あなたが愛しすぎて…
昨夜の告白、彼が去り際に見せたあの絶望。すべては悪い夢だったのではないか。そう錯覚しそうなほどの静寂が、家の中を満たしていた。
重い体を引きずるようにリビングへ向かうと、そこには信じられない光景があった。
章男は、いつも通り、いや、いつも以上に丁寧な動作で朝食を並べていた。
私の好きな厚切りのトースト、丁寧に淹れられたコーヒー。彼は私の気配に気づくと、ゆっくりと振り返り、穏やかな……あまりにも穏やかな笑みを浮かべた。
まるで、昨夜の私の独白など、この世界のどこにも存在しなかったかのように。
「……は、お……う」
私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
彼は、手話を使わなかった。
震える喉を無理やり震わせ、掠れた、しかし確かな意思を持った音を絞り出す。
「お……はよ……え、り」
「章男、昨日のこと……」
私が手話で語りかけようとすると、彼はあからさまに視線を逸らした。
私の手を、見ようとしない。私の意思を、受け取ろうとしない。
彼は代わりに、自分の喉仏に指先を添え、鏡の中の自分に言い聞かせるように、再び口を開いた。
「パ、ン……やい、た……よ。た、べ……ろ」
一音一音が、喉の奥で小石が擦れ合うような痛々しい音だ。
彼は、私が「声」を求めていると思い込んでいる。だから、手話という二人の共通言語を自ら捨て、私が最も残酷に感じている「音」の世界へ、強引に飛び込もうとしているのだ。
「章男、やめて。手話で話して」
たまらず彼の腕を掴む。けれど章男は、その私の手を優しく、けれど拒絶するように解いた。
彼の瞳は、笑っているのに、その奥は濁った硝子玉のように何も映していない。
私の不倫も、あの人の声への憧憬も、すべてを「聞こえなかったこと」にすることで、彼はこの箱庭を維持しようとしている。
「……あ、き……ら。き、の……う……う、み……に、い、こ……う」
週末海へ行こう。そう言いたいのだと、必死に動く彼の唇の形で理解した。
彼は、壊れてしまった、私を罵倒してくれたほうが、まだ救いがあった。
何事もなかったかのように、無理な発声を繰り返す章男。
彼が「声」を発するたびに、私の罪は増幅され、逃げ場を失っていく。
彼は自分の心を殺し、その残骸の上に、歪な「普通の日常」を再建しようとしていた。
食卓に置かれたコーヒーから、湯気が白く立ち上っている。
章男は椅子に座り、私の分までトーストを切り分けながら、ひたすら喉を鳴らし続けている。
「い、い……て、ん、き……だ、ね」
外は、冷たい雨が降り始めていた。
それすらも彼には「聞こえていない」のだ。
自分の望む世界、自分の望む私、自分の望む音だけが、今の彼の真実だった。
私は、差し出されたトーストを口に運ぶことができなかった。
目の前にいる男が、あまりにも遠い、得体の知れない生き物に見えて、私はただ立ち尽くすしかなかった。
章男の指先が、自分の喉を何度も、確認するように撫でる。
彼は、絵里が昨夜声に揺れていると言った告白を、拒絶ではなく「自分への課題」として受け止めてしまったのだ。
「え、り……な、か……ない、で」
掠れた、震える声。章男は必死に、絵里の頬に伝わる涙を指で拭う。
彼の目は、復讐心など微塵もなく、ただ迷子の子供が親を求めるような、純粋な光を湛えていた。
「……が……が、ん……ば、る……から」
彼は手話を使わない。それは絵里を無視しているのではなく、「手話に頼る自分」が、絵里を寂しくさせた原因だと思い込んでいるからだ。
自分が「声」を出せるようになれば。自分が「音」を届けられるようになれば。
そうすれば、絵里はもう外の男の声を欲しがらなくて済む。彼女を悲しませずに済む。
「あ、き……ら、も、う……い、いよ。苦しいでしょ」
絵里が泣きながら、手話で「やめて」と訴えても、章男はただ困ったように笑い、彼女の手を包み込む。
「て、は……な、し。こ、え……で、い、い……よ」
彼は、自分たちの共通言語だった手話を、「絵里を不自由にさせていた呪縛」だと定義し直してしまった。
だからこそ、彼は自分の喉が潰れようとも、絵里が望んだ(と彼が信じている)「声のある日常」を必死に構築しようとする。
「パ、ン…。た、べ……ろ」
「……もう冷めちゃったよ」
章男は、絵里の言葉を読み取ると、申し訳なさそうに、でもどこか嬉しそうに目を細めた。
自分の拙(つたな)い「音」に、絵里が「声」で応えてくれた。ただそれだけのことが、今の彼にとっては、壊れかけた世界を繋ぎ止める唯一の希望なのだ。
彼はすぐさま椅子から立ち上がり、絵里の皿を両手で包み込むようにして持ち上げた。
「あ、た……た、め……な、お、す……よ」
キッチンへ向かう彼の背中は、どこか誇らしげで、それでいて危うい。
トースターのタイマーを回すカチカチという音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。
章男は、焼き上がるのを待つ間も、鏡のように磨かれた換気扇のフードに映る自分の顔を見つめ、何度も喉に手を当てていた。
口の形を確認し、音をなぞる。
絵里が愛した「あの人の声」にはなれなくても、一歩でも、一音でも、彼女の住む世界へ近づこうとする執念。
「……章男、もう、いいよ。そんなに無理しなくていいから」
絵里が背後から声をかけるが、章男は振り返らない。
いいや、振り返ることができないのだ。
今、手話を使って「大丈夫だよ」と微笑んでしまえば、昨日までの自分に戻ってしまう。
声を持たず、彼女を寂しがらせ、外の世界へ視線を向けさせてしまった「欠陥のある自分」に。
「……し、あ……わ、せ……に、す、る……か、ら」
トースターが、チーンと軽快な音を立てた。
章男は、熱々のトーストを再び皿に乗せ、まるで壊れ物を運ぶような手つきで食卓へ戻ってくる。
「ほ、ら……あ、つ、い……よ。た、べ……て」
湯気の向こう側で、章男の瞳が潤んでいる。
それは絵里への献身という名の、逃げ場のない檻。
彼は、絵里がこのパンを一口食べるたびに、自分の喉が一つ潰れることなど、厭わないと思っている。
絵里は、熱を帯びたトーストを手に取った。
指先に伝わる熱さが、今の彼女には、章男の痛々しい決意そのもののように感じられて、胸の奥が焼けるように熱くなった。
震える声で必死に紡がれる言葉。その一つひとつが、私の胸を鋭利なナイフで切り裂いていく。
帰宅してからも章男は、まるで指先から言葉を失ってしまったかのようだった。
リビングの薄暗い灯りの下、彼はソファの端に座り、ただじっと自分の膝を見つめている。いつもなら、その雄弁な指先が空を舞い、今日の出来事や、夕食の献立、あるいは何気ない愛の言葉を綴るはずだった。
しかし、今の彼の両手は、固く結ばれたまま微動だにしない。
絵里が何度か彼の視界に入ろうとしても、章男は頑なに視線を合わせようとしなかった。それは拒絶というよりも、自分という存在がこれ以上、彼女の世界に波風を立てないようにと願う、過剰な自制のように見えた。
「章男……何か、飲む?」
絵里の問いかけに、彼は小さく首を横に振るだけだ。「いらない」という手話さえ、今の彼には許されない贅沢だと思っているのかもしれない。
「もうやめて……!」
「章男の声を聞きたいわけじゃないの…」
耐えきれず、私は叫んでいた。
「お願い、苦しめないで。そんなこと、しなくていいの……!」
私の拒絶に、章男の動きが止まる。彼の瞳には、みるみるうちに涙が溜まっていったが溢れそうになる雫を必死に堪え、震える唇で声を絞り出した。
「な、なか、なおり……したい。絵里と、もとどおりに……あ、い、してる」
その姿は、あまりにも無垢で、あまりにも残酷だった。
「喧嘩なんてしてない……。悪いのは、全部、私なの……!」
私はそれ以上章男の顔を見ることができなかった。
溢れそうな涙を堪え、ただ静かに傷ついている章男をその場に残したまま、私は逃げるように家を飛び出した。夜の冷たい空気が肌を刺す。背後にあるはずの温かな光から遠ざかるほどに、私は自分がどれほど取り返しのつかない場所まで来てしまったのかを、突きつけられていた。