君に届くのは、10分の1だけ
第9章 夢の中のひと
律に会えたのは、その三日後だった。
連絡は来ていた。
今日は少し楽だとか、
検査のあとでだるいとか、
眠っていたとか。
でも、文字だけでは分からないことが増えていた。
だから、病院で会えると決まったとき、
私は少しだけ安心して、
同じくらい怖くなった。
会ってしまったら、今の律をちゃんと見てしまうからだ。
病院の受付で名前を書いて、案内された階まで上がる。
白い廊下は静かで、歩く音だけがやけに響いた。
病室の前で、一度だけ足が止まる。
深呼吸をしてから、そっと扉を開けた。
律はベッドの上にいた。
窓際。
薄いカーテンの向こうに、夕方の光がにじんでいる。
見た瞬間、胸の奥がきゅっとなった。
ちゃんと律だった。
顔も、目も、髪も、何も変わっていないように見える。
なのに、少し違った。
白いシーツの上にいるせいかもしれない。
病衣のせいかもしれない。
でもたぶん、それだけじゃない。
そこにいるのに、前より少し遠い。
「……水瀬」
律が先に気づいて、少しだけ笑った。
その笑い方は、いつもの律だった。
だから余計に痛かった。
「来た」
そう言うと、律は小さくうなずいた。
「来たね」
私はベッドの横の椅子に座る。
近くで見ると、やっぱり少し顔色が悪い。
痩せた、というほどではない。
でも、頬のあたりが少しだけ細く見える。
たった数日なのに、と思う。
たった数日で、そう見えてしまうことが怖かった。
「今日はどう?」
聞くと、律は少し考えてから答える。
「昨日よりまし」
「でも、なんかずっとだるい」
その言い方が、変に軽かった。
前の律なら、だるいくらいでこんなふうに横になったりしなかったと思う。
そう思ってしまって、私はうまく笑えない。
「……そっか」
それしか言えない。
律は天井を見たまま、少しだけ息をついた。
「病院って暇だよね」
「寝ても寝てもまだ時間あるし」
「でも、ちゃんと休めるならそのほうがいいよ」
「うん」
素直な返事だった。
そのことが少しだけうれしくて、
同時に少しだけ苦しかった。
無理に笑ったり、強がったりする元気も、
もう前ほどはないのかもしれないと思ったからだ。
しばらく、たわいない話をした。
学校のこと。
先生のこと。
課題のこと。
クラスで配られたプリントのこと。
なるべく普通の話をした。
でも、どの言葉の下にも、
一ヶ月、という見えないものが沈んでいる気がした。
それに触れたら壊れる気がして、
私はずっとその上を歩くみたいに話していた。
律もたぶん同じだった。
ときどき言葉の途中で少しだけ止まる。
それでも何でもない顔で続ける。
その感じが、余計につらかった。
しばらくして、律の返事が短くなっていった。
最初は気のせいかと思った。
でも違った。
目が少しずつ重そうになっていく。
声も、前よりさらに低くなる。
「眠い?」
私が聞くと、律は小さく笑った。
「ちょっと」
「薬飲むと、すぐ眠くなる」
「じゃあ、寝たほうがいいよ」
言いながら、本当は少し嫌だった。
まだ帰りたくない。
まだ起きていてほしい。
そんな子どもみたいな気持ちが胸の奥にあった。
でも、それを言うのは違う。
律はうなずいて、少しだけ体勢を変えた。
「水瀬」
「なに」
「来てくれてありがと」
その声が、さっきまでよりずっとやわらかかった。
眠る前の声だった。
私は首を振る。
「……ううん」
本当は私のほうが言いたいのに、と思う。
会わせてくれてありがとう。
起きててくれてありがとう。
まだここにいてくれてありがとう。
でも、どれも言葉にすると壊れそうで、
結局そのまま飲み込んだ。
律は目を閉じる。
呼吸が、少しずつ深くなっていく。
私はその顔を見ていた。
眠っているだけだ。
それは分かっている。
でも、静かすぎて怖かった。
置いていかれることに敏感なのかもしれないと思う。
昔のことも、今のことも、全部混ざっている。
だから私は、気づかないうちに手を伸ばしていた。
ベッドの上の律の手に、そっと触れる。
少し冷えていた。
びくっとするほどではない。
でも、前より確かに温度が低い気がした。
私は指先で軽く包む。
律は眠ったまま、少しだけ指を動かした。
それだけで胸の奥がいっぱいになる。
ここにいる。
まだ、ちゃんといる。
私はその手を握ったまま、椅子に深く座り直した。
このまま少しだけ。
律がちゃんと眠るまで。
そう思っていた。
連絡は来ていた。
今日は少し楽だとか、
検査のあとでだるいとか、
眠っていたとか。
でも、文字だけでは分からないことが増えていた。
だから、病院で会えると決まったとき、
私は少しだけ安心して、
同じくらい怖くなった。
会ってしまったら、今の律をちゃんと見てしまうからだ。
病院の受付で名前を書いて、案内された階まで上がる。
白い廊下は静かで、歩く音だけがやけに響いた。
病室の前で、一度だけ足が止まる。
深呼吸をしてから、そっと扉を開けた。
律はベッドの上にいた。
窓際。
薄いカーテンの向こうに、夕方の光がにじんでいる。
見た瞬間、胸の奥がきゅっとなった。
ちゃんと律だった。
顔も、目も、髪も、何も変わっていないように見える。
なのに、少し違った。
白いシーツの上にいるせいかもしれない。
病衣のせいかもしれない。
でもたぶん、それだけじゃない。
そこにいるのに、前より少し遠い。
「……水瀬」
律が先に気づいて、少しだけ笑った。
その笑い方は、いつもの律だった。
だから余計に痛かった。
「来た」
そう言うと、律は小さくうなずいた。
「来たね」
私はベッドの横の椅子に座る。
近くで見ると、やっぱり少し顔色が悪い。
痩せた、というほどではない。
でも、頬のあたりが少しだけ細く見える。
たった数日なのに、と思う。
たった数日で、そう見えてしまうことが怖かった。
「今日はどう?」
聞くと、律は少し考えてから答える。
「昨日よりまし」
「でも、なんかずっとだるい」
その言い方が、変に軽かった。
前の律なら、だるいくらいでこんなふうに横になったりしなかったと思う。
そう思ってしまって、私はうまく笑えない。
「……そっか」
それしか言えない。
律は天井を見たまま、少しだけ息をついた。
「病院って暇だよね」
「寝ても寝てもまだ時間あるし」
「でも、ちゃんと休めるならそのほうがいいよ」
「うん」
素直な返事だった。
そのことが少しだけうれしくて、
同時に少しだけ苦しかった。
無理に笑ったり、強がったりする元気も、
もう前ほどはないのかもしれないと思ったからだ。
しばらく、たわいない話をした。
学校のこと。
先生のこと。
課題のこと。
クラスで配られたプリントのこと。
なるべく普通の話をした。
でも、どの言葉の下にも、
一ヶ月、という見えないものが沈んでいる気がした。
それに触れたら壊れる気がして、
私はずっとその上を歩くみたいに話していた。
律もたぶん同じだった。
ときどき言葉の途中で少しだけ止まる。
それでも何でもない顔で続ける。
その感じが、余計につらかった。
しばらくして、律の返事が短くなっていった。
最初は気のせいかと思った。
でも違った。
目が少しずつ重そうになっていく。
声も、前よりさらに低くなる。
「眠い?」
私が聞くと、律は小さく笑った。
「ちょっと」
「薬飲むと、すぐ眠くなる」
「じゃあ、寝たほうがいいよ」
言いながら、本当は少し嫌だった。
まだ帰りたくない。
まだ起きていてほしい。
そんな子どもみたいな気持ちが胸の奥にあった。
でも、それを言うのは違う。
律はうなずいて、少しだけ体勢を変えた。
「水瀬」
「なに」
「来てくれてありがと」
その声が、さっきまでよりずっとやわらかかった。
眠る前の声だった。
私は首を振る。
「……ううん」
本当は私のほうが言いたいのに、と思う。
会わせてくれてありがとう。
起きててくれてありがとう。
まだここにいてくれてありがとう。
でも、どれも言葉にすると壊れそうで、
結局そのまま飲み込んだ。
律は目を閉じる。
呼吸が、少しずつ深くなっていく。
私はその顔を見ていた。
眠っているだけだ。
それは分かっている。
でも、静かすぎて怖かった。
置いていかれることに敏感なのかもしれないと思う。
昔のことも、今のことも、全部混ざっている。
だから私は、気づかないうちに手を伸ばしていた。
ベッドの上の律の手に、そっと触れる。
少し冷えていた。
びくっとするほどではない。
でも、前より確かに温度が低い気がした。
私は指先で軽く包む。
律は眠ったまま、少しだけ指を動かした。
それだけで胸の奥がいっぱいになる。
ここにいる。
まだ、ちゃんといる。
私はその手を握ったまま、椅子に深く座り直した。
このまま少しだけ。
律がちゃんと眠るまで。
そう思っていた。