思いやり、どんなに心が辛くても、決してそれを見せなかった。

だが胸の奥では、静かな警鐘が鳴り続けていた。
精神のどこかで、黄色信号が点滅している。

いつまた自分が欲望に支配されてしまうかという危機感を覚えていた。
ゆりの漠然とした不安は日に日に強まり、どんどん恐怖に包まれていった。

「……ねぇ…」

就寝前のリビングには、間接照明だけが柔らかく灯り、静まり返った空気の中で、食器を洗う水音だけが小さく響いていた。

ゆりは、シンクで洗い終えたカップをそっと伏せ、濡れた手をタオルで拭きながら、カウンター越しに蓮へと視線を向けた。

「んー?」

ノートパソコンに視線を落としたまま、蓮が気の抜けた返事をする。
その穏やかな声に、ゆりは一瞬ためらい、けれど思い切って口を開いた。

「もうすぐ半年くらいになると思うんだけど……そろそろまた…その…試してみたらどうかな」

「……………」

カタカタと鳴っていたキーボードの音が止まる。
蓮はノートパソコンを見たまま、ぴたりと固まった。
数秒の沈黙が落ちたあと、パッと顔を上げてゆりに向き直る。

「半年経つ?もうそんな?」

「そうだよっ!だってもう夏からしてないじゃん」

少し拗ねたように言うゆりの声に、蓮は言葉を探すように言い淀みながら答えた。

「……でも…医者は暫くその事を忘れて休んだ方がいいって言ってたし…」

「それっていつまで?」

一瞬、空気が止まる。
自分の口から出たその言葉に、ゆりの胸がズキリと痛んだ。

違う。
こんな言い方、したくない。
こんなふうに蓮を責めるつもりなんて、少しもないのに。

そう思う気持ちとは裏腹に、心の奥底に押し込め続けてきた本音が、抑えきない衝動となって顔を出してしまう。

「……いつまでって…言われても…………」

畳み掛けるようなゆりの問いに、蓮の表情が曇った。
蓮はどんどん追い詰められていく。

「………………」

「………………」

二人の間に重たい沈黙が落ちる。
互いに目を逸らし、言葉の代わりに、リビングの時計の秒針だけが淡々と音を刻む。

ゆりは静かに、掠れる声で呟いた。

「…………………………もう諦めちゃうの…?」

「そんな事言ってねぇだろ!」

蓮の声が、鋭く跳ねた。
静かな部屋にその音が反響して、二人の間の空気が一瞬で張り詰める。

「だったら頑張ろうよ!何もしなかったら、ずっとこのまま一歩も進めないよ!諦めさえしなければ、きっといつか絶対…」



「そーゆうのが、重いんだよっ!!」



蓮がゆりの言葉を遮った瞬間、世界が止まったようだった。



頑張ろう。
大丈夫。
諦めないで。
信じていれば。



いつだって、ゆりは屈託の無い笑顔でそうやって、真っ直ぐで、明るくて、眩しかった。
これまでのどんな困難の時も、数え切れない程に自分に光を与え、照らして、支え続けてくれてきたゆりの言葉達。



そんなゆりの前向きさ、ひたむきさ、純粋さが、今は鋭い刃のように重たく痛い。



「………………」


ゆりは、蓮の言葉に驚愕したような表情で、一瞬何を言われたのか理解が追いつかず、その場に立ち尽くしたまま、何も言葉を返せなかった。

「お前には、絶対わかんねーよ!俺の気持ちなんか!」

その声は、怒鳴り声というよりも、叫ぶような、悲鳴のような響きを帯びていた。

男としてのプライドも、誇りも。
何もかもがズタズタに引き裂かれていく。
どれだけ自分が情けなくて。
どれだけこの現実が悔しいか。

でも、それをどうすることもできない。

「……自分だけが……辛いと思ってる?」

ずっと笑顔で耐えてきた。
蓮を傷つけたくなくて。
私の苦しみも、悲しみも、どれだけ辛い気持ちで我慢してきたかも、微塵も蓮に悟られないように必死で隠してきた。

それは、蓮の心を守りたかったから。

「…いや………」

ゆりの問いに、蓮は目を伏せた。




でも、私はいつまで…

笑顔で耐え続けていればいいの?




「私だって苦しいよっっっ!!!!」



ゆりの隠し続けた感情が、とうとう決壊した。

蓮は一瞬戸惑うも、それでも言葉を止められなかった。

「……そーやって言われて、俺に何か出来るのかよ」

蓮の胸の奥に溜め込まれていた想いも、一気に溢れ出した。

「俺は、お前に何をしてやれんだよっ!!!何もしてやれねーから辛いんだろ!!わかれよ!!」

愛しているのに応えてやれない。
愛しているのに、ゆりを苦しみから救い出してやれない。

“俺のせいで苦しませている”。

その現実が、どれほど痛いか。

ゆりの笑顔を守りたい。
ゆりを幸せにしたい。

あまりにも無力で、役立つな自分が許せなくて、憎くて、恨めしくて、もう狂いそうだった。

「……もういい」

ゆりのその一言は、風に消えるほど小さく、それでも決定的な響きを持つ言葉だった。

「……………」

ゆりの諦めの言葉に、蓮は何も答えられなかった。
息を呑む音すら、二人の間では重たく響く。

「蓮と一緒に寝るの…辛いから。寝室を別にする」

「ふざけんじゃねーよ!!そんなの許さねぇっ!!」

反射的に、蓮の声が弾けた。
その声音には怒りよりも、恐れに似た震えが滲んでいた。

「だったら、しろよっ!!!」

ゆりも負けじと叫ぶ。
互いの言葉がぶつかり合い、空気が張り裂ける。

「…お前、バカじゃねーの?」

蓮の吐き出すような言葉。
けれど、その裏にあるのは苛立ちではなく、どうしようもない悲しみ。

「したくなるから辛いんだよ!!蓮の事が大好きだから!!もうこれ以上我慢できないの!!」

「…………っ」

蓮は顔を歪めた。
大好きというゆりの言葉は、悲しい程蓮の心に響いた。

「蓮のバカ!!もう二度と、一緒に寝てあげないから!!」

その言葉を最後に、ゆりは踵を返してリビングを出て行った。

バンッ!!!

ゲストルームの扉が、乾いた音を立てて閉まった。





その晩ふたりは、各々の胸に重たい感情を抱えたまま、一緒に暮らして初めて、別々の寝室で一夜を過ごした。

二人の胸を締め付けていたのは、お互いの温もりをどうしようもなく恋しがる寂しさだった。





そして朝。

ゆりはキッチンに立ち、静かにコーヒーを淹れていた。
湯気の立ちのぼる音だけが、静まり返った部屋に響く。
眠っていないような、重たい目の奥で、ただコーヒーメーカーの中の黒を見つめていた。

やがて、廊下からゆっくりとした足音が響く。
その音が近づくたびに、ゆりの心が少しずつ跳ねた。

「……おはよう」

先に声を掛けたのはゆりだった。
けれどその声には、いつもの明るさも軽さもなかった。

「あ……おはよう」

蓮も小さく返す。
視線が一瞬だけ交わるが、その一瞬がやけに長く感じられた。

ふぁ……と蓮が小さなあくびをこぼしながら、ソファへと歩いていく。
その前に、ゆりがススス…と立ち塞がった。

何も言葉を交わさないまま、ゆりは蓮の胸にしがみつくように腕を回した。

ぎゅ……っ。

その細い腕の中に、夜の寂しさと涙が全部詰まっているようだった。
ゆりは蓮の胸に頬を擦り寄せ、胸の鼓動を確かめるように抱きしめた。

蓮の胸は、ぎゅっと締め付けられた。
その体温が、まるで心の奥の氷をゆっくり溶かしていくようだった。
堪らず、蓮もゆりの肩を強く抱きしめ返した。

片手をゆりの頭に添え、髪を指先で撫でる。
喉の奥が熱くなって、言葉が震える。

「……ゆり……ごめん。俺が悪かった。」

その声は掠れていた。
でも、その一言に、昨夜の痛みも、張りつめた夜も、すべてが溶けていくようだった。

「…私の方こそ悪かったの。蓮…本当に…ごめんね…」

ゆりは一度だけ鼻を啜り、はぁ…と震える息を吐いた。
涙で濡れた頬が、蓮の胸元をかすかに濡らす。

蓮がゆりを見下ろすと、その動きに合わせて、ゆりも静かに顔を上げた。
二人のせつない視線が触れ合った瞬間、言葉よりも先に、唇が自然と近づいていった。

ちゅー、ちゅ、ちゅーーー。

毎朝交わしてきた軽い“おはようのキス”よりも、少し長くて、少し熱くて、少し泣けるほど優しいキスだった。

そして唇が離れたあと、二人はお互いを見つめたまま、心の奥から湧き出るように、言葉をこぼした。

「俺…何があってもゆりのこと大好きだから。世界で一番愛してる。それだけは絶対だから。」

「…っ私も…絶対絶対に、蓮を世界で一番愛してる」

その言葉のあと、二人の間を朝の柔らかな光が包み込む。
差し込む陽だまりの中で、ようやく取り戻した温もりを確かめ合うように、二人は静かにもう一度抱きしめ合った。

それから、早朝に使用人が準備していったルームサービスのような朝食を挟み、二人は、何事もなかったかのように、いつも通りの時間を過ごした。

テーブルの上には湯気を立てるカップ、焼きたてのパン、スクランブルエッグ。
聞こえるのは、食器が触れ合う小さな音と、鳥のさえずりだけ。

そんな中で、蓮はふと手を止め、静かに口を開いた。

「……ゆり、あのさ」

ゆりはパンをナイフで切り分けながら顔を上げた。

「うん?」

蓮は一呼吸置いてから、真っ直ぐに視線を合わせた。

「ゆりが辛かったら…無理して俺と一緒に寝なくてもいい。もし、その…寝室を別にしたかったら、ゆりの好きにしていい。」

その声には、優しさと同時に、どこか自分を責めるような響きがあった。
ゆりはしばらく黙ったまま、ナイフとフォークを静かに置いた。
そして、ゆっくりと視線を下げて小さく息を吸う。

「……じゃあ……少しの間、そうさせてもらうね。」

手元の皿を見つめながら、微笑むような口元。
けれどその目は伏せられたままだった。

蓮の胸に、チクリと小さな痛みが走る。
それでも、彼は精一杯の明るさを装って言った。

「お、俺は…!いつでも待ってるから!だから、ゆりが大丈夫そうな時は…いつ来てくれても構わないから!」

ゆりは笑顔で頷いた。
そして、もう一度ナイフを手に取り、パンの端をそっと切り落とした。

小さく響くナイフの音が、二人のあいだの沈黙を、まるで壊れやすい硝子のように震わせていた。




“大丈夫そうな時”って、なんだろう。


それは、一体どんなことが起きたら、そうなれるんだろう。

何の解決策も見当たらないこの現状で。
このまま自然に“大丈夫”になれる事なんて、あるはずがない。

私の欲求が、他の誰かで満たされた時?
それとも私が、蓮への愛を感じなくなった時?

どちらも、考えるだけで胸が痛い。




それはどちらも、最悪の結末でしかない。



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